4.
〈喉の止まり木〉を出ると、外の空気が思ったより冷たかった。背後で日が傾き、酒場の扉口に差していた光がゆっくりと引いていく。代わりに、これから始まる音が滲んでくる。裏手で樽を転がす鈍い響き、薪をくべる匂い、まだ控えめな笑い声。そして腹を空かせた旅人が辿り着く前の、短い準備のざわめき。
喉の止まり木は、これから少しずつ温まっていく。夜が深くなるほど杯が増え、声が重なり、噂が形になる。その盛り上がりを背に、ルクレツィアは一歩だけ早く町の冷えた空気へ身を滑らせた。
石と土の匂いに、家畜の汗が混じる。干しかけた藁が風に擦れて乾いた音を立て、その音だけが町の眠気を引きずっている。ルクレツィアはフードの奥で息を吐いた。酒場の中で得た確信が胸の底に沈み、重しのように身体を落ち着かせる一方で、次の一歩を急かしてもいる。
この町にいる。さっきまで、いた。だからこそ急がなければならない。急げば目立ち、目立てば見つかる。狭くはないが、大きいとも言えない片田舎の町だ。道は多くない。顔は覚えやすい。すれ違っただけで肩の角度や歩幅が記憶に残り、噂は声より先に視線で回っていく。ルクレツィアは外套の合わせを深くし、通りの影を選んで歩いた。
そのとき、金属が擦れる音が町の端から近づいてきた。革靴が石を叩く硬い足音が複数重なり、町の静けさに馴染まない。
――伝令。
帝都の色をまとった一団が、通りを横切ろうとしている。薄い鎧に外套、腰の短剣、巻いた革袋。だが、帝都の伝令が本当にこんな匂いをしていただろうか、とルクレツィアは思った。酒と汗に乾いた血の鉄臭さが混じり、火薬のような焦げが鼻の奥に残る。
彼らの歩き方も町のそれではない。足音は硬く、視線は高く、周囲を「人」ではなく「場所」として測っている。隊の輪郭も荒れていた。揃いの制服の下から別々の人生が覗き、腕には刻み傷、指は欠け、歯は黒い。笑うとき、口角が上がる前に目だけが獣みたいに動く。
帝都所属。だが帝都出身ではない。地方から集められた兵、罪人、悪人、金で雇われた者。帝都が支配された結果、こういう連中が兵の列に混じる――いや、混じるだけではない。前に出て、押しのけて、力で席を取る。秩序の皮を被った悪漢。それが今の帝都の“腕”だ。
ルクレツィアは反射で壁際に寄り、顔を伏せた。帝都の人間なら名家の娘だと気づいてもおかしくない。姿勢や歩き癖、声を出さずとも滲む育ちが、いずれ輪郭を作る。
だが彼らは名家を知らない。知る必要もない。いま帝都で価値があるのは血筋ではなく、従うか噛みつくか――ただそれだけだ。
フードが影を作り、泥と埃が身分を隠す。伝令たちはルクレツィアをただの旅人と見て通り過ぎた。今のところは。
先頭の男が立ち止まり、革袋から紙束を取り出して掲示板へ向かった。手配書を貼る気配がした瞬間、町の空気が固まる。人は集まらない。集まらないまま遠巻きに見る。視線の端で子どもが母親の袖を掴み、母親がその手を強く握り返した。誰も声を出さない。声を出せば、次に“呼ばれる”のが自分だと知っている。
「見かけたら役所へ」
事務的な声で、感情がない。命令というより確認だ。従うのが当然だという前提で、淡々と世界を押し固めていく。ルクレツィアは通りの反対側へ視線を投げながら数を数えた。五、六、七――そして、もう一人。列の中に異物が混じっている。
鎧の擦れる音が違う。呼吸の速さが違う。何より、周囲の空気がその男の周りだけ薄く張り詰めている。人の枠を踏み越えた者の、あの静けさだ。背中を冷たいものが走った。
――いる。
帝都を支配する五人の魔人。そのうちの一人が、伝令に混じっている。なぜ。答えはひとつしかない。狩りだ。真っ先に見つけた者を殺すため。
ルクレツィアは足を止めない。止まれば視線が絡み、絡めば終わる。歩幅は変えず、呼吸だけを浅くして、彼らの視界の端でただの旅人として溶ける――はずだった。視線が、刺さった。
列の中の異物が、ほんの僅かに顔を上げる。夕の光が、その顔面をかすめた。帝都所属の外套には不釣り合いすぎる、下品なタトゥーが顔を覆っている。頬からこめかみ、鼻梁の脇まで、墨が這うように走り、肌の色を汚していた。意匠は悪趣味だった。祈りや紋章の真似事ではない。下卑た図形と崩れた文字が、顔の凹凸に合わせて歪み、まるで「この皮膚は俺のものだ」とでも言いたげに張り付いている。
身体つきは痩せて、骨ばっている。なのに背は高く、近づけば近づくほど影が長くなる。そして目つきが、病的に神経質だ。瞬きが浅い。瞳の奥が乾いていて、こちらの呼吸の乱れまで拾おうとする。
こちらを見ている。名家の娘だと分かったわけではない。それでも、フードの影の奥にいる「何か」を嗅ぎ当てたような目だった。ルクレツィアは背筋の力だけで歩きを保った。速めない。逃げない。振り向かない。けれど、足音がひとつ、列から外れる。鎧の擦れる音が近づく。革靴が石を叩く。
一歩。また一歩。伝令の輪の外側をなぞるようにして、その男が、じり、と距離を詰めてくる。
「おい、そこの」
声は低い。荒れていない。むしろ丁寧にすら聞こえる。だからこそ、背骨の奥が冷える。近づくほど、匂いも濃くなる。安い酒の甘ったるさ、汗の酸、乾いた血の鉄。その奥に、薬草を焦がしたような苦い匂いがまとわりついていた。
ルクレツィアの足が、意思とは別に止まりかけた。止まるな。止まれば終わる。――それでも、身体が一拍だけ遅れた。その遅れに、男の気配が重なる。近い。近すぎる。ルクレツィアはようやく足の裏で地面を捉え直した。止まらないまま、止まったふりをしないまま、ただ「聞こえなかった」顔を作る。だが男は、さらに一歩、寄った。その影が夕日の薄い光を遮った。
「止まれ」
囁くような声だった。それなのに、周囲の空気が一段、冷える。
「止まらなければ――この町を焼き尽くす」
脅しの言葉は大げさなのに、嘘の匂いがしない。魔人が本気になれば、家並みは薪より早く燃える。畑道の先まで火は走り、泣き声は煙に溶ける。
ルクレツィアの喉が乾いた。逃げれば追われる。ここで戦えば町が死ぬ。だから――足を止める。止めるのは一歩だけ。息を殺すためでも、怯えたからでもない。相手の刃先を、言葉で少しだけ鈍らせるためだ。ルクレツィアはゆっくりと振り向いた。フードの影が深く、目元が見えないように角度を選ぶ。
「……何の用だい」
声を低くする。旅人の声。乾いた田舎の道を歩いてきた者の、擦れた声。魔人の目が細くなる。笑っていないのに、笑っているような皺が浮かぶ。
「用、だと?」
男は一歩だけ近づき、わざとらしく首を傾げた。その動きで鎧の金具が鳴り、周囲の伝令がほんの僅かに目を向ける。見られる。見られれば、町が巻き込まれる。ルクレツィアは肩を落とすふりをして距離を保った。
「止まれと言うなら止まったよ。……町を焼くなど、冗談でしょう」
挑発ではない。確認でもない。ただ、相手に“次の言葉”を吐かせるための餌。魔人は鼻で笑った。冗談にできない、と言わずに示す。指先がわずかに動き、空気が熱を孕む。夕暮れの冷えた風の中で、喉の奥が一瞬だけ乾く。
――本気だ。ルクレツィアは理解し、同時に時間を数え直した。ここで長話はできない。けれど、この一拍が必要だ。魔人は、じっとこちらを見たまま、顎をしゃくった。
「外套を外せ」
命令は短い。乱暴ではない。けれど拒否の余地を最初から潰している。
「外さないなら――さっき言った通りだ。町ごと焼く」
言い方が淡々としているから、余計に恐ろしい。脅しではなく、選択肢を並べているだけだ。ルクレツィアの頭の中で、逃走の線が一瞬だけ走った。振り向いて、全力で駆ける。路地へ入り、曲がり、畑へ抜ける。追手が追える角度を潰し、夕闇に紛れる。
――できない。男の周りの空気がそう言っている。追う気配ではない。追わなくても捕まえられると知っている気配。一歩が、届く。二歩なら、逃げ道が終わる。ルクレツィアは息を整え、手を外套の留め具へ伸ばした。
指が震えるのを許さない。震えは弱さになる。弱さは火になる。留め具を外す音が、小さく鳴った。フードは外套と一体だ。外套を落とせば、フードも一緒に落ちる。隠すための影は、布ごと剥ぎ取られる。外套が肩から滑り、頭を覆っていた布も遅れて離れる。布は風をはらみ、夕の冷えた空気を一度だけ孕んでから、地面へ滑った。
隠れていたものが、露わになる。外套の下の服装は、貴族の娘が着るものではなかった。冒険者の旅装。動けるように作られた、実用の装いだ。襟の低いシャツに、身体へ沿う短い上衣。擦れた革のベルトが腰を締め、簡素な小袋と、薄い革の鞘を吊っている。脚は動きやすい細身のズボンで、膝には古い布の当てがあり、靴は泥を噛んだまま乾いていた。どれも派手さはない。けれど縫い目が頑丈で、擦れた場所はちゃんと手入れされている。生き残るための服だ。その装いが、彼女の“目立つもの”を隠しきれないまま、かえって際立たせた。
ルクレツィアは小柄である。その身体に対して、顔立ちはやけに整いすぎていた。良い意味でも、悪い意味でも――目立つ。髪は純白に、黄金を数滴垂らしたような色だった。光を受けるたび、白と金の境目が揺れ、色が浮いて見える。長さは肩にかかるほど。前髪は頬に触れる程度で、動くたび細く揺れて、視線を隠しきれない。瞳は翡翠色だった。夕の光を受けると、ただの緑ではなく、深い水の底みたいな青さが滲む。大きくくっきりとした目は、澄んだ水面みたいに光を受けて、揺れないのに揺れて見える。睫毛の影が縁を薄く縁取り、その内側で翡翠の色が静かにきらめき、覗き込む者の呼吸を一拍だけ奪う。濡れた宝石みたいに光を拾い、感情を隠しても、意志だけは浮かび上がる。
町の埃を被せても消えない。旅装をまとっても、消えない。――名家の娘。その輪郭が、外套の下から立ち上がってしまう。
ルクレツィアは視線を落とした。相手の目を真っすぐ見れば、絡まる。絡まれば、焼ける。それでも、背筋だけは折らない。
「これでいいかな」
声は低く抑えた。けれど、どこかに残る育ちの響きまでは、消せなかった。魔人の乾いた瞳が、彼女を舐めるように上から下へ走った。その視線が、皮膚の上に細い刃を置く。ルクレツィアの頭の中で、逃走の線がもう一度だけ走る。――やはり、無理だ。
この距離で背を向ければ、終わる。この男は追いかけない。追いかけずに、届く。彼女はその結論を飲み込み、次の言葉を探した。町を燃やさせないための言葉を。その前に、周囲が先に汚れた。伝令の列から、下品な笑いが漏れる。抑えきれない唾の音と一緒に。
「おいおい、当たりじゃねえか」
「こんな町に落ちてる顔じゃない」
「いい女だ、高そうだな」
言葉は軽い。軽いまま、人を削る。別の男が口笛を吹き、誰かが肘で仲間の脇を突つく。視線が束になってルクレツィアへ集まり、肌の上を這い回った。
「泣かせたら面白そうだ」
笑いが広がる。町の空気まで汚れていく。魔人は止めない。止めるどころか、口元だけを僅かに歪めた。にやにやと、愉しむように。あの乾いた目つきのまま、周囲の下品さを餌にしている。怒らせればいい。恥じさせればいい。踏み外させればいい。そうすれば、火をつける理由が増える。
ルクレツィアは息を吸い、吐いた。顔の筋肉を、一本ずつ凍らせる。眉を動かさない。唇を噛まない。瞳を揺らさない。笑われても、何も感じていないふりをする。感じた瞬間に、負けが音になる。胸の奥で熱が暴れ、喉がひりついた。それでも表情は崩さない。崩せば、火になる。
ルクレツィアは視線を上げないまま、ただ静かに言葉を選び続けた。この場の火種を、言葉で握りつぶすために。魔人が、ふっと笑った。にやにやとした笑みを隠そうともしない。そして急に、わざとらしく首だけを巡らせて、伝令たちを見回した。
「おい」
声は軽い。軽いのに、誰も逆らえない。
「この女――どこの出だと思う」
伝令たちは一瞬だけ固まり、それから互いの顔を見た。笑いが途切れる。
「……知りませんねぇ」
「顔はいいが、帝都の女かどうかも分かりませんよ」
「そんなの見て分かるのは、買い値くらいっすね。ひひひっ」
下品な言葉を重ねても、答えにならない。彼らは本当に知らない。名家の名も、血筋の匂いも。魔人は肩をすくめ、まるで失望したふりをした。その仕草が、余計に嘲りだ。
「はは。そうか。分からんか」
そして、ようやくルクレツィアへ視線を戻す。乾いた瞳の奥で、笑いが薄く揺れている。
「教えてやろうか」
言葉が、甘い。甘いまま、刃だ。
「おまえのその髪」
「その目」
一つずつ指差すように言う。
「ヴァルクレールの血だ」
ルクレツィアの内側で、何かが音を立てずに崩れかけた。魔人は、その崩れかけを見逃さない。口角が、さらに上がる。
「……知らなかったか?」
嘲笑が混じった息。
「帝都じゃ、もう片づいた」
言葉が、遠くで鳴る鐘みたいに遅れて届く。
「おまえ以外のヴァルクレールは、処刑された」
さらりと言う。噂話みたいに。今日の天気の話みたいに。
「綺麗に並べて首を落としてやった。民衆に見せてやると、よく静かになる」
伝令の誰かが、ひゅ、と息を漏らした。笑いを堪えたのか、驚いたのか、自分でも分からない顔。ルクレツィアは瞬きの回数を数えた。一度。二度。涙は出ない。出せない。出せば、火になる。胸の奥の熱が、冷たく反転する。それでも、顔の筋肉は動かさない。声も震わせない。崩れない。ここで崩れれば、町が燃える。
ルクレツィアは喉の奥の痛みごと息を飲み込み、次の言葉だけを探した。その言葉が、火を止める唯一の楔になると信じて。魔人は、その必死さすら玩具みたいに扱った。ゆっくりと息を吐き、笑いを喉の奥で鳴らす。
「……なに、安心しろよ」
安心、という言葉が一番似合わない口調で。
「おまえの番も、もう許可が下りてる。……ああ、帝都の許可じゃないぞ」
わざとゆっくり言い直す。
「この帝都を――いま支配してる“帝都”の許可だ」
言葉を噛み砕くみたいに、最後を笑い混ぜにする。
「ヴァルクレールの残りは見つけ次第処分していい。面倒な血筋は、根から抜いたほうがいいってさ」
刃を研ぐ話みたいに淡々と。そして魔人は、思い出話をするみたいに続きを足した。残酷さを、わざわざ丁寧に。
「処刑台は、帝都の広場に組んだ」
板の上。縄。斧。見物の列。乾ききった空気。
「おまえの家の連中は、最後まで綺麗な顔をしてたぞ」
嘘みたいに軽い口調で。わざとらしく。
「泣いて頼むと思ったか? ――違う」
魔人は喉の奥で笑った。
「母親は、おまえの名を呼ばなかった。呼べば、おまえの居場所に繋がるからだとさ」
そこまで言って、首を傾げる。
「賢いよな」
伝令の誰かが下卑た笑いを漏らす。
「父親は、最後に……なんて言ったと思う?」
答えを待たない。待たせるだけで楽しめるから。
「――『生きろ』だ」
優しい言葉を、汚すみたいに吐き捨てる。
「おまえを逃がしたのは正しいって。ヴァルクレールの名が残るなら、それでいいって」
魔人の目が細くなる。
「でも、残らない」
嘲笑が、はっきり混じった。
「残すなって命令が出た。だから、全部終わりだ」
ルクレツィアの胸の奥で、冷たいものが軋んだ。けれど顔は動かない。魔人は、その「動かない」を見て、さらに笑う。
「だから、好きにしていい」
「今」
「ここで」
「おまえを」
「ルクレツィア・フォン・ヴァルクレールを」
夕の風が吹いた。足元の外套の端が、乾いた音を立ててめくれた。
「――残るよ」
青年の声が、湿った嘲笑と唾の匂いのする空間を、まっすぐに切り裂く。続けて、フードを外しながら青年は言った。
「ヴァルクレールの名は残る」
ルクレツィアは反射でそちらへ目を向けた。遠目には灰色にも銀色にも見える、白髪交じりの黒髪。鋭利な刃を彷彿とさせる、研ぎ澄まされた立ち姿。黄昏を背景に立つその姿は――鬼の王を倒した、あの彼だった。




