三話 遭遇
「何で俺が密偵役なんだよ?!」
ヴァンスはイライラを隠さずそうさけんだ。そうヴァンスは女神といわれている存在の力の真偽と危険性について調べてくるように命じられたのだ。
なぜ魔獣対策の指令の自分が行かなければならないのか。
それにイラついてるのだが、命じられてしまったものはしょうがない。
実際女神にも若干興味があるのでいいのだが、それでも小間使いのような扱いを受けるのは面白くない。
「まぁまぁ、指令。これも立派な仕事ですから。っていうより何で自分も同伴なんですか?自分、文官ですけど。」
その憂さ晴らしのために、シンバの部下のトールを連れてきていた。トールは長身痩躯の銀色の髪に淡い翠の眼のかなりの美人だ。男だが。
シンバは頭が良くない者と容姿が醜い者が嫌いだ。
トールは勤勉で美しい人間なので、必然的にシンバのお気に入りに入る。
宮廷では今でも濃い色素を持つ人間が威張る兆候があるが、トールは平民出にもかかわらずシンバつまり宰相の秘書官というを位を持っている。
トールを妬む者も多いが、トールの優秀さに結局黙らずにはいられない。ヴァンスはトールが頑張っているのもよく分かっていて、そういうところを好ましく思っているので、たびたび連れ回すのだ。
トールがいなければ仕事が増えるであろうシンバへの嫌がらせも大変含んでいるが、、。
「まぁ、いいじゃねぇか。気分転換とでも思えよ。クルッシャまではそんなに遠くねぇし。お前は興味ねぇのか、女神サマ?」
女神もことは今回の仕事の範囲なのでトールにも話している。
「そうですね、貧しい民に無償でという所は非常に好感が持てますが、黒髪に癒しの力というのが本当かどうかが重要ですね。貧しい民は時に簡単に洗脳されてしまいますから。それはとても危険です。」
トールは宰相の秘書官としての感想を述べた。
「今は魔獣も被害がなんだってどこの領民も王宮に不満を待っているからな。
まぁどこの国も一緒だろうがな。巫女殿がまともに働かないのもあるだろうがな。」
ヴァンスは答えた。
そしてヴァンスのその言葉を聞いて、トールは馬を止めてたずねた。
「常々、伺いたいと思っていたのですが、巫女とは真に力を持っているのですか?
王宮でこのようなことを聴くのは不敬にあたるので、今まで誰にも聞けませんでしたが。」
トールは最後の方は小さい声でそう聞いた。
トールは平民出で王宮に参内した時に始めて巫女をまじかで見る機会を得た。
それまで、両親が敬虔な使徒で、巫女とは清廉でその力は神に通じる尊い人であるはず。と思っていたトールにとって巫女が化粧も濃く貴族の女性のように着飾って宮廷の浮世話に盛り上がっている姿は衝撃的だった。
そして滅多に民に祈りをしたりせず豪遊している事実を知り愕然とした。
それでも、巫女とはその存在だけで、国の宝である。
そんな姿をみたところで一介の文官風情が何か言えるわけでもなく今日まで疑問を胸にしまうしかなかった。
ヴァンスは王宮という汚いモノにまみれた処にいてもどこか純粋な年下の美しい男を見た。
今日まで疑問を言えなかったということはどこかでまだ巫女の力や神力を信じているのだろう。
「俺の意見がすべてってわけではないというのを前提で言わせてもらえば、巫女殿に住む巫女のほとんどが普通の人間、つまり俺達と大差ないだろう。
奴らは髪がちょっと濃く生まれただけで、神力なんてこれっぽっちもないと思うぞ。」
トールはそれを聞いても動揺したようには見えず、おそらく誰かにそう言って欲しかったのだろう。
それでもヴァンスにはわずかに絶望したように見えた。
「だけど神力すべてを否定するわけじゃねぇ。神力は確かにあるだろう。ただ、着飾って化粧くせぇ巫女には寄り付かないだけだ。」
ヴァンスはちゃかすようにそう付け加えた。
純粋な年下の男を慰めるように。トールにもそれがわかったのか笑ってうなづいた。
「さぁ、着いた。クルッシャだ。」
馬を走らせる二人の前にはクルッシャの街が見え始めた。
ここでトールは己が描いていた巫女像そのままの人に出会う。優しく気高く。
そして誰よりも美しく笑う人に。
クルッシャの街は今まで静かなしかし陰鬱とした雰囲気は感じられないような、ほのぼの
した空気が流れる街だった。
日々王宮や魔獣討伐の中で殺伐とした中で生きるヴァンスと
トールにとってはゆるやかな郷愁を感じさせる街だった。
「静かな街ですね。」
トールはつぶやいた。
「あぁ、とりあえず宿を取るか。今から俺達は傭兵だからな。話はあわせろよ?」
情報収集する際には偽名を使い役を決めて行動するのはセオリーだ。
今回二人は傭兵とい
う設定だ。。ヴァンスは目立ちすぎる赤髪を一般的な茶色に染めた。
トールの髪色は銀で一
般的だが、顔がきれいすぎるので、すこし荒れた雰囲気を出す為に灰色のくすんだ色に変
えている。
「はい分かっています。名前は指令がゼウスで僕がルインですね。」
そのまま二人は街の中心から少し離れた宿屋に入った。宿屋は一階は大衆食堂になってい
て、二階が宿泊部屋になっていた。
大衆食堂は昼時ということで、かなり混雑していたが、
二人はなんとか席に着いた。席に着いたと同時に若い給仕の可愛らしい女性が飛んできた。
「いらっしゃいませぇ、なんになさいます?あら、かっこいいお人ですね。サービスしま
すよ?」
若い給仕はヴァンスとトールを見てそう言った。たしかに二人はタイプは違えど美形であ
るには違いない。
「おぉ、それはありがたいね。ちょっと旅して疲れてんだ。食事は適当に盛って、酒は多めな」
ヴァンスは可愛らしい子に機嫌良さそうにそう言った。
「ここには今日着いたんですか?どうりでこの辺りで見た事ない人だと思ったわ。宿はもう決まってるの?」
給仕の女の子はヴァンスの注文に頷きつつそう言った。
「いや、まだだ。ここあいてるか?」
ヴァンスは上に着ていたマントを脱ぎつつそう聞いた。
「えぇ、もちろん!」
給仕は待ってましたと眼を輝かせた。
そのまま食事が終わるとヴァンスとトールは二階の宿泊部屋に上がった。
「じゃあ、今から二手に分かれて情報収集といくか。リーディーのおっさんの話だとかなり女神とやらの情報は入りにくいらしいからな。トール、ヘマするんじゃねぇぞ?」
ヴァンスは笑いながらそう言うと、トールは少しムッとしたように、
「ここではルインですよ?ゼウスさん。ゼウスさんの方こそ気をつけてくださいね。
昼間っからそんなに飲んで。仕事を忘れないでくださいね。」
そう棘を含んでそう言った。
二人は二手に分かれて情報収集を開始した。しかしトールは情報収集はあまり得意ではなかった。あまり饒舌ではなし、人づきあいや口が上手いとはいえないからだ。
そんな自分をなぜヴァンスが連れ出したのか。おそらくそれは宮廷で、あまり気の休まる処がない自分に対する気遣いなのだろう。いくら実力が伴っているからといって、すべての妬みが消える訳ではない、未だ細々とした嫌がらせじみたモノを受けている事をヴァンスは知っているのだろう。そして気分転換も含め外に連れ出してくれたのだろうとトールは推測した。ヴァンスという男はおよそそうとは見えないが他人の機敏には恐ろしく敏感なのだ。理解しているからこそトールはヴァンスの足手まといにならないように頑張ろうと思った。しかしいくら頑張ろうとしてもいきなり饒舌になれるはずもなく、トールは早々と困り果てていた。
―――まぁ手っ取りばやく女神が現れるという神殿にでも行ってみますか
トールは街の中心から少し離れた位置に見える神殿にむかった。神殿は遠くから見るよりずっと立派なものだった。正面から見ると四本の石柱が並び、訪問者を歓迎しているふうでもある。鍵はかかっておらず神殿の奥には高い塔が一本立ち、間にはおそらく祈りの間のような大きな広間があった。今は機能していない神殿であるため、灯は落ち薄暗く、所々朽ちている部分はあったが、それでも祈りの間の奥にある祭壇に立ち神の象徴である四大神の像を見上げるとその荘厳さに体が震えた。神々の像を見ていると、この世の不条理さや、魔獣のせいで先の見えぬ不安を神に一身に祈り救いを求めたくなりたくなった。それでいて、懐かしくて悲しい良く分からない感情にトールは押しつぶされた。
―――――そう死んだ母のことを思い出す時に似ていた。トールは知らず知らずに涙を流していた。
カタン。
トールは勢いよく振り返った。
文官といえど武術の基本的訓練くらいうけている。情報収集とはいえ仕事中に無防備にしていた事が急に恥ずかしくなった。
トールが振り返った先には、小柄な人間がいた。
全身を深緑のマントで包み、フードをかぶり、顔には薄いベールを被せている。おそらく女性だろう。身分の高い女性は街で顔をベールで隠すことはままある。それにしてもいささか怪しい人間である。まず朽ちた神殿に何の用なのだろう。
それをいえば自分もそうなのだが、急なことに動揺しているトールはとっさに何も出来なかった。だから小柄な人間が自分に近づいてくるのもどこか他人ごとのように感じていた。
謎の女性はトールの真ん前までくると白魚の腕を持ち上げ、トールの頬を伝う涙を手で拭った。トールはそのときになって自分が泣いていることに気づいたが、それよりも薄いベール越しに見える少女の美貌にトールは目が離せなかった。
小さな顔には神が創造したような完璧な配置で顔が作られていた。
トールを含めトールの周りには綺麗であったり秀麗であったり美形な人間が多いが、これほどの美はいないだろうと思わざるを得なかった。
その完璧な顔には心配気な表情が浮かんでいた。
「何かあったのですか?」
鈴を転がすような声だった。そのときになってようやくトールはこの美しい人間が自分を心配しているのだと認識した。普段のトールからは考えられない程に遅い対応である。
「あ、、平気です。久しぶりに神殿に訪れたので、気が高ぶってしまったみたいで。」
トールはしどろもどろになりつつにそう答えた。その様子に美しい人間も安心したのかホッとしたようだった。
「あなたはどうしてここに?」
トールは控えめにそう尋ねた。この美しい人間のことを何でもいいから知りたかった。ともすれば人間でないような生き物にすら見える目の前の美しい存在を繋ぎ止める何かが知りたかった。
「わたし…わたし、はここが好きだから。神殿にいると嬉しくなるから。おかしいかもしれないけどね。」
ちょっと考えてからそう言って照れたように目を伏せた。そして「あなたはこの辺りの人ですか?」と尋ねられた。
「いえ、こう見えても僕は傭兵なんです。
この街には今日着いたんです。変じゃないですよ。
僕も久しぶりに神殿に来たんですけど、ここにいるとなつかしくて心地良い。
そんな気持ちになる。」
トールは知らず饒舌になっていた。そして「あなたはここの人なんですか?」
と反対に問いかけた。
「いいえ、ここに住んでいる訳ではありません。
用があってここにきているんです。」
美しい人ははっきり答えた。続けて
「実は一緒に来ている人達から抜けてきたんです。」と声を潜めてそう言った。
たしかにベールをまとっているのだから位が高い人なんだろう、しかし供まで着いているとは、豪商の娘か貴族の娘だろうか。
トールは色々考えた。もっといっぱい知りたいそう思った。
後から思えばこの時すでにこの幼さの残るこの少女に心が奪われていたのかもしれない。
惹かれずにはいられない。
そう思わせる何かがこの少女にはあった。
そして少女とトールは長い間神殿の端に座り話をした。
少女はシオンと名乗り、年は15だと言った。
シオンは好奇心旺盛で知らない事には貪欲だった。
王都に行った事があるとトールがいうと、王都の話を聞きたがった。
年相応だと感じることも多かったが、シオンは神教の教えと薬学にはかなり詳しかった。聞けば薬学に関しては説教を100巻を読んだという。
15歳の少女にしてみれば驚くべき博識で色々な事でトールと論議した。
かろうじて名前はルインと名乗ったものの、トールはもはや自分が傭兵と身分を偽っているのを半分以上忘れていた。
情報収集に至っては完璧に忘れていた。
それに気づいたのはシオンと別れ、宿に戻ってヴァンスの顔を見た時だった。
「おう、ずいぶん遅かったじゃねぇか。どうだった?なんかいい情報は手に入ったか?」
トールは頭が真っ白になった。仕事をすっかり忘れるなんて初めてだ。
「すいません、すっかり忘れていました。」
恥ずかしさに身をちぢこめながら告白した。
その告白にヴァンスもびっくりした。トールは生真面目さは十分知っている。
しかし、恥ずかしさに身を縮めるトールを問い詰めるのも可哀相に思え、「そうか、気にするな。あんまり最初からアテにしてねぇから。」と言うに留まり自分が調べてきた情報を明かした。
「例の月に二度、女神サマがここに来るってやつだけどな、丁度良い事に明日がおそらくその日らしい。神殿に灯りが入るのが開始の合図だとよ。」
すらすら話した。しかしトールは不思議に思った。此度の情報収集はかなり難しいと聞いていたのにヴァンスはずいぶん詳しく調べられている
「お子ちゃまには出来ねぇ。裏技ってヤツ?情報は酒場か娼館。基本だろ?」
ヴァンスは不思議そうに自分を見るトールの視線に気づいたのか、髪を掻き揚げつつニヒルに笑いながらそう言った。そう言われてトールはヴァンスが風呂に入った後であることとどこか気だるい雰囲気であることに気づいた。一気にトールは顔が火照るのを感じた。青年と言われる年であるもののトールはその手の類には奥手であった為面と向かって言われると赤面してしまった。そのトールの様子をヴァンスは密かに笑っていた。
「では明日ですね。今日は申し訳ありませんでした。それではお休みなさい」
そこまで言って、あたふたとトールは自分の寝台に乗り上げた。
果たしてすぐ眠れるかトールは心配だった。ヴァンスの話を聞いてから何故かシオンの顔が頭から離れないのだ。
――――こいつ恋か、、、?
そのようす見ていたヴァンスは推測を立てた。
―――――遅い初恋か?本当に可愛いヤツだなぁ。
初心な部下を見ながら気難しいシンバがなんでこいつを側の置いているのか分かったような気がしたヴァンスだった。
次の日は二人で街を散策し怪しい噂がないどうかさりげなく聞き込みして過ごした。女神の話はやはりというか、あまり出てこなかった。それでも街が何かに浮き立つような感じはあった。そして夕方になり、神殿に灯が入ったのを気に人々のそれも密かに上昇していった。
「じゃあ、いくか」
ヴァンスが声をかけて二人もゆっくりと神殿に向かった。
神殿は廃墟されているとは信じられない程の人がいた。しかもみんな人知れずひっそりと神殿にやってくるのでそのサマは少し異様だった。ヴァンスとトールもその集団に紛れるように神殿内に入った。神殿の中は相変わらず所々朽ちている部分もあったが、灯が入り人が大勢いるとそこは放棄された神殿とは思えなかった。
神殿の中には丈夫そうな人もいたが、腰が曲がった老人や手を押さえる男性、幼い子供の手を引く人などどこか体を怪我した人などが多かった。
病人や怪我人がひしめく石柱のところを抜け祭壇に近づくと、祭壇に白いマントで身を包んだ人が二人がすでにいた。
ヴァンスとトールは二人を見れる位置に身を置いた。
祭壇の二人は、ともベールをかぶって、その容貌を詳しく見ることは出来なかった。薄いベールから一人は淡い栗色の髪が見えていて、もう一人は黒いベールを被っていてその容貌ははっきりしなかったが女神と言われている人間が、この者の事を言っているのだとそこの集まった人間の視線が如実に表していた。
そして二人は本当に驚愕した。腕から血を流している一人の女性がそっと黒いベールの人間に近づき
「女神様どうか、私の腕を見てください」
と頭を下げつつ腕を差し出すと黒いベールの女性はそっと手を伸ばし傷を負った箇所に手を翳した。そうするとどうだろう。女神の手がわずかに発光しだしたのだ。そこにいる人々の視線はいまや女神の手に集中していた。傷の箇所に光はゆっくり吸い込まれていった。そして光がすべて消えると後には傷の跡すらすべて消えていた。あたり一面から感嘆のため息が零れる。そしてそれはヴァンスとトールも同じであった。
「こりゃあ本物みたいだな。あんな力見た事ねぇ。マジで女神かもな」
傷を治してもらった女性は女神に感謝を伝え、女神も一言二言女性に何かを伝え、それにまた女性は頷き、下がっていった。休むことなく次々と怪我人や病人が女神の元にいった。
ヴァンスもトールも女神も力に釘付けだった。しかし光る手も怪我が癒えていく様子も偽りはないように見えた。
「あんな人間いるんですね。本当に女神の化身か何かなのでしょうか。」
トールは呆然としていた。そして女神の背格好とマントから覗く光る白い手が、誰かを思い出させたが、トールはきづかないふりをした。なんとなく女神が昨日の少女であって欲しくなかったのだ。
ちょうどその時、神殿の入り口近くでざわざわとした騒ぎが起こった。
「どいてくれっどいてくれぇ!女神様は?!女神様はまだいらっしゃるか?!うちの子がうちの子が魔獣にやられたんだ!!」
切羽詰まった男の声がした。魔獣。その単語に神殿内も騒然となる。それを止めたのは、女神の隣で女神と同じような格好をしている女だった。
「どうかお静まり下さい。その人の為に道を空けて下さい。」
よく通る声で女はそう言った。その肥に反応してか広間にいる人々は自然と場所を譲り合い、まもなく血に塗れた男女と4歳くらいの子供が運ばれてきた。男女はどうやら夫婦らしく、怪我を負っているのは子供だけだそうだ。街に帰って来る途中で魔獣に出会い、逃げてきたが子供が魔獣の爪に引っかかられ、神殿に灯が入っていたので、いそいで連れて来たらしい。母親はかなり取り乱していた。女神の白いローブが血まみれになるのも構わず、すがり付いている。それもそのはず、子供は全身血まみれで魔獣の傷と思われる傷は紫色で体が侵され始めていたのだ。辺りは騒然となり、夫婦と傷を負った幼い子供の周りは円を描くように人が避けた。
「女神様、女神様お願いします。この子を神の力でお助けください。まだ4歳なんです。まだ4歳なんです!!」
母親はもはや絶叫していた。辺りに絶望の雰囲気が流れる。その時、
「どうか落ち着かれますよう。全力を尽くしますから。まず私に貴方の子の傷の様子を見せてください。」
静かな諭すような声がした。
その声はけっして大きくはないが神殿に走るみなの動揺を抑えるだけの力は十二分にあった。
母親は我を取り戻したのか、女神からすぐに離れた。
しかし心配気に我が子と女神を見比べている。
父親はそんな母親を宥めるように後ろから抱きしめている。
女神はすばやく寝かされた子供の近くに寄り添い、傷口を確かめる。傷口は確実に先ほどより広がっていた。魔獣の毒が回っている証だ。
「リーア、あれを持って来て。」
女神の指示を受けて、リーアと呼ばれたもう一人のベールの女は、すばやく下がり戻ってきたときには、その手に薬ビンを持っていた。そして女神に差し出した。
ヴァンスはすばやく薬ビンの中身に目を走らせた。それは、無色に見えたがわずかに蒼銀に光っていた。
――――あれは、、、
ヴァンスは目を細めた。そしてそんなヴァンスをリーアと呼ばれた女性は冷静に観察していた。
女神はその薬ビンを躊躇せず子供の傷に垂らしていく。そして傷口に万遍なく薬ビンの中身が浸透したところで、両の手を傷口に翳した。そして、使徒なら誰でも知っている神教の経典の一つをゆっくり唱えていく。
「すべての源、水となりて、大地戻り、いずれ天に召さらん。これ神の定めし、悠久の理<ことわり>にて我、理<ことわり>知、得、導く道、歩む者なり。輪廻・森羅万象の中に生まれし神の気よ。わが身に宿る神の気よ。我が言霊に従い、弱き魂を救いたまえ。」
女神が経典を読み終えると、それまでの傷を治す時とは違い、女神の体中から光が溢れ出した。それは子供の体をも覆った。神殿には風一つ立っていないのに女神を中心に風とは違う光の衝撃波のようなものが立ち始めた。ヴァンスの髪を風ではない何かを受けて、靡いた。
どのくらいの時間が過ぎただろう。光は静まるように薄れていった。中心には女神がいた。子供を腕に抱いて。しかし女神の貌は今や、完全に現れていた。先ほどの女神の内からあふれ出た光に飛ばされたのかもしれない。女神の足元にマントもベールも落ちていた。
地を流れる光の中にあるその姿はまさしく女神であった。闇より黒い髪は背中を覆い隠すようにゆるやかに流れ、白い顔に完璧に整った貌にあるその眼は深い紫闇色。その眼は腕の中の子供を心配気に見つめている。
誰もが息も着けぬ空気が流れていた。それだけシオンは完全で絶対の存在だった。
誰もが呆然となったその時、動いたのはシオンの腕の中の子供だった。ゆっくり眼をあけて、自分を抱いているシオンを見上げていた。シオンは微笑んだ。それはとてもきれいな笑みでそこにいたすべての人の目に焼きついた。そうヴァンスとトールの眼にも。
シオンは子供をゆっくりと立たせ自分も立ち上がった。
子供は自分の今の状況が上手く理解出来ていないらしく、しばらく辺りを見回していた。その時、
「ジュラ!!!!」
母親が正気に戻ったらしく子供の名前をよびながら、抱きしめた。その一声ですべての人が我に返り、皆シオンを畏怖とも心酔とも着かぬ眼差しで見つめた。母親は一通りわが子の体の傷を調べた後、再びシオンに向き直り、ひれ伏して謝意を述べた。シオンはその母親を立ち上がらせ、眼には分からないがまだ完全に傷は治ってはいないだろうからしばらく気を付ける様に言い、自分を見つめる多くの目に視線を向けた。そしてわずかに困ったような表情を一瞬作り、それでも一瞬後には、堂々と姿勢を伸ばし皆の顔見るようにゆっくり話し始めた。
「私の姿について知らなかった人はずいぶん驚いてしまったでしょう。私は自分の姿が目立ってしまうのをよく理解しております。私の姿は人々に驚愕あるいは畏怖と混乱しかうまないと。だからこそ私は今までみなさんに姿を見せずにきました。今日不慮のことで姿を顕にすることになりましたが、貴方達には理解して頂きたい。私がどのような姿をしていたからといって私が変わるわけではありません。私は今まで通り人々の役に立ちたい。その一存で行動している事を。どうか私を恐れないで下さい。」
シオンは真摯に言った。その表情は凛としていてそこには偽りなど一遍もないのだと訴えていた。神殿に一瞬の沈黙が流れやがて人々はシオンに跪いていった。そこには厳かで厳粛な空気が流れていった。そして手前にいた老人が話し始めた。
「私たちにとって貴方様はまさに救世主です。魔獣の被害は増える一方なのにこの街にはここ3ヶ月まともに薬草がはいることはありませんでした。貴方様が来てくださらなかったら、この街には怪我人と病人が溢れ、不安と不満の満ちた陰鬱な街になっていたでしょう。貴方の存在は我らの希望で救いです。貴方がこの街にしてくださった事は子々孫々受け継がれていくことでしょう。しかし私たちは貴方様の味方でもあります。貴方様の姿のことをよく理解し、私は街長として貴方様の秘密を他言せぬよう今この場で誓い、ここにいる皆にもあとから言い聞かせます。」
そう言いより一層頭を下げた。皆もあわててそれに習い頭を下げていく。
「街長様、嬉しく思います。」
街長の言葉にシオンも頭を下げた。そしてどこからか「女神様、万歳!」と声が上がった。それにつられるようにみなは次々に「女神様、万歳!」と合唱し始めた。
ヴァンスとトールはその時どさくさに紛れて外に出ていた。
ヴァンスたちは神殿を抜け神殿と街をはさむわずかな林を歩いていた。
「いや、まいったなぁ。あれは本物だろうな。どこにあんなのが隠れていたのやら。」
ヴァンスは今しがたまで見ていた“女神”を思い出しながら空を仰ぎ見た。
その表情は通常通りだったがその頭の中では色々な事が巡っていた。あんな力見せられたら民衆が崇拝するのも致し方ない。
崇拝というのは時に政権を変える力に生む。それは大陸最大の力を保持するウルバァーン帝国であっても当てはまる。それを考えると“女神”の存在は王宮の脅威に十分になりえるだろう。しかし、ヴァンスは“女神”が民衆に言った言葉を思い出していた<恐れないで欲しい>あの言葉はどこかすがるようだった。凛としていた女神が唯一格好を崩して言った言葉。どちらにしてもあの癒しの力は今の王宮に一番必要なものだ。うまく王宮に引き入れることが出来れば、、そこまで考えて、トールが未だに言葉を発しないのを不思議に思い振り返り様子を見た。神教の教えを大切にしているトールならあの“女神”の存在は理想の巫女だろう。騒ぎ立てそうなのに静か過ぎる。振り返るとトールは眉間に皺を寄せ、難しい顔をしていた。
「トール、どうした?あの女神に惚れたか?」
ヴァンスはからかいを多分に含みつつそう言った。その途端トールは大げさにヴァンスの顔を見て、なんとも形容しがたい顔をしました。そして
「あの女神のことをどう報告するんですか?」とヴァンスの言葉には答えずに、そう聞いた。ヴァンスはちょっと考えてから、昨日、今日とこの真面目な部下の様子を思い出しながら、何かに行き当たったような顔をして、
「まぁ、事実のまま報告するしかないだろうな。あの、女神がどんな考えがあるのかは知らんが民衆をひきつける力はすげぇからな。陛下も野放しにはしないだろう。」
と慎重に言葉を選びながら答えた。トールも同じようなことを考えていたのか、そうですね、と言ったきり口を閉ざしてしまった。
「まぁ、あの女神の力は本物だとしても、教会のようないろんな考えがあるところにおくのは難しいから、あんがい陛下の心を射止めて側室にあがったりしてな。なんせあの美貌だ。」ヴァンスはトールをからかうようにそう言った。その途端トールは顔を白くしたり赤くしたりしていた。最終的には険しい顔をしていた。
―――――こりゃ、間違いねぇな。
ヴァンスは純粋な部下の恋心を察し苦笑した。
そしてその時、
「そうならないように祈るしかありませんね。」
そう涼やかな声が聞こえた。
瞬時に兵士の顔付きに戻った、ヴァンスは声が聞こえる方を見据えた。声の主は木の裏から出てきた。そこは丁度街と林の境界でヴァンスとトールの行く手をさえぎるように、その人は立っていた。その人を見つめたときヴァンスは表情は変えず、眼を細め、トールは顔に驚きの表情を乗せていた。その人物は白のマントに淡い色のベールを纏った、先ほどの神殿で女神の側に仕えていた人間だったのだ。その人物は淡いベールの奥からしっかりとヴァンスを見つめていた。
「あの方のことをいかように王に報告するのかは私もぜひ詳しく聞きたいですね、
ヴァンス・マルディア総司令殿。」
場違いに優しげな声でベールの人<リリア>はヴァンスを見つめていった。
その言葉にトールは身を堅くした。ヴァンスは眼に一瞬殺気を帯びた。しかし一瞬後には、いつもの人を食ったような表情になり、
「俺の顔を見ただけで名前を言い当てるとは、おみそれしたよ。どうして俺の名前を?」
リリアは薄っすら笑った。
「マルディア総司令、赤い髪は染めて隠せても、貴方の赤い眼は隠せない。赤眼の美丈夫といえばウルバァーン帝国広しといえども貴方ぐらいしかいらっしゃらないでしょう?」
リリアは種明かしをした。それを聞いてヴァンスも笑った。
「美丈夫とは嬉しいねぇ。こんな場所にまで俺の名前が出回っていたのは驚きだけどな。」
お互い笑顔だが心から笑っていないのは明白だった。ヴァンスは内心やりにくい相手にため息を吐いた。相手の顔が見えず、素性も思惑も分からない。こっちはすでに素性も、ここにいる理由も見破られている。立場は圧倒的にこちらが悪い。
そのヴァンスの様子をどう思ったのか、女神は話し始めた。
「あの方のことを調べに参られたのでしょう?私は先も述べたように、あの方のことを貴方方がどう王に報告するのか聞きたいのです。いずれ王宮の者があの方を調べにやってくるのは判っていた事です。今、あの方にお会いしてどう思いましたか?王宮はあの方を排除するのですか?私が聞きたいのはその一点だけです。」
ベールの女<リリア>は今までの優しげな声を一変させ、静かな鋭さを感じさせる声でヴァンスたちに問いただした。
ヴァンスは黙っていた。
「あの方は自分に出来る範囲で人々を救いたいとお考えです。自分の力で民衆を手なずけたりしたいわけではありません。ただ、救いたい。王宮を敵にしたいわけではありません。 それを考慮に入れて頂きたい。」
最後までリリアの話を聞いたヴァンスはため息を吐いた。リリアの声にはうそはない。そしてあの女神の態度も…だが、このままあのような人々を引き付ける存在を野放しにはとても出来ない。その力は民衆にも必要だが、王宮も欲しいのだ。大体純粋な黒髪など放って置いたら大国ウルバァーン帝国の沽券に関わる。あんな存在どこにいたのだろう。ヴァンスは純粋な疑問を抱いた。しかし今はそんなことよりもこちらを睨むように見据えるベールの女をどうにかしなければならない。
「我々は見たままを報告するつもりだ。あの女神をどうするかは、陛下が決めることだ。だが、あの女神に民への救済以外他意がないことはこのヴァンス・マルディアが責任を持って陛下に証明しておこう。」
そういったヴァンスに反応したのはトールだった。
「何を勝手に?!そんなこと言っていいのですか?!」
リリアもいささかその厚意にビックリしていた。そこまでしてもらえるとは思わなかったからだ。ヴァンス・マルディアといえば、現皇帝の左腕、武官の最高責任者の一人だ。いわば側近。そんな人間の後ろ盾を得れるとは思ってもなかったのだ。
「どういった考えでそのようなことを…?いいえ、今はいいでしょう。貴方を信じます。」
「信じると言うことは、そこらへんに隠してある奴らは引っ込めてくれねぇかな?」
ヴァンスは猛禽類のような眼で辺りを見回した。その台詞にトールは驚いたようだが、リリアは気にもせず、さっと左手を上げた。その瞬間ザザっという音とともに密かにヴァンスとトールを狙っていた気配が遠ざかっていった。
「ふぅ、職業柄あぁいうのが側にいると攻撃しちまう性質なんでね。」
ヴァンスはおどけていった。
「先程、の申し出につき何か望まれることでもあるのですか?」
リリアは聞いた。リリアの部下を下がらせたのは何かを強請る為だと考えたからだ。しかし
「いや、今の処はねぇな。あぁ、今度会う時は是非あんたの素顔をみてみてぇな。」
整った顔をいやらしく歪めながらそう言った。顔つきが端整であるからそんな表情も似合い男ぶりを上げていたが、リリアはまったく気にせず、「そうですか」というに留まった。
「あの方は…本当に人間なのですか…?純粋な黒髪など大昔の文献に載っている位です。それにあの力も…巫女様の位に付いているわけでもないのに…」
ずっと黙ってリリアと上司の話を聞いていたトールだが耐えかねたようにそう聞いた。
リリアはトールをまじまじと見つめた。そして何か言おうとしたところで
「リリア…つ!!!」
リリアの声に被るように、新たな声がした。落ち着いた、しかしどこか疲れた声だった。
三人は勢いよく声に主を確認した。
そこにはベールを被らず、素顔を晒したシオンがいた。月明かりに晒されたシオンの素顔は神々しくもあり非の打ち所のない姿だった。
「リリア、姿が見えなくて心配しました。護衛も数人姿が見当たらなかったし…何かあったのかと思いました。そして…ルイン殿も…昨日ぶりですね。」
美しい、しかしどこかまだ幼い風貌を持つシオンは年に似合わない、落ち着いた声で最初はリリアに、最後はトールに向けてそう告げた。
「どうしてこのような処に来たのですか?!危険です。すぐに衛兵のところにお戻りください」
リリアはシオンの最後の台詞に頭を抱えつつ、すぐに主を嗜めた。
しかしシオンはずっとトールを見つめていた。そこになんの表情も浮かんでなかったが、冷たいというよりは、すべてを受け入れるような、凪く海のような静かな表情だった。そしてその紫眼はどこか訴えるような色があった
トールも落ち着いた表情に戻り、しかし徐々に険しい顔つきになり、
「…シオン…殿。昨日ぶりですね。昨日は偵察の為に偽名を使用していたのですよ。私の本当の名前は王宮付き宰相秘書官トール・リラ・クインと申します。…貴方が女神で残念です。貴方の力は本物であり貴方は女神なのかもしれない。あなたは民の希望となり拠り所になっているでしょう。しかし王宮の人間として言わせてもらえば、いたずらに民の心を集めることは危険です。貴方は王宮に属しているわけではないのですから。…それとも王宮に属する心でもおありか?貴方は今王宮にとって、危険な立場にいる。聡い貴方ならそのくらいわかるでしょうに。」
トールは厳しく言った。トールは昨日会ったばかりのこの少女に淡い想いをもっていたが、それ以上に自分の上司の苦労を見てきた分苦い思いがあった。先程は女神の力に圧倒されたが、力を使って、いとも簡単に民からの慕心を独占している姿には、苦い想いだけがあった。今はどこの王宮も民からの慕心をどう集めるか、民にどのようにして反感の心を与えないかに執心しているからだ。それに…その中、女神のような存在は王宮から排除される可能性だってある。
トールの厳しい言葉にまず反応したのはリリアだった。
リリアはすばやくシオンの前に立つとトールとヴァンスをにらみつけた。
ヴァンスもトールの厳しい言葉に顔には出さずともビックリした。
ヴァンスからみてトールは明らかに黒髪の女神に心を奪われているように見えたからだ。
リリアの背に庇われたシオンは静かに言った。
「王宮に謀反を起こすような心は持ってはおりません。民の心をむやみに集める事が危険である事も良く判っています。すべて判っていても、どうしようもない事だってあるのです。半年前からこの領地には満足に薬草の供給がありません。薬草の供給がなければ、病にかかった民は、重い怪我負った民は、どこに行けばいいのですか?」
シオンは静かにしかしトールに訴えるように言った。
シオンも自分の存在の危うさには十分理解していた。ただでさえ自分は目立つのだ。シュバイツをはじめ家族も反対をした。しかし日に日に他の領増加していく魔獣とその被害にシオンは我慢できなくなったのだ。シュバイツも元は将軍で国と民の為に働いていた期間が長くシオンの力をミーリィーンだけの為に使う事に漠然とした罪悪感のようなものがあり、最終的には許可するしかなくなった。
絶句するヴァンスとトールを見て、シオンは少し落ち着いて、リリアは何があっても対処できるように、主の斜め後ろに控えた。リリアにしてみれば、シオンの登場は予想外だった。癒術に夢中だったシオンが王宮の手先に気づくはずもないと思っていたし、ここまでシオンがしゃべるとも思っていなかった。そして一番の予想外はこのトールという宰相秘書官とシオンが、知り合いだったということだ。シオンに王宮に知り合いなど、兄であるライナスしか居るはずがないのは幼い頃から側役として使えている自分は断言できる。
しかも「昨日ぶり」というシオンの言葉。
――――――また勝手に抜け出しましたね!!!!
リリアは後で小言を…などと不穏なことを考えつつ、ここをどう切り抜けようか考えていた。
その時シオンが服の皺払い貴族の子女の礼節をもって、二人にお辞儀をした。
シオンは貴族同士の集まりなどに顔を出すようなことはしたことはないが、教養としてマリーヌから礼節や挨拶の仕方を習っていたのだ。
一方シオンのいきなりの堅苦しいお辞儀に面を食らっていたヴァンスとトールだが、その後に続くシオンの言葉に更に面を食らった。
「私はミーリィーン領領主、シュバイツ・リーベルトが長女、シオン・リーベルトです。以後お見知りおきを。
私は自分の行いに対しなんら恥じ入る行いをしていると思ったことはありません。
私に対し疑わしき所があるなら私はいつでも釈明に応じます。
必要な要求はリーベルト家当主まで、お繋ぎ下さい。」
頭をわずかに下げながら言葉を発する姿は貴族の淑女に求められる作法のお手本のようだった。
トールは美しい容姿とその作法に見蕩れた。
ヴァンスは輝く宝石のような紫の眼の眼光に見蕩れた。