第十五話「鰻と小町」
読んでくださる方に、合う作品であることを祈りつつ。
「土用の丑の日うなぎの日、食すれば夏負けすることなし」
とは、彼の有名な発明家、平賀源内が『旬を過ぎた夏に、鰻が売れない』と困っていた鰻屋に教えた謳い文句なのだが、そもそも、鰻の栄養価が高いことは古くから知られており、万葉集にも『夏痩せには鰻』と、詠まれているくらいで――。
浄蓮の滝から、東海道へ戻った小次郎は、三島に居た。
本来ならば、狩野川を沿って北上し、先の沼津へ行くつもりだったのだが、鰻の匂いに釣られて、三島へ戻って来てたのである。
本音を言えば、有名な三島の鰻は食べておきたい。
建前としては、箱根峠で蛇の妖怪に襲われ疲労困憊しており、この先も何があるか解らない、浄蓮の滝へ向かう前に、精を付けておきたい。
さらに、鎌倉の住職から、先払いでお金を受け取っていたので、充分に余裕も在った。
そう、鰻を喰うための"理由"と言う名の"言い訳"は在ったのだ。
しかし、依頼も済ませていないのに、そのお金で贅沢に鰻を喰らうなんて、小次郎には出来なかったのだ。
こうして、鰻を焼く匂いや煙に、後ろ髪を思いっきり引かれながら、三島を後にしたのだった。
そして今、再び、三島に帰って来たのである。
依頼という名の封印は解かれ、しかも住職からは「結果が悪くとも、お金は返さなくて良いですよ」とのお墨付き、最早、遠慮という言葉は、小次郎の辞書に書かれてはいなかった。
「う・な・ぎ・だー!」
匂いに釣られ、つい叫んだら、横に居た犬が舌を出して吠えだした。
「え? まさか、お前、喰いたいの?」
まるで、その言葉を待っていたかのように、何度も吠えて跳ね回る。
「お前さぁ~、たま~に、人間の言葉わかるよね……の割りにさぁ、言うこと聞かないし……本当、賢いんだか、馬鹿なんだか……」
馬鹿と言われても、自分の周りを喜び跳ねる姿を見て、やっぱり馬鹿の方だなと思う小次郎であった。
お金に余裕があるとはいえ、老舗だと幾ら取られるか見当が付かないし、きっと犬は入れてくれないだろう。
ということで、出来るだけ新しい店を探すことにした。
ほどほどに歩いていたら、新しそうな店が見つかり、運良く犬も一緒に入らせて貰えることに。
「お願いだから、大人しくしていてくれよ」
稲荷寿司の時のように、勝手に取るんじゃないか……否、自分のならまだ良い方で、他所様の鰻を取ってしまうことの方が、心配だった。
だが、その心配も不要なほど、犬は他人の鰻の匂いに目もくれず、尻尾を振り回し、大人しく座って待っている。
コイツ……さては、自分の得なことだけ、理解できるのか?
やっぱり、コイツは賢いのか?
そんな眼差しを向けているところへ、店の女中が注文を取りに来た。
「決まりました?」
犬を入れてくれたこの店ならと、犬の分も頼んでみることにした。
「では、この鰻飯を一つと、切れ端でも良いので、この犬にやっては貰えませんか? もちろん、御代は払います」
すると女中は、顔色を変え、すぐさま後ろを向いて両手を広げて、何かの行く手を阻もうとする。
だが、それを押し退けて現れたのは、小次郎が筆を出したくなるほどの鬼の形相をした、この店の主だった。
店主は、小次郎の首根っこを掴むと、入口まで引きずり、店から放り出して怒声を浴びせた。
「出てけ! こちとら、犬に喰わせるために、焼いてんじゃねぇんだ!」
店主が怒るのも無理はなく、鰻屋として一人前に成るには『串打ち三年、割き八年、焼き一生』といって、生涯掛けて腕を磨く難しいものなのだ。
十年以上も一所懸命に修行し、師から許可を得て、ようやく店を構え、未だに励んでいるというのに、それを犬の餌にされるというのだから、主の怒りは、放り出しただけでは収まらない。
「おぃ! 塩持って来い!」
この店主は、以前にも「ただ裂いて焼くだけなのに、なんでこんなに高いのかねぇ」と言われ、客と大喧嘩になったことがあった。
そして、その時の店主の怒りを収めるのに、二日も掛ったのだ。
それを知る女中は、店主の怒りを収めるには、最早従うしかないと、言われるがままに塩の入った壷を手渡した。
店主の頭の中では、まるで走馬灯のように辛い修行時代が流れ、思わず涙する。
そして、申し訳ないと土下座する小次郎に、これでもかこれでもかと、塩が無くなるまで浴びせ、それが無くなると最後には壷まで投げ、壊れんばかりの音をたてて、戸を閉めた。
小次郎は、大きな溜め息と共に、頭や服に掛かった塩を払い落として、立ち上がる。
「はぁ~こんなことなら、お前の分は持ち帰りにしてもらえば良かったなぁ」
そう犬に話し掛けたのだが、辺りを見回しても、一緒に放り出された筈の犬は、何処にも居ない。
「あれ? 逃げたの? まぁ、いいか、どうせまた付いて来るんだろうし……」
幾度となく預けてきたが、その度に逃げ出しては付いて来る、そんな犬の心配をするのは、もう止すことにしていた。
何だか気分が萎えてきて、もう鰻は諦めるかと、頭では思ったのだが、腹は納得しておらず、今すぐ喰わせろとばかりに鳴り止まない。
「解ったよ、こうなったら最高の鰻を喰ってやろうじゃないか!」
そう腹に言い聞かせると、我こそ日本一だと言わんばかりの、大きな大きな店の前に並ぶ、長い長い行列の最後尾に付いた。
店から流れ出る鰻の匂いをまるで前菜のように楽しんだお陰で、長蛇の列も苦無く待てた。
そして、いよいよ自分の番というところで、後ろの方から騒がし声が津波のように押し寄せてきた。
何事かと振り返って見れば、そこには今まで見たことも無いような、美しい娘が立っていた。
その余りの美しさに、そこに在る筈の無い花が足元に咲き乱れ、また、その娘を通過し流れてくる風は、鰻の匂いを凌駕し、並んでいた男はおろか、女でさえも、待ち侘びて居た筈の鰻屋の入口よりも、娘の方を向いていた。
「だ、誰だ? あんな娘、この村に居たか?」
「旅人じゃないのか?」
色々な憶測が小声で飛び交っていたところへ、並んでた村人の一人が、あることに気づいた。
「おい、横の爺さん……あれ、正蔵さんじゃないか?」
余りの美しさに、他へ目が行かなかったが、よくよく見ると隣には、目尻を下げれるだけ下げた六十歳ほどの男が、それはもう嬉しそうに腕を組んで立っている。
「あ、あんな孫が居たのか……お、俺、紹介してもらおうかな」
「お、おい! 俺が先に紹介してもらうんだぞ!」
「なんだよ! 先って! 勝手に決めんな!」
「それにしてもよー、似てねーなー」
「ホント、孫なのかね? 否、孫にしては、正蔵爺さんの鼻の下……やけに伸びてねーか?」
「いやいやいや、幾らなんでも孫だろ? 変なこと言うなよ」
「そうだよ、孫に決まってる!」
そして、ここでまさかの事態が発生する。
娘と正蔵は、最後尾で待っていたのだが、なんと前に立っていた男が先を譲ったのだ。
すると、更にその前に立っていた男までも、慌てて前へと譲り、あれよあれよという間に、先頭である小次郎の後ろまでやって来た。
え! 譲らないと……いけない……のかな?
後ろに並んでる人々の視線が、あまりにも痛すぎたため、小次郎は仕方なく、その流れに乗せて、一番前を譲ることになってしまうのである。
そんな時、次の客を入れようと、店から出てきた丁稚が、次の客である娘を見て、あっと一声上げて、腰を抜かす。
「坊主、まだ女、知らねーのか?」
並んでいた客の一人にからかわれ、皆に笑われてしまう。
すると娘は、その少年の手を取って立ち上がらせた。
美しく、更に優しい……
その姿に、一番を渋々譲った小次郎でさえも、うっとりとしてしまう。
丁稚の少年は、顔を真っ赤に染め、恥ずかしそうに注文を取った後、娘と正蔵を中へと導いた。
娘は、並んで待つ人々に軽く会釈して、丁稚に続いて店内へと入って行く。
「見たか! 今、俺に挨拶したぞ!」
「違うよ、俺だよ!」
「何、馬鹿なこと言ってんだお前ら、俺に決まってるだろ!」
そして正蔵も、ご苦労とばかりに手を挙げ、娘を追うように入って行った。
「おめーに譲ったんじゃねーよ!」
小声のボヤキが、あちらこちらで発生していた。
あぁー私の番は、まだかな?
まぁ、次だからもうすぐだな、我慢我慢。
しかし、待てど暮らせど、なかなか呼ばれない。
それもその筈で、中では大変なことになっていたのだ。
なんと、美しい娘をずっと見て居たいがために、他の客が居座っているのである。
丁稚が食べ終わった客に、出るように促せば、まだ喰い足らなかったと、注文する始末。
そこから待つこと、半刻。
行列の人たちが、まだかまだかと暴動を起こしそうな頃。
ようやく小次郎が案内され、なんと驚いたことに入れ替わった客は、娘と正蔵だったのだ。
しかし、帰る客はそれだけに止まらず、まるで追いかけるように、中に居た客も次々と出て行く。
「おい! 俺の会計を先にしろ!」
「金は、ここに置いて行くぞ!」
「俺も、ここに置いて行く、釣りはいい」
あれよあれよという間に、中に居た客は出て行き、あっという間に客は小次郎だけになった。
「あれ? そう言えば、後ろに並んでた他の人は?」
「居なくなりました」
丁稚が困った感じで、そう答えていたら、厨房から「今日は、もう閉めるぞ!」という声と共に、数人の料理人が慌てて出て行った。
「すみません、閉店になります」
「えええーーーっ!!」
読んでくださって、ありがとう。
次回「旅は道連れ、世は情け」




