タイトルすらないテンプレ物語に転生したわたしの顛末
テンプレという逃れようのない地獄で、わたしは、強制力という名の牢獄に囚われながら生きている。
*
断頭台へと引き摺り出されたお嬢様は、わたしが幼い頃からそばで見続けたお嬢様となにひとつ変わらない気高い瑠璃の瞳で、広場に犇めく民衆たちを睥睨していた。
「これより罪人アイリーチェ・レンジの処刑を執り行う!」
王太子の宣言に、地が揺れるほどの大歓声が湧き上がり、あたり一帯が熱気の渦に包まれる。
王太子に寄り添うのは下級貴族の娘。公爵家を追い詰めるのに一役を担ったこともあり、その場にいても誰も意を唱えることはない。
公爵家であるレンジ家の人たちが領民を虐げて過剰な税を課し、その一方で、国には税を誤魔化し私腹を肥やしているというのは有名な話だった。
実際、わたしが知る限りでも言い逃れようもないくらいに事実であったのだが、確実な証拠がないため、これまで誰も追求できずに手をこまねいていた。
しかし悪事もやり過ぎれば敵を作るだけでなくボロも出る。とうとう決定的な証拠を掴んだ王太子によって、すべてが白日の下に晒された。
その公爵夫妻の処刑は、すでに三日前に終えている。
最後まで己の非を認めず、民衆だけでなく王族にまで怨嗟を吐き捨てたその姿は見事なまでの悪役っぷりで、衆目のひとりだったわたしはそれ以上見ていられず、目を逸らすことしかできなかった。
この国では、処刑は一種の娯楽行事である。
しかしどれだけ悪辣な人間だったのだとしても、人が処刑される姿を見るというのは、あまりおもしろいものではない。それがギロチンとあらば、なおさらだ。
確かに善良な人たちではなかった。それでも見ず知らずの他人ではなく、死んでよかったと思えるほど、わたしはあの人たちのことを恨んではいなかった。
かといって悲しいかと問われると、素直にうなずくことはできないくらいには、他人である。
幼い頃からそんな両親の背を見て育ったお嬢様は、人を踏みつけて生きることは己に与えられた当然の権利だと信じて疑わずに、今日この時まで生きてきた。
目の前に立ち塞がる者は容赦なく叩きのめし、そのことに罪悪感すらも抱かない。
そうして身分を笠に着て他を蔑み、王太子の婚約者として令嬢たちに模範的な姿を示すべき立場でありながら、ひとりの下級貴族の娘を執拗なまでに虐げた。
王太子がその娘に淡い恋心を抱いていると、気づいていたからだ。
お嬢様は両親の罪による連座ではあるが、お嬢様自身も多くの罪を犯している。
確かにお嬢様は周りに対して厳しいところがあった。
だが今回ばかりは、厳しい、などと生易しいものではない苛烈極まりない仕打ちでもって、件の娘を排除しようとした。
傲慢で、底意地が悪く、敵と見定めた相手は徹底的に追い詰める悪女。
お嬢様のことを語るのなら、わたしも世間と同じく、悪女として語ることだろう。
(……だけど)
だけどだ。
それだけがすべてではないと、わたしは知っている。
お嬢様は気まぐれで、視界に入って不快だったというだけの理由で物乞いを鞭打つよう命じることもあれば、死にかけた孤児を拾うこともあった。
当時のわたしはまだ五つか六つほどの子供で、三日間なにも口にしておらず、露店で林檎を盗んだところを店主に見つかり散々殴られた後、命からがら逃げ出して道端で蹲っていたところだった。
盗みを働いた孤児ひとり殴り殺したところで、店主が罰せられることはない。
それくらいに、当時のわたしの命は軽かった。林檎ひとつ分よりも、ずっと。
殴られた場所がガンガンと痛み、だんだんと意識が遠のいてきたとき、お嬢様を乗せた馬車が通りかかったのは本当に偶然のことだった。
『……それ、生きているの?』
それがお嬢様の第一声だった。
それ、と言われたわたしは、唯一動いた眼球だけを動かして、声の主を仰ぎ見た。
そこにいたのは青空に映える金色の髪を風に靡かせた、人形のように美しい女の子で。
この世にこんなに綺麗な子がいるのかと、死に損ないのわたしは一瞬、痛みすらも忘れてひどく驚いたことを覚えている。
するとわたしを見下ろしていた宝石のような瑠璃色の瞳が、すっと訝しむようにすがめられた。
『臭くて、汚くて、今にも死にそうなのに……そんな目をするのね』
そのときの自分がどんな目をしていたのか、すでに意識を失っていたわたしに知る術はなく、気づいたときにはお嬢様に命じられた使用人たちから看護を受けていた。
殴られた場所が悪かったのか一時生死の境目を彷徨ったが、どうにかこうにか持ち直したわたしに、お嬢様は、『使えそうだったから拾ったけれど、使えなかったらどうなるか……もちろん、わかっているわよね?』と、壮絶に美しい笑みを浮かべてそう言った。
わたしを助けたことが善意からの行動ではなく、同情ですらもないところが、いかにもお嬢様らしいところだ。
わたしはお嬢様の気まぐれで生かされただけの元孤児。
そのことをこの十年、一度たりとも忘れたことはない。
着るものどころか、その日食べるものにすら窮していたせいか、お嬢様にどれだけきつい言葉を浴びせられようと、望む成果を上げられずに鞭打たれようと、今日この一日を寒さに震えることなく、飢えることなく生き延びられることを、なにより奇跡のように感じていた。
見ず知らずの大人たちから罵倒されることも、食べるものを盗んで殴られることも、わたしにとっては日常茶飯事で、自分と同じ歳のお嬢様になにをされようと、前の暮らしに比べるべくもない。
わたしはお嬢様に忠実で、常に従順であった。
それでもお嬢様はよくわたしを跪かせ、繰り返し己の立場を理解させるようにこう言った。
『わたくしが拾わなければとっくに死んでいた命なのだから、わたくしのためだけに生きて死になさい』
『はい。お嬢様』
『わたくしの手足となって働けることを、日々感謝することね』
『はい。お嬢様』
わたしのその言葉に嘘はなかった。
なにより本心であり、わたしはお嬢様のために、お嬢様の手足として、あらゆる命令に応えてきた。
はじめのうちは、捨てられないようにと必死で。
慣れてきたら、お嬢様の満足いく成果を上げることこそが生き甲斐に。
自分のために、から、お嬢様のために、へと、いつしか気持ちが変化していった。
そのことを不思議に思いはしても、不快に感じたりはしなかった。
わたしはお嬢様のために生きている。
そしてお嬢様のために死ぬ。
これから先も、こんな日々がずっと続いていくのだと、わたしは信じて疑わなかった。
だけど変わらないものなどない。
永遠なんてものはないのだと、もっと早くに気づくことができたら、なにか変わっていたのだろうか。
お嬢様が貴族学院に入学してすぐのこと。
お嬢様の婚約者であった王太子と、庶子で貴族となったばかりの下級貴族の娘が偶然出会う場面を目撃したわたしは、この世界が小説の世界であり、自分には前世というものがあったことを思い出した。
無理やり送り込まれる情報の奔流に飲み込まれて、苦痛から地面へと膝をつき、目の前が真っ暗になりながらも確信する。
あの下級貴族の庶子は、あの小説のヒロインだ。
そしてわたしの仕えるお嬢様は、いずれ断罪されて処刑される予定の悪役令嬢で。
そしてわたしは、侍女という肩書きの裏で命じれるがままに汚れ役を担っていた、元孤児。
前世の記憶こそ思い出したが、今ここに生きているわたしの自我が消えるなどということはなかった。
わたしは、わたしだ。
今世のわたし。
わたしが消えてしまわなかったことに深く安堵して、それならばと必死に運命に抗おうとした。
お嬢様が助かるよう、物語の流れを変えてしまえばいい。幸いわたしはこの先の展開を知っている。
これはお嬢様を救うために与えられた機会なのだ。わたしにはそれができる。わたしだからこそできる。
わたしにはこの物語の結末を変えられる。
……疑いもなくそう信じていた。
わたしはヒーローでなければヒロインですらもないというのに、思い上がるにもほどがあった。
物語が開始されたその直後、わたしの思惑を嘲笑うかのように、唐突にわたしの自由は奪われた。
物理的に体を拘束されたというわけではない。
……いや、ある意味では、そうなのかもしれない。
だけど囚われたのは、わたしの体ではなく心の方だった。
わたしの体は、例えるのなら、精神を閉じ込めるための棺。
そして物語の設定通りに、わたしの体は意思を無視した言動で活動しはじめる。
誰もわたしがわたしでないことに気づかない、恐怖と絶望感。
どれだけ叫ぼうとわたしの声は外へは届かない。
周囲の様子を、わたしは自分の目を通して見ていることはできた。でもそれを幸いと言っていいのかはわからない。
わたしでないわたしが、わたしという人間を演じているのだ。しかも心とは裏腹な言動で。これで狂わずにいられるのだろうか。
そうしてなす術なく、物語は無常にもわたしの心だけ置き去りにして先へと進んでいった。
『あの女、また殿下につき纏って……。あの女の持ち物すべて、使えないようにしてやりなさい』
(お嬢様、いけません!)
わたしの心がどれだけ待ったをかけても、わたしの口はお嬢様の行いを肯定して、了承する。
『はい、お嬢様』
心の声などお構いなしに、わたしの体は命じられるがままヒロインの私物を盗み出し、そのすべて噴水へと投げ捨てた。
慌てて拾おうと手を動かそうとしたが叶わず、わたしは無表情のまま踵を返す。
目撃者がいなかったことでわたしが疑われることはなかったが、この一件をきっかけに、ヒロインと王太子の仲がまた少し近づいた。
お嬢様が行動を起こせば起こすほど、ヒロインをいじめればいじめるほど、それが裏目に出ることをわたしは知っている。
(知っているのに……!)
わたしには止められない。
そしてお嬢様が止まることもない。
『またふたりきりで会っていたらしいわ。あの下賤な女……痛い目に合わないとわからないようね』
(もうこれ以上はっ……! おやめください、お嬢様!)
まだ引き返せる。
今ならまだ遅くはない。
焦燥に駆られるわたしの心とは裏腹に、わたしの口は粛々とお嬢様の命に従う。
『はい、お嬢様』
わたしがどれだけ懇願しようと、予定された動きでヒロインの背後からぶつかり、彼女を階段から突き落としていた。
事前にアリバイを作っていたため、わたしが捕まることはなかったが、ヒロインと王太子の仲は急速に深まりはじめる。
『……まだわからないようね。わたくしの行手を塞ぐようなゴミは、しっかりと始末しないと』
(もうなにをしても無駄なのです! お願いだから、やめてください、お嬢様っ……!)
ここで留まればまだ助かる余地はある。
お嬢様は公爵夫妻とは違って家の不正に直接関わっていない。
連座されたのだとしても、処刑されるほどの罪をまだ犯してはいなかった。
たとえ修道院に送られたのだとしても、死ぬよりはずっとましだ。
今ここで、破滅へと突き進むお嬢様を止められるのは、わたししかいない。
(……っ、わたししか! わたししかいないのにッ!!)
勝手に開こうとする口を必死に結う。それでも開こうとする唇を歯で噛み締めた。血が滲み、鉄錆の味を感じながらも抵抗し続けたが、それすらほんの数秒の出来事で。
『……はい、お嬢様』
(……っ、違う! 違う違う違う! お願いだから、わたしの体なんだから、わたしの言う通りに動いて!!)
悲痛な叫び虚しく、わたしは破落戸を雇うとヒロインを襲わせた。
未遂になるとわかっていたのに。
この件がお嬢様が断罪されるきっかけとなることも含めて。
わかっていたのに……わかっていたはずなのに、わたしにはお嬢様を止めることができなかった。
どれだけ心が拒絶しようと、いくら抗おうと、わたしの願いが叶うことはない。
ここは小説の世界。
わたしは……いや、わたしだけじゃない。すべての人間が、この物語を構成するためだけに存在するキャストでしかない。
一キャラクターでしかないわたしに、感情を持つことなどはなから許されてはいなかったのだ。
救えるはずの命だった。
救えたはずの……。
お嬢様がわたしを救ってくれたように、わたしもお嬢様を救えるのだと信じていた。
わたしはなんて無力なのだろう。
……いや、無力なだけなら、どれほどよかったか。
わたしはまっすぐ、目を逸らすことなく前を向いた。
断頭台には、かつてわたしが着ていたような粗末な麻のワンピースを着たお嬢様。
首が切り落としやすいように、長く美しかったあの金色の髪は短く揃えられ、頭には白い布を巻かれている。
その姿を見つめながら、わたしはその昔、なにかで目にした女性の肖像画を思い出していた。
理由は違えど、モデルとなったあの女性も、処刑される直前の貴族の娘だったのではなかったか。
それでもあの絵とは違い、お嬢様の目に諦念などない。見る者の心を揺さぶるような強い眼差しで、それでもなにひとつ間違っていないとばかりに、顎を引いて正面を見据えている。
今から処刑だと知ってなお。
それでもお嬢様は、お嬢様だった。
誰よりも美しく、気高いお嬢様。
わたしの……お嬢様。
あれほど近くにいたのに。
今は……こんなにも、遠い。
わたしが立っているのは、お嬢様のそばではない。
お嬢様のそばで命令に従い悪事を行っていた実行犯のわたしが、お嬢様とともに処刑されるはずだったこのわたしが、安全圏で保護されている理由。
簡単な話だ。
わたしはお嬢様を売ったのだ。
脳裏に過ぎるのは、祈るように胸の前で指を組み、切実な表情でわたしへと訴えかけるヒロインの姿。
『あなたが公爵令嬢に虐げれ、利用されていることを知っています』
(やめて! わたしは虐げられてなんかいない!)
ヒロインの肩に手を添えた王太子が、さらに畳み掛けてくる。
『俺たちが必ず、きみのことを救うと約束しよう』
(そんなこと、わたしは求めていないのにっ……!)
わたしは――わたしというキャラクターは、揺らいだ目で彼らを見ている。唇を戦慄かせながら薄く開く。
(お願いだから、やめてっ……!!)
いっそ今ここで喉を掻き切って死んでしまえば。
万一のときにすぐ自害できるよう、わたしはお嬢様から短剣を持たされていた。スカートの下、太もものホルダーに装備されている。
それなのに……それなのに!
(……っ、ぐっ……動い、てッ……!)
わたしの手はホルダーに伸びることはなく、その手で、隠し持っていた証拠を彼らへと渡していた。
それがこの物語において、唯一わたしに与えられた役目だから。
それだけの理由で、わたしはお嬢様を裏切った。
どれだけ抗おうと逃れられない宿命。
この世界が――いや、この物語がつつがなく進行するために必要なキーパーソン。
それがわたしだった。
習作として書かれたために、タイトルすらもない、ありきたりなテンプレ物語。
そんな温度も感情も救いすらもない愚作を書いたのは、ほかでもない――わたし自身だった。
前世のわたしが書きたかったのは、ありふれたシンデレラストーリー。
ヒロインを引き立てるには、同情の余地すらない明確な悪役が必要で。
だから……そう。
この断罪劇は、わたしが望んだものなのだ。
物語には必須の山場に罪を暴いて終わり、では、誰も納得しない。
処刑という、わかりやすく読者の溜飲が下ろせる結果が必要だった。
知らなかったのだ。
大勢に死を願われるほどの悪人でも、誰かにとってはかけがえのない大切な人だなんてことが、あり得るのだということを。
それがよりにもよって。
よりにもよって、わたしにとっての、大切な人になるだなんて……。
元孤児で天涯孤独だったわたしにとって、お嬢様は特別大切な人だった。
(それなのにわたしは……)
前世のわたしは、漫画や小説の世界に転生した主人公が、その物語を自分の都合のいいように改変して、元々の内容から大きく破綻させていくストーリーが嫌いだった。
漫画であれ、小説であれ、ゲームであれ、原作者がいて、その彼または彼女が心血を注ぎ紡いだ物語の、大切に育てたキャラクターを他人が乗っ取り、勝手に大筋を書き換えることが許せなかった。
死ぬべきキャラクターがのうのうと生きながらえて幸せに暮らし、幸せになるはずのキャラクターが断罪される。
前世のわたしは、我が子とも呼べるキャラクターを他人に勝手にいじられることがどうしても耐えられなかった。
だから管理することに決めたのだ。
前世のわたしは、この世界の神である。
お嬢様を殺すのは、王太子でも、ヒロインでもない。
わたしだ。
前世のわたし。
そして――今世のわたし。
お嬢様の目が動き、ヒロインと王太子の背後にいたわたしのところで、ぴたりと止まった。
そのときはじめて、お嬢様の瞳に揺らぎが生まれた。
かつてお嬢様に言われた言葉が鮮明に蘇る。
『呼び名がないと不便ね。……イル。イルでいいわ。イルと呼ぶから、呼ばれたら必ず返事をなさい』
『はい、お嬢様』
孤児で名前すらなかったわたしは、人の形をしただけの本能で動く獣で。
名前をもらったあの瞬間、わたしはようやく人となった。
あの瞬間、わたしは生まれたのだ。
人として生きる道を切り拓いてくれたのは、お嬢様だった。
(そんなお嬢様を、わたしが……)
「……イル?」
お嬢様の唇が戦慄き、わたしの名を呼んだ。どこか不思議そうな響きで。
(はい、お嬢様)
わたしの口は固く閉ざされており、返事をすることはできない。
それでも心の中で何度だって応えた。
(はい、お嬢様)
そして懇願した。
(お願いです、お嬢様。今の……ここにいるわたしの姿を、その目に映さないでください)
お嬢様を陥れたのがわたしであることを、せめて知らないままでいてほしい。
わたしのそんなささやかな祈りすらも届かない。
「貴様は自分の侍女に裏切られたのだ!」
瞠目するお嬢様を嘲笑い、これまで仕打ちを吐き捨てる。それがわたしの役目であり、唯一まともな生きた人間の台詞でもあった。
わたしは一歩前へと踏み出す。
「わたしはあなたと出会ってから今日までずっと、傍若無人で人を人とも思わないあなたのことを憎んできました」
(嘘だ! 恨んでなんか、いない!)
「あなたはわたしのことを、同じ人だと思っていましたか?」
(ふざけるな! わたしを人にしてくれたのは、お嬢様だったじゃないか!!)
「わたしはあなたが、心の底から――大嫌いでした!」
目を見張るお嬢様が跪かされて、ギロチンに首を固定される。それを目にしてはじめて、わたしは笑うのだ。
ざまぁみろ、と。
(嫌だっ、笑うな笑うな笑うな……笑うなッ!!)
心の中で絶叫したとき、ふと、拾われたばかりの頃の記憶が蘇った。
『イル。あなたって、表情がないからなにを考えているのかわからなくて、不気味ね』
『……申し訳ありません、お嬢様』
『それよ、それ。その謝罪も、本心からの言葉なのかわからないから言っているの」
『…………』
そうわ言われても、口にすることはどれも本心でしかない。困り果てていると、お嬢様は閃いたとばかりに、人差し指と中指をクロスさせた。
『そうだわ。嘘をついていたり、本音で話していないときには、指をこうしなさい。愚鈍なあなたでも、それくらいできるでしょう?』
わたしはお嬢様に嘘をつくことなどなかったから、これまで使ったことながなかったハンドサイン。
お嬢様は気まぐれで、そんな会話をしたことすら覚えていないだろう。
だけどわたしは願った。
お嬢様を見下し嘲り笑いながら、懸命に。
(動け動け動け動け動け動け動け……動けッ……!!)
原作にないことは言うことができない。することができない。
だけどこの場面でわたしの指先の動きなど、物語の主軸とはまったく関係がない。
指がかすかに交差し、お嬢様の瞳によくわからない感情が浮かび、そして――……、
すとん、と。
ギロチンの刃が落ちて、瞠目するわたしの前で、お嬢様の首が切り落とされた。
(……あ、)
わたしを支配していたのなにかが、ふつりと消える。
「「「わぁぁぁぁぁぁぁーーーー!!」」」
地割れのような大歓声の中、この世界に転生したことに気づいてから、はじめて、わたしは自らの体の自由を得た。
自分の意思で動く手のひらを見下ろし、呆然とする。
(あ……わたしの出番が、ここで終わり、だから……?)
こんなに簡単に。
こんなにあっけなく。
そんな事実、知りたくはなかった。
ずっと強制力に拘束されたままの方がよかった。
(なぜ、今……)
頰に大粒の涙が伝い、地面へと落ちた。
ぽろぽろと、次から次へと溢れ出して止まらない。
(だったら、どうして、もっと早く……)
わたしが自由を得たのが、お嬢様の首が落とされた直後だなんて。
この世界に神はいない。
あるのは物語の秩序を守る原作者の強固な意思。
ただそれだけだ。
*
『お嬢様は、王太子殿下のことを愛しておられるのですか……?』
まだお嬢様の婚約が決まったばかりの頃。
王太子殿下に話しかけられたという理由だけで、お嬢様がその令嬢に、熱い紅茶を浴びせかけたことがあった。
お嬢様が使用人にお茶をかけるのはよくあることで、わたしも数えきれないくらい熱い紅茶を頭からかぶってきたのだが、他人にするのははじめてではないだろうか。
政略結婚だと思っていた。王太子と会っているときですら、お嬢様は少しも楽しそうではなかったから。そこに愛情はないものだと思っていた。
だけど……違ったのだろうか。
めったに自分から口を開かないわたしの質問に、お嬢様が少しだけ怪訝そうにこちらを一瞥する。
わたしもなぜ自分がそんなことを訊いたのか、自分の感情がよくわからなかった。
学院に入学してしまえば、お嬢様は王太子殿下と毎日顔を合わせることになる。ひとり置いていかれるようで寂しかったのかもしれない。
お嬢様は気まぐれで、きっとそのときは機嫌がよかったのだろう。わたしの疑問を一笑に付した。
『わたくしが愛しているのは、この世でただひとり。このわたくしだけ』
自分以外に愛する価値などないと堂々と言ってのけたお嬢様は、わたしの知るお嬢様だ。
王太子のことをなんとも思っていないようで、なぜだかとても安堵した。
『……でもね、イル』
お嬢様が椅子から立ち上がり、わたしの頰に手を添え顔を引き寄せた。
瞳を覗き込むように目線を合わせながら嫣然と笑む。
『あなたは、わたくしを愛するのよ?』
お嬢様の煌めく瑠璃の瞳に、わたしが映り込んでいる。
相変わらず無表情で、面白みのない顔をしているのだと思っていた。
だけど違った。
わたしは見たこともないような顔でお嬢様見つめ返している。
お嬢様の目には、わたしはこう映っているのか。
『いいこと? わたくしだけを、愛しなさい』
恥ずかしいような、誇らしいような気持ちのまま応えた。
『……はい、お嬢様』
いつもと同じ答えなのに、どうしてだろう、喉の奥で声が震えた。
お嬢様の目が満足そうに細められて、わたしの胸の奥でかすかに未知の感情が灯る。
そうか。
わたしは、お嬢様のことを――……。
*
わたしは断頭台へと駆け出していた。
もう何秒経った? わからない。
首を切られた人間は、即死だ。助けることはできない。だけど数秒間意識があるとも聞いたことがある。それが都市伝説だとも。だけどそれに縋らずにはいられなかった。
「お嬢様ッ! わたしは、あなたを――……!!」
切断されたお嬢様の頭部が転がり、ゆるやかに停止する。あの瑠璃色の瞳はもう二度と、わたしの方を向くことはない。
「……愛しています、お嬢様」
お嬢様は空を見上げたまま、その瞳に同じ色を映している。
「ちゃんと、愛していました、お嬢様」
わたしのつぶやきに、お嬢様のまつ毛がかすかに揺れたような気がした。
だけどそれはきっと、わたしの願望が見せた幻だ。
お嬢様はもうとっくに事切れていた。
わたしは膝をついて、お嬢様の頭部を恭しい手つきで抱き寄せた。
わたしは裏切り者で、お嬢様を殺した張本人。
最後に触れたのがわたしだと知ったら、きっとお嬢様は嫌がるだろう。
それでもわたしは、涙でお嬢様を穢してしまないように気をつけながら、大切に、大切に、胸へと抱いた。
ほかの誰にも、奪われてしまわないように。
ぎゅっと、愛した人の亡き骸を抱きしめた。
**
あのすぐ後のこと。
わたしはお嬢様の首を持って処刑場から逃げ出した。
誰にも追われることがなかったのは、王太子の協力者としての功績で目溢しされたのか、それとも、処刑を見て気が狂ったとでも思われたからか。
どちらでも構わない。
誰になにを思われても、もうどうでもよかった。
一番知ってほしかった相手はもうこの世界にいないのだから。
頭部を抱えたまま、森の奥を目指して彷徨い歩いた。
飲まず食わずで、もう何日経っただろうか。そのときにはわたしの体はもうぼろぼろで、それでも休むことなく両手で穴を掘り、どうにかお嬢様を埋葬し終えた。
墓標と呼ぶにはあまりに粗末な石を置き、近くに生えていた花をちぎって供える。
これで最低限、墓の体裁は保った。
すべてを成し終えたわたしは、土だらけの手で太もものホルダーから短剣を外すと、鞘から抜いた刃先を自らの首筋へと押し当てた。
「お嬢様。イルはずっと、お嬢様のおそばにおります」
人の往来はないが、獣道はある。わたしの肉も骨もすぐに、彼らに食い荒らされることになるだろう。
せめて骨ひとつ。
指先ひとつの骨だけでも、お嬢様のそばにいられたのなら、もうそれだけで幸せだ。
木々の合間から見上げた空はどこまでも澄んでいる。
耳を澄ませは、かすかに慶次を告げる鐘の音。
きっとヒロインと王太子の婚約が成ったのだろう。
この祝福の音は国中に響いているに違いない。
物語の結末は、ハッピーエンドと相場が決まっている。
だけどわたしの物語に、ハッピーエンドは訪れない。
永遠に、訪れることはない。
わたしはそっと目を閉じた。
ひとつ深呼吸をする。
濡れた土の冷えた匂いで肺を満たす。
そして、
わたしは手前へと、まっすぐに腕を引いた。
――ねぇ。どうだった、イル?
それとも、原作者さん、と呼んだ方がいいのかしら?
わたくし、あなたの望む悪役令嬢を最後まで演じられた?
なかなかの演技だったでしょう?
テンプレで、ありきたりで、なんの面白みもない悪役令嬢。
ああ、別に皮肉ではないの。
だってその方が、断罪されるためだけのキャラクターらしいじゃない?
誰かに共感でもされたら幻滅でしょう?
だけどね、イル。
最後の最後でアレはないわ。
あなたも最後まで裏切る侍女を演じないと。
だってこれは、あなたの紡いだ物語でしょう?
……でも、まぁ、もしまたどこかで会えたら、そのときは笑って許してあげる。
だからね、あなたもわたくしのために死んでね?
絶対よ?
……もしかして、もう死んでいる頃かしら?
楽しみね。
わたくしは先に地獄で待っているわ。
少しの間だけ、さようなら、イル。
また会うその日まで。
あなたの愛する悪役令嬢、アイリーチェより。
――――
最後までお読みいただきありがとうございました!




