第六話『彼女との逃亡』
彼女がいなくなった。
事実はそれ一つで十分であり、僕を絶望させるのに十分な理由だった。
そのことをはっきり理解したのは三月下旬。彼女と最後に会ってから、約二ヶ月が過ぎていた。
一月、二月のように寒い気候だと雨が降る回数は少ない。朝方に雨が降っていることなんて滅多になく、暖かくなり始めた三月から雨が降る機会が増えた。
彼女が雨の日の早朝に、あの木製ベンチにやってこなかったのは一度や二度だけではなく、春休みになってやっと彼女がいなくなったということに気がついた。
何故、彼女はいなくなったのか。
連絡先も、住んでいる場所も、名前すらも知らない僕にはなす術がなく、惨めに独りで悲しみを、絶望を涙に変えることしかできなかった。
真っ暗な部屋の中で彼女がいなくなった理由を考える。春休みだったことが幸いして、誰にも顔を合わせなくても良かった。
彼女に最後に会ったのは彼女の歌を聴いたときだ。彼女が意識的にこなくなったなら、それが原因である可能性が一番高い。
けれど結局、会う術がない僕には考えることすら無駄なことだった。
……コン、コン、コン。
乾いた音が部屋に響く。ゆっくりと目を開けると、暗い世界の中では何一つ動いておらず、布団の周りに置いた携帯や積み上げられた本たちが僕を見ていた。
本は引きこもる僕を咎めたりしなかった。ただただ自分の世界を語り続けるだけだったから楽だった。
「ちょっと、散歩してきなさいよ」
お母さんの心配する声が扉の向こうから聞こえた。返事をするわけもなく、また瞼を閉じる。
ゆっくりと瞼を開け、目覚まし時計を見るともう午後の六時だった。今日も無駄に過ごしてしまった。非生産的な生活が続いている。この時間を他の人にあげたいくらいだ。
そういえば、お母さんが今日は誰もいないからちゃんとご飯食べなさいよとかいってたっけなあ……。
体を起こし、タンスから適当に服を見繕う。扉を開けると眩しい光が僕の目に差してきた。電球の光で眩しいとか、すごいな。
階段をだらだらと下り、扉を一枚開けてリビング、そしてキッチンに入る。炊飯器を開けると案の定、ほくほくの白米が炊かれていた。水蒸気が顔にあたって暑苦しく感じる。
適当にお茶漬けを作って口に運ぶ。風邪を引いたときみたいに味はしなかった。食べた後、お茶碗をキッチンに持っていって、玄関のスニーカーに足を入れる。
扉を開けると、外はもう夜だった。しんしんと静かに雨が降っていて、僕は回れ右をして家の中に入る。雨の日に、予定もなく散歩する気になれなかった。
ぷるるるるるるる、ぷるるるるるるる。
急いで靴を脱いでリビングに向かう。電話の表示を見ると非通知とある。受話器を取ると、予想だにしていなかった声が聞こえた。
「たす、けてっ!!」
電話の向こう側にいる『彼女』の悲痛な叫び声が、僕の神経を震わせた。
「え、どうしたの?」
頭が追いつかない。もしかしたら、これは長い夢の続きなのかもしれないと思い始めてきた。
「わかっら、ないの! もう、どうしたらいーかわかんない」
声はどんどんと小さくなっていき、嗚咽すら聞こえる。混乱が抑えられない。彼女に、声がかけられない。
――拒絶されて部活をやめたら、私が慰めてあげるしっ!
あの日、ココアみたいな温かい笑みを浮かべながら僕を慰めてくれた彼女が、電話の向こう側で泣いている。
「どこにいるの? 行くから――ちゃんと行くから」
いつも明るく、無邪気に笑っていた彼女が泣いている状況が許せなかった。
そして今、彼女の傍にいない自分に腹が立つ。
「……っいつ、ものばしょに、いるから」
怯えたような声色の彼女は電話の向こう側で今にも消え入りそうで、僕は叫んだ。
「行くから!」
ガチャンと受話器を置いて、走り出す。雨だなんて関係ない。スニーカーを履いて玄関を飛び出す。
階段を一気に飛び下り、自転車に乗って勢い良く走り出す。静かに降っていたはずの雨は僕の体に強く打ちつける。まるで僕を彼女の元へと連れて行かないようにしているみたいだ。
いつもの風景が目まぐるしく変わっていく。雨で濡れた道路に反射する車のライトが目につく。
長い長い直線距離を進んでいく。
足がだんだん疲れてきて、ピークに達すると痛くなってきた。