閑話~夏編~
溶ける。どろどろになる。
「どうしたの? すっごい顔してるけど」
彼女が朝顔が描かれているうちわで、僕を一生懸命に扇いでくれている。その姿は、お父さんに褒めてもらいたくて頑張っている小さい子みたいで愛らしい。
「アイスになりたい」
「え?」
願望をいったらかわいそうな目で見られた。
いや、本当にアイスになりたいんだよ! 暑い、暑過ぎる。
「えーっと……、涼しい格好でもしてきたら?」
「これ以上涼しい格好なんかしたら、君に逃げられちゃうよ」
あ、軽くセクハラになっちゃうかもしれない。
今は八月下旬。雨の日の朝だからといって涼しいわけもない。どっちかといえばむしむしする。
しかも僕の格好は半袖のTシャツに短パン。しかもサンダルを脱いでいる。これに勝る涼しい格好なんてあるのだろうか。
「セクハラされた」
彼女が細目で少し睨みつけてくる。
ああっ、扇ぐのやめないで!!
僕の心の声が聞こえたのか、彼女はふふっと笑ってまた、うちわを上下に動かしてくれた。
というかさあ、
「君の格好が暑苦しいんだよ」
足元は前から見るとベルト部分がTに見える茶色のサンダル、色鮮やかな花が咲き乱れている白生地の膝下まであるワンピース。これだけだと夏らしいのだけれど、脚は黒のスパッツに包まれていて踝まで見えないし、ワンピースの上には紺色の上着を着ている。
肌を見せてよ! 暑苦しいよー。
「だ、だって焼けちゃいけないんだもん……」
悲しそうに眉を下げる彼女を見て、胸がざわつく。何かを喉に詰まらせたときみたい。
「まあ、いいよ。暑いっていわなかったらいいんだ。あー、寒いなあ!」
必死に感覚を誤魔化す。どこかで口にしたことは脳によってなんちゃらかんちゃらって聞いたことがあるから、反対のことを口に出し続けたらきっと涼しくなるに違いない。
そんな僕を見ながら、彼女は優しい笑みを浮かべていた。
後日。まだまだ、じめっとした気候だ。
夏はあまり雨が降る気はしなかったけれど、注意して天気予報を確認すると意外に降る。
丘陵公園は場所によって様子が全く違う。まあ田舎らしく、広さが尋常じゃない。
そういえば、東京ドーム何個分とかで広さを表す例えがあるけど、東京ドームいったことないから規模がわからないんだよね、あれ。
とにかく広い丘陵公園は、彼女と出会った丘の南側は花壇がたくさんあるけれど、いつもの木製ベンチの近くには全くない。ベンチどころか大きい石しかない丘すらもあるから、何故ここまで整備が整っているのか不思議でしょうがない。
今日は珍しく、彼女の方が遅かった。僕は昨日に夜更かししてしまったこともあって、いつの間にか目を閉じていた。
カタン。
雨がコンクリートを打つ音の中に、乾いた音が混じる。
カタン……カタン、カタン、カタン。
だんだんと心地よい音は僕に近づいてくる。そして、バサッとカサを閉じる音が聞こえ、また、カタンと音がする。
夢のような居心地を感じながら、瞼を上げると紺色の花の絵が目に映った。その脇には白い手の平がある。
「あれ、起きた?」
花びらのような柔らかな声が耳をくすぐった。だるい体を動かして背もたれに寄りかかる。すると、彼女の姿をぼやけた世界ながらも捉えることができた。
涼しさを感じる白に紺色の……これはなんの花だろう? ツツジに見える。五枚の花びらの中央に赤のやく(花粉)が描かれていた。花びらには格子状に線が何本も重なっている。その周りには簡素な葉っぱなどがあった。
「ん……」
唇から無意識に声が漏れる。だんだん目が慣れてきた。
「ほーら。起きるの、起きないの」
彼女のからかう声が僕に掛けられる。だけどまだ、頭がボーっとしている。目の前の光景を見つめていたい。
全体的に飾り気があまりない。紺色の線で描かれた花と暗めの赤色のやく、そしてこれまた暗めの紫色の帯。数種類の色しか使われておらず、質素な感じがした。
髪色が派手なのだけれど、上手いこと互いが尊重しあっていて、似合っている。
布が随分長いと思ったら、これは浴衣か。
ん?
「浴衣、だ」
彼女は驚く僕を笑った。
「浴衣だよ」
くるっと軽やかに一回転。いつも背中に下ろされているオレンジ色の髪は、頭でちょこんと結ばれている。刺さっている、白いバラのような髪飾りは鮮やかな色の髪の中で輝きを増している。
いつもは量があるように見えるのに、一つにまとめると少なく見えるのは何故だろうか。
たくさんある女子の謎の中の一つだろう。きっとそうだ。
「可愛い……」
思わず口から零れた。いや、零れてしまったの方が正しいか。
その一言で、彼女の頬に朱が挿した。
いつもと違う格好。りんごみたいな顔……うん、色っぽい。
だんだん状況に頭が追いついてきて、自分が口にした言葉に焦る。
「えっ、あっ、えーっと」
目が覚めた。ここ、夢の世界じゃない!
「ありが、とう?」
どうして疑問形。
彼女はちょこんとベンチに腰をかけた。近くで見るといつもよりも唇が鮮やかで、顔が白い。少しだけ化粧をしているようだ。
たまに化粧し過ぎて怪物と化してる人を見るけれど、これくらい薄い化粧で、しかも似合ってたら化粧も悪くない。
「暑苦しいっていってたから頑張ったの」
恥ずかしそうに俯く。
なんか、君が欲しい言葉がわかるよ。
「頑張ったね――」
おおおお、この先が喉から出てこない。
でも、いいたい。
「きにぇ……噛んだ」
彼女がふんわり微笑む。まさに大和撫子。
「――綺麗だよ」
「ふふ、待ってましたその言葉」
彼女は幸せそうに、花が咲いたような笑みを見せてくれた。
顔が熱いのはその代償ってことにしておこう。