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ああ、まただ。うんざりする。
ここで、その人に合わないということの方が難しいとはわかっているけれど。
「ユキ」
「お疲れ様です」
黒崎兵吾、この人は本当に何度会っても緊張する。同じやりとり、私はそれで構わないけれど、不満げだ。
本当に厄介な人だと思う。素通りなんかさせてくれない。
「なぁ、お前、もっと髪伸ばせよ」
不意に髪に触れる指、ビクリと反射的に肩を上げれば面白そうに笑う。
「それは、私が“彼女”に似ているからですか?」
「似てなんかいねぇよ。ただ、俺は髪が長い女が好きなんだよ」
ボスに、それから他の人に言われたことがある。私は“彼女”に似ているのだと。
“彼女”――この人のライバル、ライバル組織のトップ暗殺者レイン。もうこの世にはいない人。恋をして、組織を抜けようとして、自らのパートナーに射殺された女の子。
夕立のようだったと言われる彼女を私は知らない。
「でも、あの子は短かったですよね」
この人と関係を持った女の子、私が代わらなければならなくなった子はボブカットの可愛い子だったと聞いている。
「だから、あれは俺が誘惑したんじゃねぇっつの」
「彼女は先輩に誘惑されたと言っていたらしいですけどね」
最後まで彼女はこの人から離れたくないと言ったらしい。愛しているのだと、愛されているのだと叫んでいたと言う。私はそれを聞いてぞっとした。
「女は平気で嘘を吐くだろ」
それはあなたの方だと言えたならすっきりしただろうか。言えるはずがない。面倒を避けたいから。
「何で、髪が長い女が好きなんですか?」
聞きたくもないけど、きっと聞いてあげないと逃げられない。
「掴んで引っ張りてぇから。あ、バックの時にな。あ、わかるか? 何なら、実際に……」
「最低なのが体に染み着いてますよね、先輩って」
その先を言わせるのは不快だった。もちろん、させるのも。
「冗談だ」
肩を竦めて笑うこの人は何を考えているのかわからない。。
「センスのない冗談ですね」
本当に、最悪だ。どんどん嫌な気分になってくる。
「お前は長い方が似合うってのは本心」
また髪がさらりと撫でられる。こうやって、その笑みで彼女を虜にしてきたのだろうか。私は絶対そうならない。
「信用しませんよ」
「信用しろよ、お前のパートナーになるんだから。もちろん、仕事のな」
恋人としてのパートナーであるとは思わなかった。そんなおぞましいこと考えたくもない。
『なぁ、俺と組まねぇ?』
先日の言葉が蘇る。悪趣味な冗談がはっきりと耳に残っている感じがする。
「それはボスが決めたんですか?」
「いいや? 俺が決めただけ」
おどけたような答えでほっとした。ボスの命令だったなら逆らえない。でも、勝手に決めたと言っても決定事項ではないはず。それは冗談と同じ。
「辞退させていただきます。私のパートナーは決めていますから」
「あいつはもう終わってる」
「終わってません。だから、待つんです」
私には京がいる。パートナーだったわけじゃない。元々決まった相手がいたわけじゃなくて、色々な人と組むことがあった。その中で一番信頼していた先輩。今は暗殺者としては失格かもしれないけれど、必ず復活すると私は信じている。
「お前には俺が必要だ」
そんなことはありえない。勝手に決められたくない。
「彼には私が必要なんです」
これは本気で思っている。彼は私を必要としている。それは確かなことだけど、それだけじゃない。
「俺にはお前が必要だって言ったらどうする?」
それもありえないことだ。ひどい冗談だと笑えてくる。
「私は先輩には必要のないものです。失礼します」
私はこの人に必要とされる人間じゃない。パートナーにもライバルにもならない。
そうして、一礼して足早に去った。
******
“黒豹”――そう呼ばれる男はその名の通りぎらついた目で相手を見た。獲物を前にした猛獣のような気分で舌なめずりする。
「よお、新入り」
滅多にここに現れない男を前に兵吾は笑みを見せずにはいられなかった。
「確かに、ここでは後輩かもしれないね」
標的――志岐京史郎は肩を竦める。兵吾よりも少し年上の男だが、彼の言葉通りだ。ここでは、兵吾の方が先輩であり、今や実績も上である。
「殺しができねぇ奴なんて先輩でも何でもねぇからな」
「あぁ……そういうこと」
特に傷付く様子を見せるわけでもなく、京史郎は納得した様子だった。こんなからかいも慣れているだろう。今までいた場所でもそうだったはずだ。
トリガーを引くことができなった人間に優しいところではない。
「俺が殺しを教えてやろうか? 新入り」
「俺は今は情報収集に専念してるから」
いかにもな容姿通り彼は組織の系列のホストクラブで働いている。元々、そういう才能もあったと言うが、兵吾としては納得できない。
「だったら、引退しちまえよ。殺しは辞めたってはっきり言えよ」
「いつでも戻れる」
「嘘だな、このまま一生戻れねぇよ」
虚勢だと兵吾は笑い飛ばす。彼の前の巣は随分と甘かったようだ。
使わなければ勘は鈍る。戻れると思っているのは本人だけだ。彼がいつまでも過去に縋り付くから、進めずにいる人間がいるのに、彼は見ようとしない。
「ユキだって、メーワクだろ。あんたが戻るかもしれないと思ってパートナーを決めねぇ。あんたを選び続ける。あんたがあいつの信頼に、優しさにつけ込んで縛り続けるから」
兵間雪奈、その名前を出せば京の表情が変わる。彼にとって特別であることはわかっている。
彼女が懐いていたように、この男が彼女を大事にしていたこともわかっている。けれど、精神状態は不安定で、腕のいいスナイパーであったのに、今はホストなのだから落ちぶれたとしか言いようがない。
支部長も見切りをつけ、餞別だと体よく彼女に押し付けた。
「それがあいつのためにならねぇって、わかってるだろ?」
いっそ、彼の存在がない方がいいと兵吾は思う。けれど、絶対のパートナーを失って墜ちた男を知っている。
「あんたが戻らねぇなら、俺がユキのパートナーになる」
言い放てば明らかな敵意が向けられたのがわかる。仕事柄、殺気には敏感だが、やはり彼はどこか欠けたナイフのようだ。
「いつまでも一人じゃいけねぇ。その内、あいつにだって後輩はできる。だが、あいつはまだ経験不足だ」
「雪奈は支部では一番だった」
そんなことは兵吾も知っている。だから、今まで以上の伸びしろを期待して本部の荷物と化した少女と交換したのだ。同い年でも別物だと見た時から思っていた。初めから彼女がここにいれば良かったのだと思うぐらいだ。
「はっ、そりゃあ田舎の話だろ。ここじゃあ俺が一番で、あいつはまだ足元にも及ばねぇ。だから、田舎娘に俺が直々に指導してやるって話だ。悪くねぇだろ?」
いずれは自分を越える暗殺者になるだろうという予感はある。だが、今のままでは潰れてしまうとも感じている。
全ては目の前にいるこの男のせいだ。
「嫌なら、あんたが俺と組めよ。一度でいい。上手にできたら、俺がボスに言ってやるよ」
悪い条件ではないはずだ。一度だけパートナーを務めて、仕事が成功すれば彼の復活と、二人をパートナーとして認めるように兵吾がボスに口添えする。
それだけの権力を今の兵吾は持っている。自分の願いを通すために体を差し出すことにも抵抗はない。元々、兵吾も好色な質だ。
だが、京史郎は疑いの眼差しを向けてくる。
「おいおい、信頼しろよ。あいつは俺のことをボスの男娼だって言ったくらいだ」
彼女に言われるのは妙に気に食わなかったが、事実そういう関係なのだから仕方がない。
「ボスのお気に入りの俺が後押ししてやるって言ってるんだ、素直に聞けよ。それとも、本当は不能なんじゃねぇの?」
彼を焚き付けるのは兵吾にとってたやすいことだった。彼にとって雪奈の存在は甘い蜜だ。自分の物になるか、他人の物になるか、それは大きな問題だ。特定のパートナーがいなかったこれまでとは違う。
「……わかった。ただし、俺が戻れたら、雪奈にちょっかいは出さないでほしい。ここで君に会うのが憂鬱みたいだから」
じわりと兵吾の中に苦々しいものが広がる。彼に言われずともわかっていた。雪奈は兵吾を見る度、嫌そうなうんざりしたような表情を見せる。
嫌われていることは百も承知だ。
「ガキに興味はねぇよ。俺はいい先輩なんだぜ?」
ニカッと兵吾は笑ってみせる。これはゲームだった。最大の獲物を永遠に失った獣の戯れだ。
せいぜい楽しませろよ、と心の中でほくそ笑んで肩を組んだ。
******
ムカムカする。何も納得できなかった。
学校帰りに本部に寄って初めて私が暢気に表向きの人生のために授業を受けている間に起きたことを知らされた。
決定事項として伝えられたのは京がこの先暗殺者として使える見込みがまるでないこと、情報収集でさえ上手くできないようになれば未来はないということ、そして、私が“黒豹”のパートナーになるということ。
京が報告のために本部に行くと言っていた時から妙な予感があった。報告自体は傘下のホストクラブを通してしているけれど、直接聞きたいとボスが言ってきたそうだ。
散々私に絡んでくるあの男が京を見逃すとは思えなかった。案の定、パートナーとして仕事をしろと持ちかけたらしい。危惧した通り、京の亀裂に手を突っ込んだ。
家へ帰れば明かりはついていなかった。
今夜は休みになったと言うから、休んでいるのかもしれない。久しぶりに暗殺の仕事に出たらしいから。
でも、嫌な予感がしてる。見込みなしと判断されたってことは上手くできなかったってこと。任務は“黒豹”が問題なく遂行したから処分に値するものでないとは言うけれど、その通告がどれだけ重いものかをわかってない。
「ただいま」
京が家にいるのは気配でわかる。靴は脱ぎ散らかされていて自分の靴と一緒に揃える。
その時、京が動いたのを感じた。
「ただいま、兄さん」
どうしたらいいかわからなくて、いつも通りに口にする。
電気をつけようとして抱きすくめられる。相手はわかっている。だから、暴れるつもりはない。けれど、手探りで電気をつける。
広い胸がそこにあって、動けない。
「兄さん」
もう一度、確かめるように呼んで、力が込められるのを感じる。
「……京」
力が緩む。でも、抜け出せない。
前にもこういうことがあった。あれは、京が暗殺者としてダメになった時、あの時から私は彼の安定剤になった。
仕事でミスがあったわけじゃない。パートナーのミスによってパートナーを失った。自分の援護が間に合わなかったことを悔いて、死を恐れて、引き金を引けなくなった。死んだパートナーと同じように。
「ねぇ、雪奈。何がほしい? 何でも好きなモノを買ってあげるよ? 服でも宝石でも」
「要らない。何もほしくない」
そんなものがほしくて生きてるわけじゃない。
彼だって同じはずだ。組織の系列のホストクラブに飛ばされてからナンバーワンに上り詰めた彼の稼ぎは相当なものだと思う。
「凄く可愛いネックレス見つけたの。雪奈に似合うよ」
私は着飾ることに興味はない。
「こっちのワンピースも。さ、着替えて」
手を引かれて行けば、可愛らしいピンクの花柄のワンピースがかけられている。ヒラヒラのふわふわ、私の趣味じゃない。
「これから高級レストランにでも行ってみようか」
京は笑っているけれど、無理しているのは明白だ。何かを振り払おうとするかのように。
「ねぇ、何があったの?」
「別に、何もないよ。お休みもらったし、そういう気分なだけ」
違う。そんなことじゃない。私だって、京のことを何もわかってないわけじゃない。
彼が嘘を吐く結果は知っている。それを彼に言わせるべきではなかったのかもしれない。
「そうは見えない。豹に何を言われたの?」
あの男のことだ。一切の容赦はなかっただろう。京の心を壊すことなんて標的を一人殺すよりもずっと簡単なはず。
「結局、どれだけ稼いでも俺は空虚なままの孤独な男、金なんて必要ないって気付いただけ、だから、俺のお金は全部、雪奈のために使ってあげる」
「必要ない」
京はいつでも戻れると思っていた。ただ少し休んで、諜報活動に専念するだけなのだと。でも、もう戻れないと突き付けられて、拠り所がなくなってしまったのかもしれない。お金だけが虚しく手元にあるのかもしれない。
「ねぇ、雪奈、お願いだから、俺を拒絶しないで、俺から離れて行かないで、ずっと側にいて」
「側にいる。だって、仲間だもの」
ほしがっているのはそんな言葉じゃないってわかってる。でも、私はそれしか言ってあげられない。
「どうして、一番ほしいものは手に入らないんだろうね、こんなに近くにいるのに」
もう一度、抱き締められて、ただ動かずにいるしかなかった。
「愛がほしい、偽りでもいいから、俺のこと、愛してるって言って?」
それは、禁断の言葉だと思う。絶対に言うべきじゃない。言ってしまったら、後戻りができなくなる。偽りでもいいなんて、絶対にダメ。
京が必要とするなら、私は側にいる。でも、一緒に堕ちるつもりはない。
「京。私と組もう? 大丈夫だよ。あいつとは相性が悪いだけ」
もしかしたら、ってずっと思っていた。けれど、私でダメだった時に本当に京が終わる気がして怖くて言えなかった。
明日からあの男と組まなければならない。でも、狙撃の天才が蘇るなら、ボスも文句は言わないと思う。あの男に私の力は必要ない。誰の力も必要ない。
「ダメだよ、雪奈。あいつは俺から君を取り上げるから」
京は弱々しく首を横に振る。いつも綺麗にセットされている髪はボサボサで女性を射止める目は赤く、瞼は腫れぼったい。あの時でさえ、手が震えて動かなくなったことをただ呆然と受け止めていたのに。
「だから、今日だけは……」
ギュッと抱き締めてくるその腕が悲しい。大型のライフルを従順な恋人のように扱っていた腕はもうないのだと思った。トリガーを引く指は髪を撫でるだけの武器に成り下がった。獲物を射る目もそう。
必要とあれば男も相手にする。この人はもうそういうものになってしまったんだ。私が憧れた狙撃手はもういない。




