第十話「異国の犬」
読んでくださる方に、合う作品であることを祈りつつ。
時は、一八五四年。
その時を迎えるまで、この村は人家も百戸ほどしかない、静かで小さな村でした。そんな小さな村に、一つの大きな事件が起こります。
黒船の来航。
マシュー・ペリーという名の異国人が、この小さな横浜という名の村で、幕府と和親条約を結んだのです。
それからさらに五年後の一八五九年、再び米国より遣わされたタウンゼント・ハリスによって、日米修好通商条約を結ばされた幕府は、横浜を開港します。
そして、その時代の流れに沿うように、横浜は村から町へと、急激な変化を遂げていったのでした。
飛騨を発ってから二ヵ月後、小次郎はすでに栄えた町、横浜に居た。
九尾を追いかけられぬのなら、少し旅を楽しむつもりで、行ってみたい場所へ行くことにしたからである。横浜を選んだのは、ただ『異国人を見てみたかったから』という、なんとも可笑しな理由だった。
噂に聞く異国人を頭に描いたら、どうしても角のない鬼になってしまう。小次郎がそう思うのもごく自然なことで、日本の昔話に出てくる鬼たちは、バイキングが漂流してきたのではないかという説もあるからだ。
そんな小次郎が始めて目にした異国人は、頭に描いていた恐い鬼とは正反対で、まるで空から降りてきた天女のように見えた。
小次郎は心のままに筆を取り、その美しい天女のような異国の女性を描き始める。もし、それが筋肉隆々とした黒船に乗る水兵だったなら、今とは違う筆で描き、その紙を燃やしていたかもしれない。
久しぶりに物の怪以外を描いたことで筆が走り、次々と人や町並み、そして港に停まる船などを描いていった。夢中で描いている小次郎に、昼が来たことを腹が鳴いて教える。
港町なのだから、新鮮な魚料理でもと思い、見渡していたら一軒の寿司屋が目に留まった。
「寿司かぁ……どれくらい振りだろう?」
久しぶりの寿司を決め込んだ小次郎は、店に入って食べようと思ったのだが、店の前で机の上に山積みにされた寿司の弁当が目に入る。それが聞いたことも無い名前だったことと、割りと安価だったことから、それを買って食べることにした。
小次郎が、食事する場所として選んだのは港。
磯の香りで、寿司を頬張ることに贅沢さを感じていた。
「助六って、いったいどんな寿司なんだろう?」
期待を込めて蓋を開けると、そこには太巻きと稲荷寿司が……。
小次郎の頭の中で描かれていた文字が、魚が旨いと書く『鮨』であっただけに、
「助六って、なんなんだよ!」
そう叫ばずには、いられなかった。
歌舞伎の演目に『助六所縁江戸桜』というのがある。
その主人公の名を『助六』といい、そして、その愛人が『揚巻』という名前だった。そう、助六寿司とは、江戸っ子が洒落で付けた名前だったのだ。
もう買ったのだから仕方ないと、太巻きから頬張っていった。食事をしながら、周りの景色を楽しんでいたら、今まで見たことも聞いたことも無いような犬が、遠くの方から歩いて来る。
「ん?見たこと無い犬だな……あれ猫?じゃないよな……やっぱり犬?……だ・よ・な?」
そう疑問に感じるのも無理はなかった。その犬らしき生物は、体は犬のようでも、顔は犬と言うよりも猫に似ている、しかし猫にしては大き過ぎ、かと言って狐や狸、他の動物とも違うように見えた。
「きっと、メリケンの犬だな」
小次郎から出た結論は、異国の犬だった。
犬の首に紫の風呂敷が巻かれてあることから、飼い犬だと言うことは、容易に推測できたが、主人らしき人間は周りに見当たらない。
トコトコと近づいてきて、小次郎の顔をジッと眺めている。
「お前……もしかして、コレが欲しいのか?」
まるで言葉を理解したかのように、舌を出して首を縦に振ったので、手に持っていた稲荷寿司を半部分けてやることにした。犬は差し出された稲荷寿司をペロリと食べると、次をよこせとばかりに、舌を出して息を荒くし待っている。
「全く、私は君のご主人さまじゃないんだよ」
そう言いながらも、今度もまた半分にして分けてやろうと取り出したら、飛びつかれ、丸ごと食べられてしまった。
「あぁ、最後の稲荷が~」
期待外れの寿司ではあったが、割りと旨かったので、ちょっと悲しかった。
小次郎は、鞄から竹で出来た水筒を取り出し、一気に飲み干したところで、いまいち腹は満たされていないが、これをもちまして昼食は終了。
「じゃあな」
ゆっくりと立ち上がり、犬に別れを告げると、泊まる宿を探すことにした。
港町であることから、町には宿も多く、お金には余裕があったが、できるだけ安価な宿を探し歩いた。半時ほど歩いて、ようやく安そうな宿を見つけ、中へと入ると、女将から出た言葉は「いらっしゃいませ」ではなく、
「あの~、お客さん困るんですけど」
「はい?」
女将が指差す方に振り返ると、先程の犬が尻尾を振って立っていた。小次郎はすぐに、その犬の所有者が、自分ではないことを両手を左右に大きく振って表した。
「いえ、コイツは私の犬ではないんです。お前のご主人も、きっと心配してるぞ、サッサと帰えんな」
この客のような優しい言い方では、返って懐かれても仕方ないだろうと、女将は代わりに、少しキツ目に追い払いに掛かった。
「この人が主人じゃないんだろ?シィ!どっか行っちまいな!」
そう言って旅籠屋の女将は、手を下から上に何度も振るのだが、犬はただ呆然とそれを見るだけで動こうとしない。仕方なく女将は、玄関脇に置いてあった桶を持ち、柄杓で犬に向かって水を撒いたのだが、犬は器用にそれをかわしてしまう。
それを見ていた周りの人々が大笑いし「いいぞ犬コロ!」なんて犬を応援しだしたもんだから、苛ついた女将は、持っていた柄杓を振って、犬を追い回した。だが、それすらも犬には当たらず、その光景は犬に弄ばれているようにしか見え、さらに周囲を笑わせるのだった。
疲れ果てた女将の矛先は、ただその勝負の行方を見守っていただけの客、小次郎に向けられる。
「アンタの犬じゃなくても、この犬が着いて来るのであれば、お泊めする訳には参りません!」
疲れと苛立ちのためか女将は混乱しているようで、俗語から敬語に変わる奇妙な日本語で宿泊を断った。
「もう、稲荷寿司はないんだよ」
そう言えば帰るような気もしたが、当然ながら帰る訳もなく、
「さては、お前……帰り道忘れたんだろ?もぅ、仕方ないなぁ」
小次郎は、犬を連れ犬と会った場所まで戻ってやることにした。その場所に戻れば、犬の主人が心配して探しているだろうと思ったが、それらしき人は見当たらなかった。
置き去りにしようかとも思ったが、それもなんだか気が引けた。その時、犬が背負う包みが目に留まり、もしかしたら、その中に手掛かりが在るかも知れないと、犬が背負う風呂敷に手を伸ばしたら、犬に激しく吠えられた。
「取りゃぁしないよ!お前の主人の手掛かりが、そこに在るかもかも知れないから、ちょっと見るだけさ」
そう言っても、やはり犬に人間の言葉が理解できる筈もなく、犬は触らせまいと更に警戒心たっぷりに吠えるだけだった。
「主人から守るように言われたんだな。全く、賢いんだか馬鹿なんだか……」
已むを得ず、主人が来るまで犬と待つことにしたのだが、日が暮れても現れなかった。いつまでも待っている訳にもいかないので、犬と出会った場所の近くに在った呉服屋で預かってもらうことにした。
再び、先刻断られた宿を訪ねた。
「お客さん、犬は困りますよ!」
「あぁ、大丈夫です、あの犬なら預けて……」
と言ったところで、またもや女将が自分の後方を指差した。振り返ると預けた筈の犬が居る。
「嘘だろ~お前、逃げてきたのか?」
小次郎が崩れるように犬へ寄り、しゃがみこんだところで、女将は“ピシャリ”と音を鳴らして、入り口を閉めた。
「あ!」
弁解する暇さえ与えられないまま、さて、どうしたものかと犬を見ながら悩んだ。また預けに行っても、また逃げ出すかもしれない。餌をやったことは後悔してないが、懐かれてしまうとは思わなかった。野良犬なら、まだ連れて歩いてもいいが、飼い犬では下手すると泥棒呼ばわりされるだろう。
「もぅ!」
犬にというよりも、運の悪い自分に嘆いた。結局、犬は着いて来るのだから、嘆こうが喚こうが、もう連れて行くしかないと、目の前の宿は諦めて、犬込みで泊めてくれる宿を探すことにした。
宿泊を了承してくれる旅籠屋はあったのだが、それはあくまで庭などで預かるという意味であって、隙を見て逃げ出し、座敷まで上がり込むような犬ではなかった。しかし、そんな犬でも受け入れてくれる旅籠屋が港の近くに在ると教えられ、そちらに向かうことにする。
聞いていた旅籠屋は、異国人に合わせた西洋式の旅籠屋だった。その中へ入ると、建物の内部には隙間無く赤い芝生のような布が敷かれていたので、小次郎は草履を脱いで入ろうとしたら、旅籠屋の入り口に立っていた青年に声を掛けられた。
「草履のままで、結構ですよ」
小次郎は、恥ずかしそうに頭を掻くと、この旅籠屋の奉公人らしき青年に問いかけた。
「犬も一緒なんですが、よろしいのでしょうか?」
「えぇ、お部屋まで連れて入って頂いて結構ですよ。ただ、他のお客様のご迷惑にならないようにだけ、ご注意願えますか?」
「は、はい」
返事はしたものの、預けた先から逃げ出すような犬だけに自信はなかった。
「では、ご案内させていただきます」
そう言って、中に通され宿帳を書き、部屋へと案内された。草履のまま部屋に入ることに戸惑いを感じながらも、犬を伴って中へと入った。
犬を部屋に上げて良いと言われるだけあって、やはり、なかなかの値段だった。
「今日は面倒みてやるけど、明日は一度お前を預けた呉服屋に、もう一度頼んでみるから、そこでご主人を待つんだぞ」
犬には解らないと理解しつつも、そう言わずにはいられなかった。
流石に高いだけあって、犬の晩飯も用意してくれた。遅い晩飯を済ませたあと、ただ、待っていただけなのだが、小次郎も犬も、妙に疲れていたらしく、布団の上で横になると、そのまま深い眠りに就いた。
翌日、昨日犬が逃げた呉服屋にもう一度預かってもらえるようお願いに行った。呉服屋は快く引き受けてくれたが、やはり、再び逃げられるかもしれないと、犬に首輪をすることにした。正確に言えば、首には既に犬の大切な包みがあるので、胴輪と呼ぶ方が相応しいだろう。
だが、そう易々と胴輪をさせてくれる犬ではないことは、昨日の女将との戦いで容易に想像がつく。悩んだ結果、餌で釣ることにした。
そうは考えたものの、そんな単純に引っ掛かってくれるとは思えなかったのだが、そんな心配を他所に、犬は観念したのか、それとも稲荷寿司に夢中なだけなのか、暴れることもせず、稲荷寿司を美味しそうに頬張り、その隙に胴に輪を付けることができた。
「そんな風に、主人が迎えに来るまで良い子にしてろよ」
ようやく犬から解放された小次郎は、安心して横浜を後にするのだった。
読んでくださって、ありがとう。
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犬から解放された小次郎は、雪はもう懲り懲りとばかりに、
雪の残っていそうな東はやめ、西へと歩き出した。
次回「墓参り」




