第十一話『彼女side』
* * *
「おとう、さん……。何でそんなこというの?」
わたしは目の前の人をいきなり信じられなくなった。いや、前からその兆しはあったと思う。
眉間に皺を寄せ、鋭い眼光を向けてくるお父さんは、わたしの視界では歪んで見えた。
「お前が早朝にどこかへ出かけているのは知っていた。しかし、稽古を怠っていると使いから知らされては――お前を外へ出すわけにはいかない」
何を、いっているの?
「しかも男と会っているときた。お前は普通の女ではない。この家の女だ。そんなことをしている時間があれば、稽古をしろ」
ねえ、優しかったお父さんは何処へ行ったの?
硬い大理石でできた床に、わたしの涙が落ちる。優しいメイドさんがハンカチを渡す手を払ってしまう。
「あなたに、何がわかるの?」
今まで聞いたことのない自分の怒りに満ちた声が、高い天井に反射する。
「お前は世界で活躍するオペラ歌手だ。雨の中外出して、風邪でも引いたら……価値が下がる」
「――っ」
その言葉に憎しみを抱いた。メイドさんが声をかけてくれるのにも応えたくない。
「何よ、価値って。わたしは……わたしはあなたの所有物じゃない!」
声を張り上げると、お父さんはさらに眉間の皺を深くした。
「お前はこの家の立派な稼ぎ頭だ。それを大事にして何が悪い」
平然とそういうお父さんにわたしは軽蔑の意思を目線にのせる。
踵を返すと、大好きなワンピースの裾が大きく円を描いた。
部屋を飛び出し、自分の部屋から少しのお金を持っていつもの逃走ルートを使って外に出た。
走って、走って、走って。
自分でどうしたいかわからない。とりあえず、全部から逃げたかった。
――会いたい。彼に……名前も知らない彼に会いたい!
メイドさんにお願いをして手に入れた電話番号は、記憶するほど毎晩眺めていた。もちろん、家の電話でその番号を押すことはなかったけれど。
緑のボックスに入り、持っているお金を投入する。震える手を必死に動かして受話器を耳に当てる。
繋がった瞬間に声は思わず出ていた。
「たす、けてっ!!」
酷い声。世界でも有名なオペラ歌手とは思えない、喉の使い方だった。
「え、どうしたの?」
彼の戸惑いながらも優しい声色が、耳を振るわせた。
「わかっら、ないの! もう、どうしたらいーかわかんない」
情けない。彼の声を聞いて、安心して……甘えている。
「どこにいるの?」
少し焦った声。その声に縋りついてしまう。
「行くから――ちゃんと行くから」
彼の芯の通った声が、わたしの胸にすとんとくる。
ああ、だめだ。
この人に甘えてしまう。
「……っいつ、ものばしょに、いるから」
気持ち悪いくらい涙が流れる。
「行くから!」
そういって通話は切れた。ツーツーと無機質な音が響く。
わたしはボックスから出て、彼と出会ったあの丘を目指して走り出した。
初めて彼と出会った丘は暗闇の中でもひっそりと、その存在を示していた。
普段走ったりしないから息が、酸素が上手く入ってこない。丘の麓に蹲りって必死に息を整える。
大好きな雨は体温をどんどん奪っていく。自分の体が冷たくなっていくのがわかるほどに。
……ねえ、寒いよ。何でこんなにしんどい思いをしなくちゃいけないの?
それが心の底に落ちる頃、世界は幕を閉じた。
「――じょうぶ?」
ああ、きてくれた。ちゃんときてくれた。
彼の声は私の胸にじんわりと温かさをくれる。
「助けて……」
けれどその温かさは私にとっては毒で、私に向けられていいものなのかと疑問に思ってしまう。
「うん」
力強く返事をしてくれたことに安心し、大人しく抱擁される。
あったかい。
きっと、私には温もりが足りない。
昔はお母さんが抱きしめてくれた。「大丈夫よ」って魔法の言葉を囁きながら、精一杯の愛情と温もりをくれた。
でも、お母さんはもういない。
彼に話したお母さんとの楽しい日々は、数年前に突然終わってしまったから。
「――価値が下がる」
お父さんの氷柱のように鋭い声が頭の中で再生される。
それから逃げるように私は、
「逃げた、い。……誰もっ、私を知らないところに行きたいの」
子どものように泣きじゃくりながら彼に助けを求めてしまった。
彼の男の人らしいしっかりとした腕が、私を包んでいる。
私はそれに甘えてしまう。
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