閑話~秋編~
「雨ってさあ、季節によって表現できる言葉が違うよねー」
のんびりと紅茶を楽しんでいると、急に彼女がそんなことをいいだした。
膝下までの長靴を脱いで、細い足を幼い子のようにぷらんぷらん振って遊んでいる。こういうところが彼女の子どもっぽいところであり、何だか猫らしさを感じるところでもある。
「あー、春雨とか五月雨とか?」
雨は好きだけれど、その種類まで覚えていない。大体、雨は雨じゃないか。どうして日本人は同じものを違う言葉で紡ごうとするのだろう。
「うん。春雨は字の通りで春に降る雨。五月雨は、昔は梅雨のことを指してたらしいんだけど、今は五月に降るまとまった雨のことかな」
「いわれたら、そうだったなって思うよ」
自慢げにいう姿がこれまた愛らしい。
「梅雨とかはもちろん有名だし、あとは……夕立とか狐の嫁入りとかも有名だよね!」
喜々として喋る彼女を眺めながら紅茶を口に含む。前は紅茶なんて飲まなかったけれど、改めて飲んでみると美味しかった。昔に飲んだレモンティーと記憶が混同していたのが原因だろうと思う。
まあ、わざわざ家で淹れてきてくれたものを保温できる水筒で持ってきてくれたのと、そこら辺の自動販売機で飲むのとは全く味が違っていて驚いたのは、彼女には話さずにそっと胸に仕舞っておいた。
「あったり前でしょ!」って怒られそうだからなあ。
「――とまあ、季節によって表現できる言葉がたっくさんあるわけだけれど、雨が降らない国もあるんだから、この国はいいよね」
「四季があると楽しめるよね。僕は暑いのも寒いのも嫌いだけど」
「私もー!」
あはは、と笑う彼女を見ていると、僕まで明るい気持ちになれる。
「そういえば、さあ」
彼女は歯切れが悪そうで、石畳のどこかを見つめている。
「ん、何?」
僕はそれに気付かないフリをしながら続きを促した。訊かれることは大体検討がつく。
「部活は、どうしたの」
前に会ったとき、僕は彼女に相談をした。
僕が部活のキャプテンであること。
最近、他の人達がちゃんと練習してくれなくて困っていること。
そして、自分の『考え過ぎ』という昔からの性質のこと。
その所為か、いつの間にか「僕だけがチームを良くしていこうと考えていて、他の人はどうでもいいと思っているのかな」と考えるようになり、そのことが、頭から靴の裏についたガムのように離れなくなってしまっていたこと。
そのことを話すと彼女はこういった。
――正直にさあ、『良いチームにしよう』っていってみたらいいじゃん。
――拒絶されたら、部活、やめたらいいよ。
戸惑う僕に、彼女はさらにこう言葉を重ねた。
――その部活は君に絶対必要ってわけじゃないよね?
――しかも今、君を苦しめてる。部活をやめることは『逃げる』ってことじゃないと私は思う。
それまで、僕は部活をやめることを『逃げる』という選択だと考えていた。
けれど彼女の言葉で新たな選択仕が増えた。
自分がそうしようと思える選択仕。自分が、それに賭けてみようと思える選択仕が。
「部活はね、やめたよ」
「え……?」
彼女は慌てて右手を口元にもっていく。そして、残った左手を僕の頬に触れさせながら、
「そっか。頑張ったね」
と、一滴だけ透明な粒を落とした。
「うん。頑張ったよ」
僕はそのときのことを脳裏に浮かべる。
一年生の過半数が帰ったグラウンド。いつも通りのメンバーが部室で着替えていた。
笑い声が狭い部室内に響く。汗臭い部室が何だか心強かった。
「あのさ、訊きたいことがあるんだけど」
声は芯こそしっかりはしていなかったものの、彼らの耳には届いたようでこちらに顔を向ける。
「どうした?」
無邪気な表情を浮かべる彼らに少しだけ奥まったけれど、彼女のことを必死に思い出して気を確かに持った。
「最近、練習ちゃんとしてないけど、やる気あるの?」
その言葉で部室内が静まりかえった。痛いくらいの静寂が肌に刺さる。
あー早く終わらせたい。
「ちゃんとしてるっしょ。ねえ?」
「今日だって結構走ったじゃん」
喋りながら走っても力はつかないと思うけどなあ……。
口々に発せられる言い逃れを右から左に流し、僕は本題を口にした。
「良いチームにしたい、とか思ってる?」
僕の中で重要だった事柄。
けれど、その答えは残酷で僕の心を真っ二つに叩き割った。
「はあ? 何いってんの」
呆れた風にいう彼の顔は、僕から見れば悪魔だった。
そこからの言い訳の嵐を笑顔で聞き流し、僕は次の日に退部した。
彼女の手はひんやりしている。あの時の僕の心のように冷たい。
そういうえば、今の時期の雨は何といえばいいのだろうか。
そう思ったけれど、一粒だけの涙を見て――状況にふさわしくないけれど――その感傷に浸る方が僕にとっては重要だった。
彼女の手のひらに触れてみると、吸い込まれるような柔らかさを感じた。
いつまでも触れていたい。
ずっと、彼女と――。
「……ぁ」
そこまで考えたとき、僕は思考を無理やりとめた。感情の波を力任せに、無理やりとめる。
「しょうがない」
その短い言葉に、彼女は勢い良く顔を上げた。
眉を下げて、今にも泣きそうな顔をしている彼女を笑わせる言葉は見つからない。