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9.


 花は、風に逆らわない。薄い霧が、巡礼の山の奥深くを撫でていた。


 人が祈りのために登ったという昔の道は、いまでは踏み固められた獣道と、荷車が通った跡と、崩れた石段の残骸に分かれている。それでもこの場所だけは、人の靴底の匂いが薄い。麓からここまで来ようとすれば、道は何度も途切れる。崩れた石段は苔に埋もれ、標は朽ち、霧に紛れて方角さえ曖昧になる。


 巡礼が絶えたあとは、よほどの物好きか、よほどの理由がなければ、誰もこの奥へは足を向けない。行商や旅人が歩くのは、せいぜい“山に入った”と言い張れるあたりまでで、それより先は山の領分だ。谷の切れ目にひらけた花畑は、季節のずれを抱えたまま、色だけを正しく咲かせていた。


 ロザリンドは、その中央に立っている。こげ茶色の髪は腰のあたりまで伸び、霧と花の色を受けて静かに艶を変えた。青い瞳は、花の群れを前にしても焦点を外さず、冷たさを含んだまま澄んでいる。身にまとっているのは、桃色のロングワンピースだ。布は柔らかく揺れるのに、皺のひとつさえ乱れていない。陽射しを避けるため、つばの広い麦わら帽子をかぶり、影を落としている。その影が、表情をいっそう読みにくくしていた。それでも美しさだけは隠れない。


 肌は霧の白さに溶けそうなほど淡く、頬の線は柔らかいのに、どこか鋭い。唇は色を主張しないまま形だけで整い、笑わなくても「笑っている」ように見える瞬間がある。そして、その錯覚が長く続かない。瞳が動くと、青の奥に冷えが差し、見られた側だけが先に息を止める。手配書に描かれる線は簡素だが、紙が追いきれない部分があることを、本人はよく知っていた。息づかいの温度。目線の圧。そこにいるだけで周囲の空気を薄く冷やす、体温の扱い方。


 ロザリンドは花を傷つけないように指を差し入れ、花弁の縁をほんの少しだけ持ち上げた。


「……きれい」

 声は小さく、誰に向けたものでもない。返事を期待しない言葉は、祈りに似ている。花は、人間の都合で咲かない。帝都がどうなろうと、誰が死のうと、花は日を受け、根を伸ばし、季節になれば咲く。その無関心が、ロザリンドには心地よかった。


 遠い国の噂は、風に混ざってここまで届く。巡礼路が通り道になったせいで、人の声は山にまで染み込み、花畑の縁にまで引っかかっていく。「人が」「都が」「王が」言葉はいつも途中でちぎれて、肝心なところだけが濁る。ロザリンドはそれを、必要以上に拾わない。拾ったところで、自分の手の届く距離にはないし、花が咲く順番も変わらない。だからこそ、ここに立っていられる。ここで静けさを保てる。


 ロザリンドは花の茎を撫で、視線を上げた。霧の向こう側で、鳥が一度だけ啼いた。啼き声は短く、すぐ消える。


 そのとき――花畑の外側で、枝が折れた。乾いた音がひとつ、霧の膜を破って入り込む。この場所の柔らかい気配に似合わない音だった。ロザリンドは顔を向ける。驚きはない。ただ、空気の密度が増える。草を踏む重さが複数あり、足並みは揃っていない。息は荒く、鉄が擦れる音が混じる。


 獲物を探す音だ、とロザリンドは判断した。霧を割って現れたのは男たちだった。どの顔も上機嫌で、頬は酒気よりも昂ぶりで赤い。ついさっき行商を襲って奪ったのだろう、袋の口からは硬貨が触れ合う乾いた音が漏れ、布の端には他人の荷紐が無造作に結ばれている。


 追い手から身を隠すために奥へ奥へと踏み込み、普段なら近づかない場所まで来てしまった――そんな足取りだった。粗い服は山賊に似ていて、腰には刃物が下がり、目だけが忙しく周囲を探っている。その目が花畑を見つけ、次いでロザリンドを見つけた瞬間、飢えた顔に別の色が混じった。


「……女?」

 誰かが間の抜けた声を漏らした。こんな奥地に人影があるはずがない、という常識が一瞬だけ男たちの足を鈍らせる。


「はは、山が孕んだかよ」

「んなわけねえだろ。……見ろ、あれ」

 霧の中でも分かる輪郭の良さと、淡い桃色の布が揺れる様子が、彼らの理屈をあっさり奪った。


「ちっ、ついてる。こんな奥まで来て、女かよ」

「人目につかねえのは好都合だなァ。泣かせ放題だ」

「声上げても霧が食う。誰も来ねえ」

 笑いが下品に戻り、男たちは遠慮もなく花畑へ足を踏み入れた。踏み入れた瞬間に花が折れ、茎がちぎれ、泥がつく。その音が、ロザリンドの胸の奥で細い糸を弾いた。男のひとりがロザリンドを見て息を止め、次の瞬間、歯を見せて笑った。


「こんなとこに、こんな上玉。最高だ」

 声が汚い。言葉の形が汚い。別の男が舌打ちをし、仲間の肩を叩いて唾を飛ばす。


「見ろよ。肌も布も、傷ひとつねえ。拾いもんだぞ」

 視線が刃のように滑ってくる。ただしそれは切るための刃ではなく、奪い取るための刃だった。


「連れて帰って売るか?」

「馬鹿言え。まずはこっちで味見だ」

「順番で揉めんなよ。逃げ場はねえんだ、ゆっくり遊べる」

 笑いが重なり、花の上に落ちる唾の音まで、ロザリンドには聞こえた。ロザリンドは一歩も下がらない。逃げるという選択肢は、最初から存在しない。ここは自分の場所で、花は自分のものだった。


 男が距離を詰める。足が花を踏み、花が折れる。折れた茎が起こす小さな音が、霧よりもはっきりと耳に残った。ロザリンドは息をひとつ吐き、声を落とす。


「やめて」

 それは願いではなく、最後の通知だった。


 男は笑い、腕を伸ばした。その指が届く前に、ロザリンドは一度だけ視線を落とした。踏みつけられた茎。泥を塗られた花弁。それを見た瞬間、胸の奥で何かが「切り替わる」。


 怒りというより、手入れの手順に近い。汚れたものを取り除き、乱れたものを整える。花畑を、元の形へ戻す。花畑の縁が、わずかにざわめいた。風ではない。霧でもない。土の下で根がほどけ、地表の蔓が目を覚ます音だ。


 ロザリンドが魔人であることを、この場にいる人間は知らない。知る機会があったとしても、理解できたかは怪しい。ロザリンドは、トレントの死肉を食べて魔人になった。


 トレントは樹木の巨人だ。苔をまとった胴体に、節くれ立った枝の腕を生やし、皮の裂け目から樹液の匂いを滲ませて、森の奥に立つ。普段は穏やかで、人を見ても見ていない。踏まれた土や折れた枝にさえ、たいていは黙って耐える。だが一度動けば話は別だ。怒らせたときのトレントは、あまりにも容易く人間を壊す。蔓で締め上げ、根で絡め取り、体の中にまで植物を侵し入れて、生きたまま吸い尽くす。それが、森の掟のやり方だ。


 ――ロザリンドのやり方も同じだった。


 ロザリンドは動かない。帽子の影の奥で、青い瞳だけが男たちを見ていた。次の瞬間、草の間から食人草がいくつも口を開けた。花に似た色の肉厚な縁が笑うみたいに反り返り、濡れた歯を並べる。


「……は?」

 間の抜けた声が出たときには遅い。蔓が跳ね、山賊たちの腕と腰と喉へ絡みついた。締め上げられた半数が、息を吸い込んだまま声を落とす。


「ぐっ……放せ、クソ……!」

「てめっ……何だこれ……! 切れ! 切れぇ!」

 刃物が蔓に立つ。だが蔓は裂けない。裂けたとしても、その裂け目からさらに細い蔓が生える。花畑の土に根を張ったまま、ただ淡々と力を増やしていく。


「やめろ! やめろって!」

 口と鼻と耳へ、細い蔓がするりと滑り込んだ。男たちは嘔吐するように咳き込み、喉の奥を掻きむしる。吐こうとしても吐けず、叫ぼうとしても声にならない。蔓は優しく丁寧に侵入し、逃げ道だけを塞いでいく。


 吸われる。皮膚の下を流れていたものが、身体の内側から引き抜かれていく感覚が、叫びにならない叫びを作る。血の気が奪われ、顔色が薄くなり、四肢の力が抜ける。蔓の先は脈を探すように震え、見つけると、そこから容赦なく吸い上げた。


「う、うそだ……腹の中、冷てぇ……!」

「息……息が……!」

 食人草が、嬉しそうに湿った音を立てる。一方、残りの半数は逃げようとして足をもつれさせ、霧の中で花を踏み、泥を蹴り、刃物を振り回した。


「なんだこれ! 草が、勝手に――」

 言い終える前に、首筋へ冷たいものが触れた。ヤドリギだ。柔らかな葉の束が、まるで印を押すみたいに肌へ貼りつく。


「取れ! 取れぇ!」

 次の瞬間、葉の根元が肉に食い込み、骨に絡み、内側へ伸びた。山賊たちは呻きながら腹を押さえ、膝をつく。体液が吸い上げられていく。汗が冷え、唇が乾き、目の焦点が合わなくなる。


「や、やめろ……中が……掻かれて……!」

「喉が……乾く……水……!」

 抜けない。ヤドリギは“植わった”のだ。吸い尽くされた身体の上で、ヤドリギは静かに育つ。


 そして、花が咲いた。花弁は薄く、霧を透かすほど柔らかい。白に近い淡い色の上へ、ほんの少しだけ桃と青が混ざり、朝の空みたいな色合いを作っている。中心には小さな光の粒のような花粉が集まり、近づけば蜜の匂いがする。風が触れるたび、花は揺れて、音もなく輝きを変えた。


 人の命を吸い尽くして咲いたとは思えないほど端正で、整っている。きれいな花だった。花畑に馴染む色で、何事もなかったみたいに、ただ「咲いている」。ロザリンドは視線を落として、汚れた花を見た。


「汚した……」

 声は静かで冷たい。怒りは大きな音にならず、手順になって淡々と出てくる。苦痛が消えるころには、山賊たちの声も消えていた。


 霧が戻ってくる。花畑は静かになり、聞こえるのは風と、折れた茎が乾いていく小さな音だけ。ロザリンドは膝を折り、血のついた花の茎を指でつまんだ。血はまだ温かい。温かいものは、すぐに冷える。ロザリンドは花を一本だけ抜き取り、折れた茎の横へ置く。


「また、咲くわ」

 そう言って立ち上がり、花畑の奥へ歩いていった。自分が何をしたのかを振り返りもしない。ただ、花を踏まないようにだけ気をつけながら。


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