8.
森は、町の灯りを飲み込むのが早かった。一歩、二歩と踏み込むたび、背中の世界が薄くなる。獣道の泥はまだ柔らかく、靴底に重くまとわりつく。踏みしめるたび、土の中に沈んだ水が、ぬるりと音もなく逃げた。雨上がりの葉が水を落とし、滴が首筋を冷たく撫でた。冷たさは撫でるだけで終わらず、芯に残って、体温をじわりと削る。
イコの言う通り、少し奥へ入ると、風を避けられる窪みがあった。大きな根が半分壁みたいに立ち、倒木が天井のように渡っている。人の目も、獣の目も、ここなら遠い。
「ここで、少し」
イコは丁寧に言うと、指先を軽く払った。火を起こすのに、乾いた枝を探す必要はないし、火打ち石の音もない。代わりに空気だけが一瞬張り詰め、遅れて肌の産毛が逆立った。
湿った闇を見えない糸が走ったような気配のあと、ぱち、と小さく裂ける音がする。次の瞬間、焚き付けの束の中心に白い光が宿り、それが赤へ落ちた。赤はすぐ橙に育ち、濡れた世界の境目だけを舐めるように揺れた。雷ではないし、嵐でもない。それでも、その手際は「電力」を使ったみたいに無駄がなく、どこか冷たかった。容易い、という言葉が胸の奥に残り、残ったぶんだけ体温が削られる気がする。
炎は濡れた世界にだけは優しい。熱が立ち上り、二人の頬の水気と、服の重さを少しずつ奪っていった。ルクレツィアは腰を下ろし、濡れた服の端を指で摘まんだ。肌に貼りついた布が離れず、引くたびに冷たい水気が戻ってくる。濡れた布は、乾きかけるたびにまた冷えて、体温を奪う。擦れるたびに、薄い痛みが残る。不快感が、じわじわと神経を削る。動きがぎこちない。呼吸が浅くなる。腰は軽い。軽いはずなのに、濡れた布と装備の重さだけが、まだ身体にしがみついていた。
濡れた装備は、放っておけば冷えに変わる。冷えは、油断に変わる。油断は、死に変わる。分かっている。だから脱ぐしかない。脱がなければならない。外套だけでは足りなかった。冒険者じみた革の上衣や、濡れて重くなったベルトと小袋、肩に食い込んでいた留め具を、ひとつずつ外していく。
町の石畳に落ちていた外套も、イコが起こした豪雨に容赦なく叩かれていた。雨は上がっても濡れは残り、残った濡れは夜の冷えに変わる。留め具を外し、重さを一つずつ落としていった瞬間、ルクレツィアは自分の身体の輪郭を急に意識した。
下着に近い薄い布。素肌の露出。名家の娘として、他人の前で晒すはずのないもの。火の熱が頬へ集まる。それは暖かさではなく、恥の色だ。羞恥が、遅れて胸の奥から湧いて、喉を乾かす。
――今さら。今さら、こんなことで。戦場で見せた背中がある。血の匂いの中で命令口調を選んだ声がある。それでも、布一枚の薄さの前で、身体は勝手に震える。「……違う。いまは」口に出さず、心の中でルクレツィアは自分自身を叱る。そんなことを言っている場合ではない。帝都がある。魔人がいる。そして、目の前で血が落ちている。
恥ずかしいのは、肌ではない。恥ずかしいのは、自分がまだ“普通”の感覚を捨てきれていないことだ。捨てきれないまま、ここにいることだ。ぱちり、と火が鳴った。その音に紛れて、ルクレツィアは濡れた髪をまとめる。
ふと視線を上げると、イコがこちらを見ていなかった。彼は、背を向けていた。焚き火越しの背中。炎の向こう側。わずかに肩をずらし、ルクレツィアとは反対方向を向いている。
外套を脱いだイコの服装は、驚くほど軽装だった。聖職者を彷彿とさせる黒一色。飾り気のないシャツと、動きやすそうな長ズボン。濡れた布が火の光を吸って、輪郭だけが静かに浮かぶ。
背中だけが、近い。気づいている。気づいていないふりをしてくれている。そのふりが、礼儀だ。鎧だ。そして、距離だ。ありがたい。ありがたいのに、胸の奥が痛む。こちらは助かっている。助かっているのに、同時に突き放されてもいる。彼は、触れない。触れないまま、守る。守りながら、壁を作る。その壁が必要だと分かっているからこそ、苦しい。
「……すみません」
イコの声が、炎の音より小さく落ちた。謝罪の形は丁寧だったが、その中身はひどく人間的だった。
「見苦しいものを、お見せしてしまって」
見苦しい。そう言われた瞬間、ルクレツィアの喉の奥がきゅっと縮む。見苦しいのは血であり、止まらないことでもあり、代償が形を持って見えてしまうことでもある。
イコの血は、まだ落ちていた。火の色に照らされた赤は、生きているみたいに艶を持ち、渇く気配を見せない。乾いた痕にはならず、瑞々しいまま、ずっと新しいままだ。まるで身体の中に、まだ雨雲が残っているようだった。一滴落ちるたび、地面の落ち葉が暗い赤を飲み込み、飲み込んではまた飲み込む。落ち葉は何も言わず、森も黙っている。その黙り方が、町よりも冷たくて、夜の底へ沈むみたいに重い。
ルクレツィアは布を握りしめた。拭うためでもあり、守るためでもあり、何もできない自分を誤魔化すためでもある布だった。
「……謝らないで」
声は低く出た。低くしたつもりでも、炎に焼かれた空気の中では、どこか震えて聞こえてしまう。
「それは……見苦しいんじゃない」
言い切れなかった。言い切るための言葉を、まだ持てていない。イコは背を向けたまま、小さく息を吐いた。息は乱れていないのに薄く、薄いこと自体が、危うさを知らせていた。
「お気遣い、ありがとうございます。ルクレツィア様」
様付け。やはり壁、やはり距離を感じた。ルクレツィアは炎に手をかざし、指先の冷えが溶けるのを待った。待っても、胸の中の冷えは溶けない。
自分は、何をしている。帝都へ向かうには足りない。彼の隣にいるには軽い。それでも、ここにいる。ここにいなければならない。炎が揺れる。ルクレツィアは唇の裏側を噛み、口に出すべき言葉を探した。火の前では、祈りはすぐ乾く。残るのは、手順だけだ。
「……ねえ、イコさん」
呼びかける声は小さく、でも逃げなかった。
「三日、って言ったよね」
言ってしまう。また確認してしまう。確認しなければ、怖さが形を持つ。イコは、背を向けたまま頷いた。
「はい」
その一言が、火より熱く、火より冷たい。ルクレツィアは布を握り直した。今夜は、眠れるのか。眠っていいのか。眠れば、どこかが崩れるのではないか。炎は答えない。森も答えない。ただ、血が落ち続けている。そして二人は、同じ火を囲んでいる。
しばらく、言葉が途切れた。沈黙は気まずさではない。息を数えるための沈黙だった。火に手をかざし、濡れた布の重みが少しずつ軽くなるのを待つための沈黙。イコは背を向けたまま、もう一度だけ小さく息を吐いた。吐息が白くなるほどの冷えはない。それでも、その息はどこか薄い。
「……これからのことを、お話しします」
声は丁寧で、静かだった。謝罪と同じ温度。感情を隠しているのではない。感情を壊さないように、薄い箱に入れて持っている。ルクレツィアは頷いた。頷きの音すら大きく聞こえそうで、首だけを小さく動かす。
「次に向かう場所がございます」
焚き火がぱち、と鳴った。その音に、イコの言葉が一瞬だけ割り込まれたみたいに途切れる。
「……一人の魔人のもとへ」
魔人。その単語だけで、ルクレツィアの胃の奥が冷える。火に当たっているのに、内側だけが冷える。ルクレツィアは、自分が知っている魔人の顔を数えた。
イコ。さきほど町で遭遇した魔人、ルーファス。そして、帝都を混乱の渦に陥れた死刑囚の魔人。三人。たった三人。それだけで、世界がこんなに歪むのかと、いまさら思う。
「女性です」
イコは言った。その二文字だけで、ルクレツィアの中の「像」が勝手に形を作り始める。彼女は膝の横に置いていた皮袋へ手を伸ばした。濡れた革が指先に吸い付き、ほどく音がやけに大きく聞こえる。中には折り畳まれた手配書が数枚あり、紙はまだ湿り気を抱えていた。めくるたび、火の熱で端がわずかに反り返り、その反りが指先に引っかかってくる。一枚、また一枚と目を走らせていくうちに、指先が止まった。
獣のような目をした美少女の顔が描かれている。輪郭は整っているのに、目だけが飢えた獣みたいに笑っていた。ルクレツィアは、手配書の下に並ぶ文字を追った。湿った紙の上で、インクだけが妙に黒い。
「……エデン」
名を読み上げた途端、焚き火の向こうの空気が少し硬くなる。
「この子が……そうなの?」
イコは背を向けたまま首をわずかに振り、「いいえ」と短く答えた。その短さが、かえって胸の奥の緊張を増やす。ルクレツィアは息を詰めたまま、さらに紙をめくった。そして次の手配書で、別の名前に行き当たる。
「……ロザリンド」
獣の目とは違う。紙の上にいるのは、美少女というより、美女に近い輪郭だった。長い髪。色は――火のそばでは判別しにくい。それでも、茶色だと分かる程度の濃さで、線が引かれている。
似顔絵は簡易だ。目鼻の配置と、髪の流れ。それだけ。それだけなのに、冷たい。紙の上の静けさが、こちらの体温を一段落とすみたいに冷たい。ルクレツィアは焚き火越しに、その紙をそっと持ち上げた。イコは背を向けたまま、ほんの少しだけ顎を引いた。
「はい」
その一言が、確かめの印になった。
「ロザリンド、と名乗っています」
名前だけは、驚くほど優雅だった。その優雅さが、かえって油断を誘う。
「魔人にしては……ある程度、話をしやすい方だと思います」
話しやすい。その言葉の軽さが、かえって怖かった。“話しやすい”の向こう側に、話が通じない相手が山ほどいるという前提が、薄く透けて見えたからだ。 ルクレツィアは炎を見つめた。揺れる橙が、イコの背中の黒を、切れ切れに照らす。
「……魔人って」
言いかけて、言葉が喉に引っかかった。ルクレツィアは一度だけ唇を湿らせた。
「みんな、あのオーガの魔人みたいなの?」
ルクレツィア自身でも幼い質問だと分かっている。分かっているのに、聞かずにいられない。イコは、背を向けたまま首をわずかに振った。
「……魔人は」
そこで一拍、言葉を選ぶ。
「少なからず、どの魔人も……性格に癖がございます」
癖。その言葉はまだ丸い。丸い言葉で包まないと、刃が出る。イコは続けた。
「癖、というか……歪んでいる、と表現した方が正しいかもしれません」
歪んでいる。焚き火の橙が揺れ、歪んだ影が地面に伸びた。影の歪みが言葉と重なり、ルクレツィアは背中の奥がぞくりとする。
「ですが」
丁寧な三文字。その三文字が、いつもより重い。
「これから会いに行く方は、話が通じる可能性がまだ高いです」
可能性。確実ではない。だからこそ、そこへ行く。そこへ行って、頭を下げる。言葉を尽くす。それでも駄目なら――。ルクレツィアは息を吸った。吸った空気が火の匂いに変わり、胸の奥に落ちる。
「……うん」
返事はそれだけだった。それだけで、いまは精一杯だった。背を向けたイコの肩が、ほんの少しだけ上下した。頷きにも見える。ただの呼吸にも見える。焚き火の向こうで、二人は同じ熱を分け合いながら、まだ同じ方向を見ていない。それでも、明日には同じ方向へ歩く。もう一滴、血が落ちた。
イコが、背中越しにもう一度だけ呼吸を整えてから、静かに口を開いた。
「ロザリンドが生活している場所は巡礼の山です」
巡礼、と聞けば、白い石段を上る足音や、祈りの歌を思い浮かべる。ルクレツィアの脳裏にも、幼いころに遠巻きに見た祭礼の光景が、焚き火の揺らぎに合わせて一瞬だけ蘇った。灯の列が夜を縫い、香の匂いが空気を甘くし、胸の前で組まれた指が同じ形を作っていた。だが、その幻は火の粉みたいにすぐに崩れ、現実だけが残る。残ったのは、山と夜と魔人であり、そこへ向かう自分の足だった。
「……巡礼の、山」
復唱した声は、自分でも驚くほど乾いていて、喉の奥に細い砂を残した。聖地という言葉が似合わないものが、いまの旅には多すぎる。血の匂いも、魔人の名も、期限も。イコは、言葉を選ぶように一拍おいてから続けた。
「その山が“聖地”だったのは、もう昔の話です」
淡々とした言い方が、かえって重い。昔がいつ終わったのか、その理由が何だったのかを、尋ねなくても想像できてしまうことが、ルクレツィアには怖かった。
「いまは行商も旅人も、当たり前のように道を使う。巡礼路というより、ただの通り道です」
祈りよりも、荷車の軋む音の方が多い。そう言い換えられた瞬間、ルクレツィアの中で“巡礼”はただの道に変わり、その道の上に魔人が棲むという事実だけが残った。ルクレツィアは火にかざしていた指を、ゆっくりと握り込む。温度を閉じ込めるように、逃げそうな意識まで拳の中に留めるように。
「その奥です。峰の近くに、住んでいる」
焚き火がぱちり、と鳴った。炎の音に混じると、峰という言葉まで冷たく聞こえる。峰の近くとは、岩と風と夜しかない場所だ。逃げ道が少なく、助けも届きにくい。そこにいる相手はロザリンドであり、紙の上の線だけでさえ体温を削った女だった。
ルクレツィアは一度、息を吸ってから吐いた。怖さが消えるわけではない。消えないからこそ、手順が必要になる。
「登るには準備が要ります」
イコの声は祈りよりも現実的で、救いではなく、生き残るための段取りを告げていた。
「まずは麓に近い町へ向かいましょう。そこで一度、装備も体も整えてから登ります」
整える、という言葉に、ルクレツィアの意識が“いま”へ戻った。持ち物と体温と呼吸、それから判断の順番までを、ひとつずつ並べ直していく。やるべきことは、まだ山ほどある。だからこそ、足を止めない。ルクレツィアは小さく頷いた。その頷きは逃げではなく、震えを抱えたまま前へ出すための合図だった。
「分かった」
声を低くする。震えが混じっても構わない。混じったままでも、言葉は前へ進める。
「麓の町で準備をする」
「それから、巡礼の山へ向かう」




