四話 出立
その日、ミーリィーン領は初夏には珍しく、朝から父なる太陽は顔を出す事はなかった。
初夏は草木も花々も息づく季節である。広大な農地もあるミーリィーンでこの季節は、農地に肥料をまき、野菜の種まきをする大切な季節である。領民は子供も老人も朝から畑に出て、汗を流していた。
ミーリィーン領には養育所という子供達の学びの舎があった。
これはシュバイツが考案したもので、養育所では3歳~10歳のすべての子供達が農民の子供だろうが、商人の子供だろうが自身の領民には文字の読み書きや簡単な計算が出来るように無償の学び舎をシュバイツが建てたのだ。
養育舎は必ず行かないといけないというわけではないのだが、忙しい農家の子どもでも半日か二日に一回は来ていた。
教師役には神官より一つ位が低い神父や、リーベルト家に仕える文官などが勤めていた。
農民の子供が必ずしも農民にならなければいけないわけではなく、子供たちに様々な可能性を与える意味でも、治政を行う文官と領民が触れ合えるということはそれだけで領民の心を政治にいかせるのではないかという意味でも養育所はとても良い施設であった。
診療所の見回りなどがすめばシオンもよく来て子供達の相手をしていた。
今日もシオンはまだ畑仕事を手伝えない幼い子供達や、両親が仕事でいない子供たち相手に歌を歌ったり、自身が幼い頃にマリーヌやシュバイツに聞かせてもらった物語を話していた。
ミーリィーン領でパン屋を営む夫婦の子供であるシリルは、両親が仕事で忙しくかまってくれないのもあってこの養育所に毎日のように着ていた。そしてここにシオンが来るとシリルはシオンの側から離れなかった。
今日もシオンの隣から離れるそぶりはない。
シリルはこの優しい領主のお姫様が大好きであったのだ。
最初こそ見慣れない黒髪も紫電の眼に驚いて敬遠していたものの、シリルの父親が隣街まで小麦を仕入れに行った帰りに魔獣に襲われて傷を負い、その傷をシオンが治癒したということがあってからは、シリルはシオンにことさらなついたのだ。
今では他に見ることはない漆黒の髪も紫電の眼も、そしてなによりその不思議な雰囲気がシリルのなによりのお気に入りであった。
シオンも懐いてくるシリルを可愛がっていた。
「ねぇねぇ、シオン様。今日は歌を歌ってよ。僕シオン様の歌が大好きなんだ。」
シオンの周りには絶えず子供達が集まり、シオンの歌を聞いたり、物語を読んでもらうのを楽しみにしている子供が多かった。
シオンは自分が末子であることから、弟や妹に憧れている部分があり、村の子供をとても甘やかし、とても可愛がった。最初は領主様の姫君ということで、対応に困っていた神父たちもシオンが子供達とはしゃぎまわる様をみるうちに打ち解け、この養育所では子供達の笑い声が絶えなかった。
シオンはこの養育所で一番小さな3歳のルルシュをひざの上に乗せ、隣にはシリルを座らせ、古くから続く神に豊穣を祈る歌を歌い始めた。
自由な空行く太陽。偉大な太陽。
情熱深き光の王
哀れ光届かぬ大地に一条の光を。
大地の恵みの恩恵をとどけましょう。
心たゆたう水の主は、水の妖精
命の源、司る
枯れた大地に、恵みの雨を
無垢なる心届けましょう。
私は動けぬ樹、大地に根を持つ樹
私は飛べぬ樹、空を眺める樹
私は大地。光と水を受け止める。
豊穣を祈るこの歌は古き昔、種まきをするときによく歌われていた歌で、今日もこの養育所から少し離れた田畑で歌われていた。シオンはこのような神々が登場する歌をよく好んだ。シオンの声は優しく、よく響く為仕事をしていた神父も手を止めてシオンの歌を聞いていた。
長い長い歌が終わると膝に乗っていたルルシュはすっかり夢見心地になって、頭は船を漕いでいた。他にも眠たそうな子が多く、神父は次は昼寝の時間になってしまいそうだと思い苦笑したが、あまりにも平和な光景に眼を細めた。
こんな光景はミーリィーンでは特に珍しくもなく、魔獣に配給されない薬草
様々な問題が他の領地ではある時世こんなにのんびりと平和をかみ締めることが出来るのは、この美しくあどけない姫君がいてくれるからだと神父は常々思っていた。シュバイツ・リーベルトという類まれな善治政をする領主とこの姫君、ミーリィーンは本当に恵まれていた。
神父は子供達のあどけない寝顔を見てこの先もこの穏やかな幸せが続くように祈るしかなかった。
しかし、この幸せを危うくする事態はすぐそこまで迫っていたのだった。
この日、平和なミーリィーンに一つの情報がもたらされることになった。
―――――――皇帝陛下からの勅令を携え使者が領主の館にやってきたのだ。
内容は領主家姫君の参内を求める内容。
その情報は一気に領内を駆け回ることになった。
ミーリィーン領の領主城はいつもと違って緊張感がひしめいていた。
それもこれも、王宮から皇帝陛下直々の親書を携えた使者が来たからだ。こんな辺鄙ではないが特出した特徴のない土地に皇帝陛下があるとすれば、数年に一度ある視察ぐらいである。
しかし領主城で働くすべての…いやミーリィーン領に住むすべての領民には心当たりがあった。
――――――とうとう来てしまったか。
そこはミーリィーン領主城の会議室の一室。
そこには五人の人間がいた。
ミーリィーン領領主のシュバイツ・リーベルトとその側近ゼナ・トリーマー。その嫡男アルベス・リーベルトとその側近であり、ミーリィーン領の治安部隊の隊長も勤めるハッセン・トリーマー。そして、シオンであった。
シュバイツはうなりながら言った。
いつかこうなることは判っていた。シオンが領外の活動をし始めた時から。
五人は楕円形の机についていた。上座にシュバイツ。シュバイツの斜め後ろにゼナが控え、シュバイツの右側にアルベスが座り、やはりその斜め後ろにハッセンが控えていた。
シオンは一人反対側の下座に座っていた。
「ここに王宮からの使者が携えてきた親書がある。中身はお前と是非会いたいという内容だ。クルッシャの旧神殿での活動についてだろうな。これは断ることは出来ん。
あらかじめ話し合っていたように、ライナスにはお前のことが王宮に知られた時に備えて決めておいた暗号を交えた手紙を送っておいた。」
シュバイツはシオンの眼を見つめながら淡々とそう言った。しかし、その深緑の眼には、見えない苦悩があった。
シオンはその事に気づき、
「判りました。
…お父様、私は大丈夫ですよ?いつかこの日がやってくる事は判っていたことですし、皇帝陛下に謁見したら私の活動について理解して頂けるように頑張りますから。
お父様やお兄様の事が困るような事がないように…
ライナスお兄様は大丈夫でしょうか。」
そこまで言ったときにアルベスが言った。
「私たちのことは気にしなくて良いんだ!王宮に探られて痛い腹などないゆえな。
ライナスのことも大丈夫だ。お前が心配しなくていい。」
シュバイツは息子の言葉に頷きつつ、
「私達が心配しているのはお前の今後だけだよ。王宮に行ってその姿や力のことが公になれば、お前が色々な事に巻き込まれていくだろう。今後、お前がどうなっていくのか私たちはそれだけが心配だ…王宮にはもちろん私も付いていくがお前を上手く守れるかわからん。」
シオンはこんなにうなだれる父親を見るのは初めてだった。シオンは不謹慎だが嬉しく思った。血のつながりがない自分の事を心から心配してくれる父の姿はシオンに色々な勇気を与えた。
結局色々な話し合いがなされたが、皇帝陛下がどのような事を考えているかですべては決まるのだ。いくら考えても結局この事態に対する良い対応策は出ることはなかった。
シオンはこの時、事態の深刻さを甘く見ていた。
兄のライナスは皇帝陛下直属の近衛兵で、常々皇帝陛下の事を褒め称えている。
奸臣を許さず、奸臣どもの懐に入っていた国税をあるべき場所に戻したりと、賢王であることは間違いない。
そんな皇帝陛下なら、直接話せば自分の行動を認めてくれるのではないか、
そうシオンは考えていた。
なぜなら自分がしている事は民の怪我や病を治癒しているだけなのだから。
しかし家族に愛され、ミーリィーン領やクルッシャという優しい人々に囲まれて育ったシオンには理解出来ない心を持つ者が王宮にはひしめいていた。
シオンは優しい世界で生きすぎていたのだ。
そしてシオンは自分が人々にとってどんな存在であるかを軽く考えていたのだった。
『安易に民の心を集める事は危険なのだ』
『いたずらに民の心を集めることは危険です』
シオンはわかっていなかったのだ。
判っているつもりでもわかっていなかったのだ。
シオンはこの言葉の本当の重みを理解出来なかった、わからなかった事を後に後悔することになる。
そして父や兄の一番の危惧のことについてもシオンは全くわかっていなかった。
結局、使者が来た日の三日後にシオンと父・シュバイツはミーリィーン領主に忠誠を誓う30人弱の護衛兵を伴い王宮に出発することになった。
アルベスは自分も同行すると言い続けたが、領に領主もその嫡男も不在というのはよくないとシュバイツが却下した。その代わり、自分の代わりにと自身の側近であるハッセンを護衛隊に加えるという要望は許可した。
シオンが王宮から参内を求められたことは領内に不安をもたらすことになるのは明らかなので、なるべく民には知らされないようにシュバイツは使者からの親書の内容について知る者に口外しないように釘をさしたが、近年、このミーリィーン領主城になかったおかしな緊張感を感じない者はいないらしく、いつの間にか領主城だけでなく領内全域に『シオン様に王宮に参内命令が出た。』という情報が回った。
領民は皆、領の宝であり希望であり救いであるシオンが王宮にどんな用で呼び出されたのか思案に暮れ不安な気持ちをふくらませた。
王宮への出発日までシオンは皇帝陛下に謁見する際の礼節など様々細々とした礼儀や仕来りをマリーヌから学んでいた。
一応一通りの行儀作法は身に付けていたもののシオンにはそれを活用する場所がなかったため、再度点検の意味も含めてもう一度一から学びなおしたのであった。王宮のような古い体制を重んじる場所では行儀作法一つ間違えただけでも『田舎者』『世間知らず』と舐められかねないのだ。
ただでさえ王宮に良い感情を持たれているのか判らないのだ、たとえどんな小さな事でも相手に悪感情を持たれないように気をつけなければならない。
そんなこんなでシオンは領主城の中で王宮流の礼儀作法を身に付ける修練をしていたのだが、領民にとってはされすら不安の種になった。
普段、診療所や養育所など民がいる場所に気軽に訪れるシオンが『王宮から使者が来た』とされる日からぱったり顔を見せなくなったことから領民の不安が増大したのだ。
そしてシオンはミーリィーンから出立した。
シオンが再びミーリィーンに戻るのはシオンが思っているよりずっとずっと後だった。