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指をかけた、この引き金一つで人生が変わるなんて滑稽すぎる。
ほら、スコープの先で一つ命が終わる。
人殺し、他人はこの行為をそう言う。
でも、誰だって願ってる。
あいつに死んでほしいって、誰かを殺してしまいたいって。
私は自分の意思で殺しているわけでもないけど、そうすることで神様になれるなんて思ったことはない。
人は人でしかなくて、それ以上にはなれない。
たとえ、人を殺めても。
失敗は許されなくて、その先にあるのは死で、地獄。
*****
面倒臭いとか思っても、やらなきゃいけないことはわかってる。
それが私が選んだ道、私のリアル、引き返せないから、闇しかなくても進む。
生きる環境が多少変わったところで、何かが劇的に変化するわけでもない。
いずれ慣れて、今は恋しい前の場所を忘れてしまう日が来る。
懐かしむ暇なんてきっとない。
どうせ、一つの場所には留まっていられない。それでいい。
刹那に生きて、散っていくことだけが全て。
ただ、未だ慣れられないことがある。
その人に会うのだけは、どうしても慣れられずにいる。
「お疲れ様です」
平静を顔に張り付けて、ただ自然に言って、通り過ぎようとする。
それだけのことに神経を使うのは、毎回、それだけで済んでくれないから。
「ユキ」
名前を呼ばれて立ち止まる時、顔に出ていないか不安になった。
この人が苦手だ。何度会ってもその意識は変わらない。
跳ねたセミロングの髪は染めもせず黒々としている。
いつもワイルドなファッションに身を包むその人は黒崎兵吾――“黒豹”と呼ばれ、組織でトップの実力を誇る暗殺者。
そのコードネーム通り獣のような空気を纏っている人だと思う。
ここに来て以来、顔を合わせれば絡んでくるこの人が苦手。
「何でしょうか? 黒崎先輩」
「おいおい、ヒョーゴでいいって何度も言ってるだろ?」
馴れ合いなんて、私たちには必要ないと思う。
でも、その人はそういうものが好きらしい。
「ユキ」
兵間雪奈だからユキ、あるいは、“雪豹”と呼びたがる。正直、この人にはユキなんて呼んでほしくないんだけど、言っても無駄。言えば余計に面白がる。この人はそういう人。
「何ですか?」
「呼んでみたくなっただけ」
「……暇なんですね」
この人のことは本当によくわからない。会う度に絡まれて、大体意味はない。
今日も報告を終えて、さっさと帰りたいのに、そういう時に限って遭遇する。
「お前、俺にそんな口きいていいと思ってんのかよ」
「そうですね。私は先輩と違って、いつでも切り捨てられますから」
言った瞬間、睨まれて息が詰まりそうになる。
「それ、どういう意味だよ?」
なぜ、そんなことを問うのだろう。わざわざ私に言わせたいのか。
この人にとっても、それはわかりきったことであるはずなのに。
「先輩はボスの男娼らしいじゃないですか」
「お前っ……」
ボスとこの人の間に肉体関係があることは、ここの人間なら誰もが知っている。
ボスが好色な女性であることをみんなが知っていて、この人がそのお気に入りであることなんて明らか。
支部からやってきた私にもすぐにわかった。
「別に軽蔑してるわけじゃないです。そういうことも暗殺者としては必要だって知ってますから」
この人がボスと寝ようが何しようが、私には一切関係ない。
「まあ、お前みたいな貧相な身体の色気もねぇガキじゃあ、ロリコンのスケベジジイの相手しかできねぇだろうよ」
舐めるように見てきて、棘のある言葉を吐き捨ててくる。でも、そんな小さな棘じゃあ傷付かない。
「私がこちらに飛ばされたのは、先輩のせいだってことをお忘れですか?」
「はっ、別に、俺のせいじゃねぇし」
「全く関わってないなんて言えるんですか?」
誰だって、あの件について聞けば、この人に原因があると言うはず。
あの子に全く非がないってこともないけど、この人が無関係ってことはあり得ない。
「あのなぁ、この世は溺れた方が負けなんだよ。藁掴んだって救われねねぇ」
折れるように溜息を吐く様はわざとらしいとしか言えない。反省の色なんて微塵もない。
「そういう駆け引きを組織内でするべきではないかと」
はっきり言って迷惑以外の何物でもない。
言ってしまえば面倒になるから言わないけど。
「仕方ねぇだろ、溜まるもんは溜まるんだ。それに、誘ってきたのはあっちだし」
「最低な男ってそう言いますよね」
あの子のことだって、私はよく知らない。この人のせいで私と入れ替わることになった同い年の女の子。
「大体、使えねぇ男連れでやってきた奴が偉そうなこと言ってんじゃねぇ」
「支部長の餞別です。彼が最も信用できますから」
何て品のない言い方だろうか。私と一緒に本部にきた彼は私のパートナーというわけではない。
支部長に厄介払いの意図がなかったとは言えないと思う。
ただ私にとって兄のような人、この人が言うような性的な関係は一切ない。
「あんなのただのエロ要員だろ、暗殺者としては完全に不能だ」
私はそれを否定することができない。
最早、あの人は元暗殺者でしかなくて、支部では主に情報収集をしていた。表の職業はホスト。
私は別に軽蔑なんてしない。彼が苦しんでるのを知っているから。
だから、軽蔑するなら、この人の方。
「先輩に他人を侮辱する資格があるんですか?」
あの人は別にセックスを売り物にしてるわけじゃない。
「お前、ほんと、生意気だよ」
「ありがとうございます」
褒められてないことぐらいわかってる。
何を言われるか身構えて、でも、言葉はなかった。
代わりにあったのは、一瞬の隙をつく攻撃に等しい行為だった。
避けられなかった私の完全なる不覚、唇に触れた感触、間を置いてその意味を理解して、一気に頭に血が上る。
そのほんの少しの接触、虫が止まったような、何でもないようなことだったのかもしれない。
だけど、それは私にとって侮辱でしかなくて、考えるよりも先に手が動いていた。
馬鹿にするような笑みを浮かべるその顔めがけて手のひらが--
手首が受け止められた。手のひらは予定の位置には届かなかった。
「随分、気が強いんだな。まさか、チューは初めてとか言わねぇだろ」
軽々と私の拳を受け止めて浮かべる笑みは“黒豹”の名にふさわしく獣じみていた。
「本当に懲りない人ですね」
あの子とこの人の関係がどう始まったかなんて知りもしないし、知りたくもない。でも、もう一度ゲームを始めたいのかもしれない。
そう思ったら刹那の怒りよりも呆れがやってきて、力が抜けた。それなのに、離してもらえない。振り解けない。
それどころか、壁に押し付けられ、見下ろす顔が近くなる。
さっきはどうだったかなんてわからない。余裕がないと言うよりも認識できていなかった。殺し合いだったらと思うとぞっとするほど油断していた。
身内さえ信用できないとわかっているのに。
「別にお前に気があるわけじゃねぇよ。ぶっ壊してやりてぇと思っただけだ」
猛獣の如きぎらついた目が私を射るように見る。どこまでも鋭く、その笑みを浮かべる唇の向こうにある牙を隠さないかのように。
「私は壊れるわけにはいかないんです」
私が壊れたらあの人はどうなるんだろう。
「そんなにあいつが大切か?」
「そうですね、大切な仲間ですから」
見透かされたように笑うその人に、怒りはもう沸いてこなかった。
「気に食わねぇんだよ、お前」
それが本心、こっちに来てから顔を合わせる度に絡んでくるのはそういうこと。私を潰したいから。
でも、私が何かをしたわけじゃない。
「先輩こそ、もうこの世にいない誰かのことで私に当たるのは止めていただけますか?」
「何だよ、それ」
今度はその人が怒りを見せる番だった。けれど、侮辱の後でタブーに触れるのは怖くなかった。
「先輩がライバルを失ったからって、私には関係ありませんから」
あの人を不能だと笑うなら、この人にだって今からそうなる可能性は十分にある。
“黒豹”は唯一最大のライバルを失った。その孤高は決して栄光の舞台ではなく、単に競争相手が崖から飛び降りたってだけ。
それは永遠に負けたってこと。もう勝つことなんてできない。
「では、これで失礼します」
抜け出そうとして、やっぱりできなかった。
もう一度、今度はより強く壁に押し付けられる。
暴力的で、プロの暗殺者らしからぬ冷静さを欠いた行動に思えた。
先輩からの警告のつもりなのか、そんなのはどうだっていい。
「っ……」
さっきのはほんの接触にすぎなかった。
改めてそう思うのは、思考を奪おうとするそれから逃れたかったからなのかもしれない。
逃げたいのに逃げられない。逃げることを許されない。
「なぁ、俺と組まねぇ?」
唇が離れて、その人は耳元で囁かれた。
わけがわからない。趣味の悪い冗談。一人で全然やれるはずなのに。
「先輩は下種です」
その目に映るものが何なのかわからない。怖いとも思っている。
でも、逃げ場はなし。作るか、過ぎ去るのを待つか。
「俺たちは皆そうだろ。それとも、自分は違うとか思っちゃってるわけ?」
「先輩は殺しを楽しんでいます」
それは噂で聞いていたこと。でも、ここにきて事実だとわかった。
「ビジネスは楽しくなきゃ続かないんだぜ?」
その笑みは肯定、隠すつもりなんてないんだろう。隠す必要もない、ボスのお気に入りだから。
「余計なオプションを付けることが、そんなに楽しいですか?」
「付けてみりゃあわかる」
わかりたくもない。私たちは暗殺者であって殺人鬼じゃないから。
「そのオプションが先輩ですか?」
ニヤリと笑うのは肯定なのか。随分とリスキーなオプションだ。
「一方的な競争を仕掛ける相手がいなくなったから今度は私を潰すんですか?」
ライバル組織トップの暗殺者にこの人はかなりご執心だった。
でも、彼女は死んだ。同じ組織の、それもパートナーだった男に射殺されたことになってる。理由は恋をしたからとか何とか。それ以上のことはわからない。
その時は私もこっちに来て、それほど経ってたわけじゃないし、担当じゃなかった。
それほど興味もなかった。ただ、それまでは軽い絡みだったのが、その時からひどくなった。
「別に失ったわけじゃねぇよ。手放してやったんだ。それだけだ。じゃあな」
勝手に引き留めて、都合が悪くなるとすぐにいなくなる。あまりにも身勝手。
*****
家に帰れば明かりがついている。
私は天涯孤独、だけど、兄がいることになっている。
「おかえり、ユキ」
そう微笑むのは、一言で済ませるならチャラい風貌の男。
京――志岐京史郎、私が支部にいた時一番信頼していた先輩。今は暗殺から離れて、主に情報収集のためにホストをしている。見た目通りのご職業ってこと。
髪はアッシュブラウンに染めていて、きっちりセットされている。
私が帰ってから出勤するからスーツを着ている。
「ただいま、兄さん」
とても私の兄には見えないけど、そういうことになってる。
そうでなければ、ホストと女子高生の同居なんて不審がられる。
「そんなに徹底しなくたって誰も聞いてないよ」
盗聴器があるわけでもないし、と京は笑う。そういう被害妄想がひどいのは私の方じゃないはずなのに、今の京は落ち着いてるみたい。それはいいことだけど。
「肝心なところでボロが出たら困るから」
「雪奈なら大丈夫。まあ、俺は特に変える必要もないんだけど」
兄役だろうと、京の私に対する接し方は基本的に変わらない。苦労するのは私だけ。
「せめて、京兄とか可愛い感じにしない?」
「もっと可愛い女の子に言わせた方がいいよ」
京兄なんて私のガラじゃないし、お願いを聞いたらどんどんエスカレートするのはわかってる。
「今日はどうだった?」
肩を竦めてから、京が聞いてくる。毎日、それを聞くのが義務みたいになってる。
「また豹に絡まれた」
大体、これがお決まりの返答。
こっちにきて、そんなに経ってないのに、この頻度の高さは何だろう。
「俺も会ってみたいな」
「会わない方がいいと思うけど」
「そうかな?」
これもお決まりの会話。京はあの人に会うべきじゃない。絶対に会わせたくない。
絡まれるのは私だけでいい。きっと、あの人はこの人の亀裂に触れて、粉々に壊してしまうから。
「そろそろ、出勤でしょ?」
「行ってくるね」
「いってらっしゃい」
偽物のドライな兄妹。でも、京が望むから玄関で見送りだってする。
「行ってらっしゃいのチューとかダメ?」
靴を履いて、出て行くと思ったら、くるりと振り返る。
「兄妹はしないでしょ? 新妻じゃあるまいし」
一体、私に何を求めてるんだろう。
「俺からするから、ユキは動かなくていいよ。ね?」
「兄さん」
その声に少し、呆れと怒気を込める。
別に嫌いなわけじゃない。
ただ、恋愛的な感情は存在しない。それは京にとっても同じこと。
心を開けて、ワガママを言える同業の女の子が私ってだけ。
「折角、ユキと同棲するんだし、もっとベタベタのキョーダイがいいのにな」
「さっさと仕事に行きなよ」
半ば追い払うようにして、ようやく出て行く。本当に渋々といった感じで、帰ってきたら仕返しをされるんだろうけど、何でも要求を飲むことは正しいことじゃない。
京は私の保護者じゃない。私が京の保護者という扱いになっている。
私は京を守らなければいけない。
今にも壊れてしまいそうな京を繋ぎ合わせていなければ……




