第五話『ある冬の日の出来事』
外出するときにコート類が必須になる、一月中旬。冬になると、山に囲まれている環境の所為か雨の日が少なくなっていた。
というか、雪が積もることもないこの田舎でなにを楽しみにすれば良いのか。子ども達は必死に雪が降ることを願い、一面が真っ白になると学校に遅れる生徒が続出するような田舎である。
クリスマスや元旦のあたりに雨が降りそうな予報が出ていたが、彼女は申し訳そうに
「そこら辺は予定があって、これないの……」
といっていたので、家でぼーっとテレビを見たりしていた。
クリスマスには、僕が気に入っているオペラ歌手がコンサートをしていたらしく、テレビで頻繁に特集がやっていた。
趣味はこれといってなかったのだけれど、その人の歌を聴いてすっかりはまってしまった。徒歩十分のところに本屋兼DVDレンタルショップがあるので、古いものから新しいものまで冬休みで借りまくってしまい、お母さんに少しだけ引かれた。
やっぱり、オペラといえば『オペラ座の怪人』が真っ先に思いつくのか、何故かお母さんが仮面をクリスマスプレゼントとして渡してくれたが、つけてみるとと大爆笑された。
心外だ。
やっとの雨。小降りではあるけれど彼女はきてくれるだろうか。
いつも彼女が先に待っているので、今回はいつもより早めに家を出た。
左側には肩くらいまで塀があり、そこには緑の絨毯が敷き詰められている。
ああ、小さい子が登ってるのを見たことがあるなあ……。
まあ雨の日にはそんな小さい子も外に出ないことが多いのだけれども。カサを上手に差せない子ってかわ――ま、まあそんなことはどうでもいい。
日没が早くて日の出が遅いので、辺りは薄暗いどころではない。真っ暗だ。外灯がまだついている。
ちょっと早く出過ぎたかもしれない。
狭くて急な坂道を下って田舎道を歩く。左側の五mくらいの石塀の上には住宅地があり、右側には百メートル四方の田んぼが並んでいる。田んぼの奥には低めの山もあるし、アングルによってはド田舎だ。
数百メートルに及ぶ田舎道を進むと図書館が見えてくる。緩やかで長い坂道を登りきり、左折。そのまま真っ直ぐ歩くと道路にぶつかり、その道路を跨いで丘陵公園内に入った。
冬は木の葉っぱも散って殺風景だけれど、場所によってはカラフルなところもある。
この時期に咲く花は特別な存在に思える。他が灰色に見えて、そこだけがカラフル色づいているような感覚。
そういえば、彼女にあった暑い日もそんな感覚に陥った気がする。
吐く息が白い。下を見続けていた目をちらりと周りに向けると、スイセンが白い花びらと黄色のやく(花粉)のコントラストで存在をアピールしている。
他の季節では賑わっている花壇だらけの丘でも、全く花が顔を見せていなくて寂しい。 茶色い土が、淡々と歩く僕を恨めしそうにじっと見つめていた。
花道を通って、彼女と出会った丘を登って下り、名前のない橋を渡ると、いつも話している木製のベンチに彼女が座っているのが見えた。
屋根がある所為か古い雰囲気が漂っているベンチに、マリーゴールドのようなオレンジ色の髪の彼女がいると異世界感がある。しかも目の色が水色だからなおさらかもしれない。
彼女がゆらりとたち上がり、何かしている。
そうだ、脅かしてみよう。
この時間にくるとは思っていないだろうし。
好奇心で僕は歩みを遅くし、足音を極力たてないようにした。
カサを打つ雨音で気付かれるかもしれないけれど、あと十mというところまで近づいても彼女はこちらに気付かなかった。
「~~♪」
その声を聴いた瞬間、足がぴたりととまった。
透明な歌声。美しいビブラート。歌詞がしっかりと聴き取れる。
何故か彼女の背中に真っ白の羽が生えて、空に飛んでいく映像が頭に映し出された。
雨の音でちゃんとは聞こえないけれど、それが、僕と同じくらいに見える彼女の歌声と思えないくらいに、それはプロじみていた。
その更にゆっくりと近づく。すると曲名が頭に浮かんできた。
『オペラ座の怪人』の「Think Of Me」。『オペラ座の怪人』のヒロイン、クリスティーヌが歌う最初の曲だ。
『オペラ座の怪人』は小説から始まり、ミュージカルや映画などで表現されてきた名作中の名作。その中の「Think Of Me」はクリスティーヌが自分の実力を示す為に歌った曲で、その歌詞はポッと心が温かくなり、そして切なくなる。
もっと聴きたい。
純粋に、いや、無意識にそう感じて足を一歩一歩踏み出す。すると雨がカサを打つ音を不思議に思ったのか首だけで振り返り、澄んだ水色の目を見開いた。
「……え?」
まだまだ咲くのが先である桜のような薄いピンクの唇から、驚いた声が漏れる。手でイメージを膨らませていたのだろう。高く上げられた小さな手がゆっくりと下げられた。
「えっと、聴いてた?」
「ばっちしね」
「忘れて?」
彼女が頬をほんのりと染める。
「もっと聴きたいなあ」
「む、無理よ。私なんかが歌っても幸せになる人なんかいないわ」
僕に背を向けてしまい表情がわからない。けれど声色からして顔はまだ赤いままかな?
「いやいや、凄く綺麗だったよ? 毎日たくさん練習してるからだね」
「……ありがとう」
僕はコの形のベンチの入り口でカサをたたみ、いつも通り左側にあるベンチに座る。彼女もちょこんと入り口から正面のベンチに腰を下ろした。
「びっくりした?」
僕が笑顔でそう尋ねると彼女も笑顔で、
「びっくりしたよ!」
と返してくれた。
また、何日かぶりの彼女との幸せのひとときが始まる。