第四話『秋。相談ごと2』
彼女の母親のような優しい笑顔は、僕の口から自然と言葉を出させてくれた。
「あのね。部活のことなんだけど、僕は一応、キャプテンなんだ。あ、キャプテンは部長ってことね」
「うん」
木製のベンチの手触りが、何とも暖かく感じるのは僕が日本人だからだろうか。それとも、僕が縁を強く握り過ぎて熱をもったのだろうか。
「最近、他の人達がちゃんと練習してくれなくてさ。特に二年生が。そんなんだと一年生に示しがつかないから注意するんだけど、きいてくれない」
彼女が枝で編まれたバスケットから、水筒と可愛らしいレース模様の紙コップと取り出す。
「しまいには副キャプテンまでサボり出してね」
カチャンとボタンを押し、傾けると水筒から焦げ茶色の液体が出てきた。二つの紙コップにそれが注がれるのを目で追う。僕の不安な思いと裏腹に、その湯気は陽気にもわもわと立ち昇ったように見えた。
「それで何か、前から直そうとはしてた『考え過ぎ』が発動しちゃったんだよね」
「……考え過ぎ?」
彼女が紙コップを一つこちらに差し出す。嗅いでみると甘い香りがした。これはココアかな?
「うん。なんか、『僕だけがこのチームをよくしていこうと考えていて、他の人はみーんなどうでもいいって思ってるのかな』って考え出しちゃって」
「それは、考え過ぎかもね」
彼女がバスケットの中から紙皿を取り出す。その上にハンカチのようなものに包まれていたのは、美味しそうなクッキーだった。
紙皿を更に一枚取り出して、六つあったクッキーの内四つを新しい紙皿に乗せて僕に渡してくれる。
「二つでいいの?」
「そんなにお腹空いてないから」
「そっか。……それで、マイナスに考え出しちゃったらさあ自分で抑えられないんだよね、僕。そんなはずないって思おうとしても、とまれない」
「とまれない」といいながら、口が自分の本当の気持ちを発するのをとめることができなくなっていた。
それをまた、僕は恐れる。
こんな僕の『核心』に触れるようなことは今まで話さなかった。これまではもっと軽い、親の癖のことや姉貴とその彼氏のことなどを相談していた。
何故、このタイミングでそのことに触れたのかはわからない。けれど、何ヶ月か彼女に相談をのってもらって、「彼女にだったら話せる」と思ったと確信できる。
けれど、臆病だから彼女の顔が見れなかった。どんな表情をしているのか、彼女がどう思ったのかを知るのが、話してから怖くなってしまった。
僕はそれを一番恐れている。
もしかしたら彼女はこんなことを知って離れていくかもしれない。
そう考えてしまうと、顔が上げれなくなる。
彼女は思いもよらないことを口にした。
「とりあえずおあがりなさい! 私特製のクッキーだよ!」
あまりに驚いて顔を上げると、彼女はいつもの向日葵のような笑顔で僕を見つめていた。
「早く」
急かされ、慌ててクッキーを口に入れると、砂糖の甘い味が口いっぱいに広がる。
「ココアもね」
右手でずっと持っていた紙コップを口元まで運ぶ。熱々の液体が口内を満たす。喉を通り、胸の辺りがぼわっと暖かくなるのを感じた。
「正直にさあ、『いいチームにしよう』っていってみたらいいじゃん」
「でも、それいって拒絶されたら立ち直れないよ」
その声は彼女に遮られてしまった。
「拒絶されたら、部活、やめたらいいよ」
「……え?」
彼女が勢い良く立ち上がり、ベンチの上をターンと飛ぶ。膝上で紺色の細かいひだのプリーツスカートが揺れた。いつの間にか二つのクッキーは彼女の紙皿からなくなっていた。紙コップには半分くらいココアが残っている。
音が鳴らないなあと思ったら、水玉模様の長靴は脱がれていた。
「だってさあ、そんなことまでして何で部活しないといけないの。君はさあ、スポーツ推薦で高校に受かりたいんじゃないんでしょう? いいチームになって思い出を作りたいんだよね?」
その通りだった。
僕はいい成績を修める為にいいチームにしたいんじゃない。そのことは前に、遠まわしではあった気がするけれど話した記憶がある。
「その部活は君に絶対必要ってわけじゃないよね? しかも今、君を苦しめてる。部活をやめることは『逃げる』ってことじゃないと私は思う」
真剣な眼差しが僕に注がれる。僕の目を真っ直ぐに捉えている。
部活をやめることを『逃げる』という選択だと考えていた。だって、みんな苦しくても続けていたことは最後まで続けるから。
でも、それがそうじゃないとしたら?
部活をやめるということが逃げ道じゃないとしたら?
胸が痛い。そして、何かの感情が渦巻いて吐き気がする。
「それがその人にとっての最善策なら、そんな弱虫みたいなことじゃないもん」
囁くような雨の音にまで紛れたその言葉には、彼女の、僕の知らない何かがのせられているような気がした。
彼女はいつもみたいのような笑みを浮かべていなかった。眉が下がっていて、僕の苦しみが移ったみたいだ。
「それにさ」
彼女はくるっとその場で一回転した。オレンジ色の髪が楕円形を描く。
「拒絶されて部活をやめたら、私が慰めてあげるしっ!」
初めて、彼女の前で涙を零した。
雨はこんなときに限って大降りではない。
「ほんと、僕は弱いね」
鼻声なのが恥ずかしい。膝にポタポタと涙が落ちる。
彼女はまた、もとの席――僕の斜め左に座った。
白くて細い指が僕の頬を滑らせる。驚いて、目を少しだけ見開いてしまう。思わず肩が強張る。
また顔が上げられなくなった。
結局、彼女の表情がわからないのが怖い。
現実を……本当のことを知るのが怖い。
「弱いねかもね。でも弱い君と弱い私が一緒だったら、強い人に挑めるくらいの力になるんじゃないかな?」
その優しい声音が僕の耳をくすぐる。声に味はないはずなのに、それは甘く感じた。