第三話『秋。相談ごと』
出会ったのは七月だったが、そこからは変化が特になかった。
雨の日の早朝に会って話をして、また次の約束を結んで終わり。
それが何度も続いた。
暑さが勢いを弱めた十月下旬。辺りはまだ薄暗く、早朝の静かで昼間よりも涼しい空気が漂っていた。
雨の打つ音で起きるようになった体は、まだまだ動きが遅い。急がず自分のペースで、比較的整備された道路脇の道を歩いていく。
肩くらいの高さの石塀の上の原っぱには、誰が植えたのかわからないが、濃いピンクのコスモスが花を咲かせている。
大分前に顔を見せていた彼岸花の姿は既になく、それが残念に思えた。
信号を一つ渡ると、そこからは先が見通せるほどの長い長い道がある。その道を、頭の中をぐるぐると徘徊している色々なことを考えながら歩いていく。
図書館の横を通り、商品が数年変わっていない自動販売機の前を通り、道路を一本跨ぐ。
そこから階段を登って道路の上を通る橋を渡る。空からカサに落ちてくる雨は、ほどよいリズムで音楽を奏でてくれていた。
整備されている道があるものの、そこから一歩踏み出せば森のような丘陵公園は、人気もないのに数年前に綺麗された。
たくさんの百日草が円状に植えられているのを横目で見ながら、さらに公園内を歩く。
いつもの丘の上にはオレンジ色の髪の彼女が立っていた。
その姿を見ただけなのに口角が上がるのを抑えきれない。必死に、変になっているであろう顔に笑みを浮かべてから声をかける。
「おはよう」
「おはよう。今日は簡単に抜け出せたの」
お互いの挨拶を済ませると、いつものように丘を降りる。丘は僕が登ってきた北側が急で、南側はなだらかだ。原っぱが終わるとすぐに石畳に衣替えをし、それに伴って柔らかかった足の裏の感覚が硬くなった。
名前のない橋を渡りながら会話を弾ませる。
「君はいつも笑顔だね」
「そういう君もいつも笑顔じゃん」
ほんとだ、と僕は笑みを深めた。彼女は僕の気持ちを穏やかにさせてくれる。
『風邪、引きますよ?』
数ヶ月前、自分がわからなくなって差していたカサを閉じた僕に、カサを差し出してくれたのは同い年くらいの女の子。
未だに名前はお互い知らない。以前、彼女に尋ねると、
「知らない方が、秘密の関係みたいでいいでしょ?」
とはぐらかされてしまった。
実際、『秘密の関係』という響きが何だかいけないことをしているみたいで――現実から離れられるみたいで、嬉しかった。
ちなみに年齢をきくと、
「女性に年をきくなんて失礼だと思わなかったの?」
と唇を固く結んだので、思わず詫びてしまった。
最初にあったときは敬語だった彼女は、だんだんと能天気で色々なことに興味を持つ、例えるならば猫のような片鱗を見せてくれるようになった。
敬語のときはあんなに良いとこのお嬢さんの雰囲気があったのに(実際、良いとこのお嬢さんらしいが)、一度敬語を外してしまうと、よく笑う面白い子に変貌を遂げた。言葉とは偉大だ。初めて会ったときと今とでは、まるで人が違うみたい。
「今日は抜け出せたって、いつも思うけど大丈夫なの?」
「へーきへーき! だって、ずうううううっと同じ曲ばっかり歌わされるんだよ? 飽きちゃうもん」
短い橋を渡りきって少し歩くと、屋根の下にベンチがある休憩所が見えてきた。丘陵公園全体がもともと和風だけれど、ここへ来るとより強くそう感じる。特に橋を渡った、数ある竹林の一つに近いこの休憩所は、数年前のリニューアルのときにも手を加えられていないから、他と比べて古い感じがする。木製だからなおさらかもしれない。
入り口以外が全て一続きになっているけれど、彼女が入り口から左手のベンチ中央、僕が入り口から正面にあるベンチ中央が、いつの間にか定位置となっていた。
「そっかあ。まあ、お手伝いさんが困らない程度にね」
僕が釘をさしたのにも関わらず、彼女はくすくすと笑った。
「もうカンカンに怒ってるよ」
「ほんと、よく抜け出せるね」
僕は雨が降る日の早朝はなるべく毎回来るけれど、たまに彼女がこないことがある。そのときは「あー、抜け出せなかったんだなあ」と苦い思いをする。
彼女は歌を歌う。何故歌うのかまでは尋ねたことがない。
練習も欠かさず毎日あるのに、僕に会いにきてくれる。話をきいた限りではかなりハードに思える。朝の五時に起きて歌い、学校に行って帰宅してからもずーっと歌う。勉強もきちんとしなければならない。
そんな彼女も、ここにくれば疲れが吹き飛ぶという。嬉しいけれど、なんだか恥ずかしい。
「毎回、逃走ルートを変えてるからね」
無邪気に笑う彼女を見ていると、悩みごとが少し楽に思えてくる。
「そうだ、何かあった?」
「……え?」
「今日は少しだけ、いつもよりも暗い顔してるよ?」
水色の瞳がじっと僕の目を見つめている。その澄んだ色で、僕の中のどす黒い感情があぶり出されるように感じた。
「きいて、くれる?」
僕が瞼を伏せ気味にきくと彼女は微笑んだ。その微笑みはまるで、いつもの向日葵のようなものではなく、ほんわかと僕を見つめる母親のような優しいものだった。
「もちろん。それが君の為になるなら」
その言葉に何度救われただろうか。
そして今日も、僕は彼女に相談をする。
学校の友人にも、家族にも話さないことを。
いや、話せないことを。