第一話『一年前の夏の日』
彼女に出会ったのは一年前。
梅雨が明けて蒸し暑い、高校二年生の夏休み前のことだった。
部活の先輩は引退し、二年生中心に回り出した。当然、上手くいかないこともわかってはいたが、やはり実際それを目の当たりすると、ストレスが溜まるのが自分でもわかった。
勉強が凄くできるという訳でもない。他の人より飛び抜けてできることもなかった。
何もかもが良い方向に進まない。考えることが嫌になっていた。
そんなある日。
パッといつもより早くに目が覚めた。時計の針は五時を差していて、外は薄暗くて、ぽつりぽつりと屋根を打つ雨の音が耳に届いた。
静かな空間の中で、「この世界には僕一人だけみたい」などと馬鹿じみたことを思う。 この頃、まるで、小説の中の人物になったように、たまにそんなことを考えてしまう。
何となく外に出てみることにした。歩くという行為はストレス解消にもなると、どこかで見たことがあった。
まあ、狭いところから抜け出したくなったからかもしれない。
タンスから適当に、ジーパンとTシャツを取り出す。ストレートの髪は跳ねているところだけ水に濡らした。ついでに顔も洗うと、少しだけ視界が澄んだ。
靴箱を開けると、まだ幼い妹の長靴が目に入った。僕くらいの年の女ならまだしも男が長靴を履くのははばかられる。雨が降っているので、いつものサンダルではなくスニーカーに足を入れた。
ゆっくりと玄関のドアを開け、外に出てから親を起こさないよう慎重に閉める。カチャンという音が「いってらっしゃい」と声をかけてくれたように感じた。
ドアの左側にあるカサ立てから自分のカサを取り出し、バサッと広げる。すると、紺色の小さな世界が目の前に広がった。絵が描かれていない無地のカサ。手元のハンドルはこげ茶色で全体としてシンプルなデザインだ。
カサを頭の上に持ってきて、一歩踏み出す。
小ぶりだった雨は少し強くなっていた。タッタッタ、とリズム良く雨がカサを打つ音はとても心地よい。早朝ということもあって人がほとんどおらず、車の通りも少ない。田舎寄りの土地なのもあるとは思うけれど。
三十分ほどのんびりと歩き、町立図書館の辺りも越えると、あとは丘陵公園くらいしか目ぼしいところがない。入場料が無料でいつでも入っていい場所に、足は向けやすかった。
長くて横幅が広い坂を登って公園に入る。案の定、人の姿はない。
行く当てもなく黙々と歩き続ける。
考えることはたくさんある。けれど、どれもこれも自分で考えたとしても答えが見つからない。
もう、何でも良くなってきていた。雨足はどんどん強くなってきて、カサを打ちつける音がそれに比例して大きくなる。
少し高い丘の上。
二十メートルくらい先には小さな花壇があって、木もあって。およそ五百メートル以上遠くには竹林が見える、そんな丘の上。
下に視線を向けると、草が生い茂っているのがわかる。休日の晴れているときは小さい子ども達が裸足で走り回っている姿が見られることも知っている。
そんな馴染みのある場所でさえも、自分を受け入れてくれていないような気がした。
それは、雨という偶然があったからなのか。
ただただ広いだけの公園に、一人だけという孤独を肌に感じたからなのか。
ゆっくりとカサを降ろし、パタンと閉める。雨が体を打ちつけた。夏だから雨に濡れて気持ちがいいけれど、心の中は頭よりも随分上にある雲と同じく暗い灰色で、全く晴れるようすもなかった。
顔を上に向けると、雨が目の中にまで入ってきて少し痛い。
「あはは……」
乾いた笑い声が耳に届いた。自分の声がいつもと違い過ぎて面白く感じる。
――大好きな雨でさえも、僕を受け入れてくれない。
視界が揺らぐ。それは雨が目に入ったのかもしれないし、もしかしたら泣いているのかもしれなかった。その感覚すらも麻痺していた。
けれども突然、雨が止んだ。
「風邪、引きますよ?」
いきなり目の前に、花畑が広がった。
白の生地に夏らしい向日葵が咲き乱れている。
振り向くと、そこには金髪の僕と同い年くらいに見える女の子が立っていた。
心配そうに眉を下げている。ピンクのフリルがついたレインコートが可愛らしい。紺色の水玉模様の長靴まで履いている。
それが、彼女と僕の出会いだった――。




