第十四話『彼女と舞台』
荷物を急いでまとめてバスに乗りこむ。春休みということもあってか少しだけ混んでおり、バス内に暑い空気が満たされた。
「暑くない? 大丈夫?」
「大丈夫だよ? 何、気使ってるの」
彼女がくすくすと笑う。いや、だって今日にオペラの公演あるんだよ? 気は使うでしょ。
「つ、使ってない」
「嘘つきさんね」
子悪魔のような妖しい笑みを浮かべる彼女に、男子らの視線が集まるのがわかる。ちょっと、彼女は自分が相当魅力があるってことに気付いた方がいいと思う。
バスを降りて、駅のホームへと急ぐ。キャリーバッグは彼女に持ってもらい、駅内を走り抜ける。まあ、途中でエレベーター使っちゃったけれど。彼女の体力が持たなくて。
あまりに頑張り過ぎて快速電車がくるまで、まだ時間があった。待合室ではなくホームのベンチに腰をかける。
「何か買う?」
「んー……じゃあ、あれほしい」
彼女が指差さしたのは売店にある『つぶつぶみかんジュース』。何となく、彼女はあまり外に出たことがないのだろうと推測はついていたけれど、チョイスからして、もう否定はできない。珍しいものに目がない。
「いいよ。買っておいで」
僕が財布を取り出して百円玉を二枚、彼女の控えめな手に乗せた。
「緊張するんだけど」
「公演にバンバン出てる、日本を代表するオペラ歌手さんが何をいう」
笑いかけると、彼女は穏やかな顔をした。
「それもそうだね」
可愛らしく駆けていく彼女をベンチから見届ける。幼い子のような様子に売店のおばさんも微笑んでいた。
ジュースを受け取り、またこちらへ戻ってくる頃に、待っていた快速電車がやってきた。
「よし、乗っちゃおう!」
嬉しそうな彼女の後姿を見ながら、僕はキャリーバッグを転がした。自分で持つといっておきながら最後まで全うしないところに、何となく、彼女らしさを感じた。
「美味しい! つぶつぶくるよ!」
向かい合うような席になっている電車に乗ったので、四人用のところに二人で向かい合うように座った。バスが混んでいたわりに電車は少し空いている。
「そっか。良かったね」
どうやら彼女が飲んだのは当たりだったようだ。たまにあーゆうので肝心のジュースが薄いときがある。
みかんのつぶつぶ感に囚われた彼女はしばらく一人で盛り上がっていた。
唐突だった。
「あ、私のお母さんね、死んじゃったの」
「……え?」
突然の訃報にどう反応していいかわからなかった。あまりにも声色と内容が合ってなさ過ぎて、違和感がある。
「前に話してたお母さんとの思い出話は、ちょっとだけ昔の話。君と出会ったときにはもういなかったの」
そういえば、彼女はいつもの木造ベンチでお母さんの話を頻繁にしていた。しかも、それが最近起こったことのように。
何故、そんなことを?
「お母さんがね死んじゃったのは病気。もちろん病院には頼ったし、できることは全部してあげた。でも無理だったの」
彼女は以前、お母さんの話をしていたときのように満面の笑顔で、でも僕はそれが少しだけ悲しそうな顔に感じた。
きっと、そうでもしないと話せないんだ。
「けどね、それに耐え切れなかったの。――お父さんは」
相槌を打つ空気がなかった。打っていいのかわからなかった。両親が二人とも元気な僕が彼女に同情するようなことをして、何になるのか。
一人語りが続いていく。
「どうにかして、寂しいのを抑えなきゃいけなかったんだと思う。だからお父さんは私に学校にも行かせないで、朝から晩までずーっと練習させたの」
彼女は少しだけ困った顔をして、
「ちょっとだけ、君に嘘ついたね」
と眉を下げた。そういえば、学校には通っていると話していた。
「その前からオペラ業界にはいたけれど、そのうちにぐんぐん人気が伸びていってCDとかDVDとかチケットとかも飛ぶように売れていって……でも、お父さんはまた、そっちにのめり込んでいっちゃった」
ここまで、彼女の瞳は揺れなかった。少しだけ潤んだのはこの後だった。
「嫌になって逃げちゃったよ」
声は明るいのに、きらきらと輝く雫がぽたりと一つ落ちた。それが美しく見えたのは、僕がおかしいのか。彼女が綺麗な人過ぎるのか。
「風邪なんか引いたら価値が下がるっていわれちゃったよ」
「っ!」
自分の顔がしかめるのがわかる。
だって、流石に実の娘にそれはないだろう。いや、人として、人に価値をつけるなんてことおかしい。
けれど、その判断ができないくらいに感性が鈍っているのだろう。
「でもさ、やっぱり歌が好きなんだよ。私は」
だからね、と彼女は一拍置いた。
「私は歌い続けたいの」
そのときの笑顔は長い間眠り続けていた桜の花が、春、温かくなってゆっくりではなく一瞬で咲いたような……そんな清々しくて、美しいものだった。
全速力で駐車場駆ける。公演はぎりぎり始まっていない。
「ねえ、タクシーに貴重品置いてきて大丈夫だったかな!」
「だいじょーぶだいじょーぶ! 私の家の名前出したから、届けてくれるよ!」
何と無責任な。携帯から何まで、彼女に腕を引っ張られたせいで持ってこられなかったというのに。
通常であればホールの正面から入るけれど、もちろん出演者の彼女は裏口から入る。そうでないと、髪色できっとばれてしまう。
関係者以外立ち入り禁止とある、灰色の大きいドア。それを彼女は簡単に開けた。
中に入り、彼女の手に引かれるがままに廊下を駆けていく。途中、何人かの人に声をかけられたりしたけれど、立ち止まる気すら彼女にはないようだった。
奥に進むにつれ、人は多くなってくる。ほとんどが驚いた表情を浮かべながら、作業の手をとめてしまっていた。
「遅れましたっ!」
ぱっと一気に視界が開けた。そこはたくさんの人が入り乱れていて、顔に何かを塗りたくっていたり、衣装のチェックをしていたりしていた。話し声が一気になくなり、全員の視線が集まる。
「何をしていた」
重苦しい声が、学校の教室二個分くらいの部屋に響く。
「息抜き?」
彼女の言動に出演者や裏方さんが焦ったように見えた。明らかに恐れている。
つまり、そういうことなんだ。彼女がいっていたことは。
「何が息抜きだ。それに――男まで連れてきて」
鋭い眼光が僕に向けられる。気を抜けば、一瞬で地獄へ持っていかれそうなくらいの雰囲気が漂っている。
「お前以外にあの役は務まらん。今更どうするつもりだ」
視線が彼女に戻る。彼女は軽く言葉を返す。
「お父さんが今まで私にやってきたのはひどいことばっかりだったけど、私は歌いたいと思うよ」
周りが息を呑む。この親子がどうなるか、見守っているのだ。
「だから、一番最初のわがまま。――私、舞台に出ていい?」
彼女が周りをぐるっと見る。いきなり話を振られて、誰も口を開けようとしない。
しかし、その空気を割るように
「もっちろんよ! ねえみんな!」
しっかりと化粧をしたドレスの女性が彼女に抱きついた。僕の方を見て、片目でウインクをする。
すぐさままた後ろを向き、視線をぐるっと半円を描くように動かす。
すると、次々とそれに便乗するような声が上がってきた。
「……勝手にしろ」
彼女のお父さんはこちらに背を向け、どこかに行ってしまった。
先ほどの、クルクルとコテで巻いた茶髪の女性が彼女に声をかける。返事をする時間もなくやってくる質問にあわあわしながらも、他の仕事仲間であろう方々が彼女の腕を引っ張り、どこかへ消えてしまった。
僕は何をしたら良いかわからず、そのまま立ち尽くす。
「ちょっと君ー! エライことしちゃったねえ!」
肩くらいまである金髪で、チェック柄の上着を肩に引っかけた若い男性が僕の横腹をつつく。
「え、えっと」
どう返すべきか言葉を詰まらせていると、彼は僕の手首を掴み、ずんずんと引っ張っていく。
「どっどこに行くんですか?」
「まあ、ついてきなさいな」
陽気にいう彼はきっと、二十代後半ら辺だろうか。若さが残りつつも、落ち着きがあるし、あまり若いとこんなことをする余裕も恐らくないだろう。
彼が連れてきたのは舞台袖。見たこともないような数のスイッチが壁にたくさんあったり、モニターが十数個あったりと、何の為にあるのかもわからないものだらけだ。
幕が下ろされた舞台の上はもう、完成された世界が広がっている。
「あっれぇ? 誰その子。新人さん?」
少し太り気味のおじさんがちくちくしていそうな髭を触りながら、金髪の彼に話しかけている。
「逃走してたあの子の彼氏」
「あっらあ。そりゃまた、エライ子と付き合っちゃったなあ!」
立ち上がり、僕の肩を力強く叩きながらわっはっはと笑うその要領の大きさに感服する。大人になるってこういうことなのだろうか。
たくさんのことを経験して、大人になっていく。今回のことも、きっとある未来で笑い飛ばせるのかな。
「そう、ですね」
小さめの声で返すと、また大人二人は大げさに笑った。
そこからは会話に無理やり混ぜられて、どんどん時間は過ぎていった。いつの間にか舞台袖にはたくさんの人がスタンバイしている。
「やっほ、彼氏さん。結構なことやってのけたわねえ!」
彼女に抱きついていた女性が僕の肩に腕を乗せる。ドレスのレースが首に当たってかゆい。
というか、彼女は何をこの人にいったのだろうか。
「ごめんね。化粧臭いわね。まあ、しょうがないけど」
とことん明るい人に思える。独特の雰囲気が周りに広がっている。
「あら。彼女さんのご登場よ」
召使いのように、軽やかに僕の前から体を動かしたその女性がニヤリと僕を見る。
「どう?」
黒地に金で刺繍が施されている仮面をつけた彼女は一言、それだけをいって僕からの返事を待った。
「似合ってるよ」
仮面と同様、真っ黒なドレスを身に纏った彼女は、そこにいるだけで中世ローマの舞踏会にいるような世界を創り出していた。
それは彼女がもう、役になっているからだろうか。
「まだ私は――じゃないわ」
心の中を覗かれたような気がした。
不敵な笑みを零した彼女の両手が僕の両手に触れ、柔らかいものが頬に当てられる。
「ちょっ」
周りの目が気になり、見渡す。
ひどいよ。ねえ。
文句の一つでもいってやろうとすると、ブザーがやかましく鳴った。
物語が始まる。
そんな中、彼女は僕に囁いた。
「大好き」
同じような言葉を彼女に伝える間もなく、彼女は僕が惚けていると舞台に立ってしまった。
少しだけ悔しい思いをしながら、僕は金髪の男性が持ってきてくれた椅子に座る。
舞台袖から見る彼女は少しだけ、あのCDやDVDの中の彼女よりも楽しそうに見えた。




