20.
イコはベッドで眠っていた。胸が、ゆっくりと上下する。浅い呼吸。それでも途切れない。
ロザリンドの家は、意外な雰囲気だった。血の匂いも、土の匂いも、戦場の匂いが、ほとんどない。代わりに甘い木の匂い、乾いた布の匂い。長い間触れられていない、人形の髪の匂い。
小さなドールが棚に並んでいる。並び方が丁寧すぎて、誰かが毎日指先で角度を直しているのが分かる。棚の下には小さな裁縫箱が置かれていて、針山に赤い針が刺さったままになっていた。糸巻きの色が花畑の色に似ているのが、妙に目に引っかかる。
可愛らしい家具。白い塗装はところどころ剥げていて、木目が薄く覗く。角の丸い机の上にはレースの敷物がかかり、乾いた花を押し花にしたしおりが何枚か重ねられていた。小さな椅子は背もたれが低く、座面に柔らかい布が張られている。ベッドの上掛けは淡い色で、触れればすぐに指が沈みそうな厚みがある。枕元には小さなぬいぐるみが一体、きちんと座らされていた。
少女の空想を具現化したような、柔らかい世界。この家の主が花畑を操って人を縛り、花粉で息を奪う魔人だという事実だけが、場違いみたいに浮いている。
ルクレツィアはベッドの脇に立ち、息を殺してイコを見下ろした。まだ鼻の奥に甘さが残っている。吸い込んでいないはずなのに、匂いだけで喉が開きかける。手を伸ばせば触れられる距離。けれど触れたら崩れる気がして、指先が宙で止まる。
ロザリンドは部屋の隅で、飾られたドールの列を背に、静かに二人を見ていた。その視線は冷たい。なのに、この部屋だけはどこまでも可愛い。その矛盾が、ルクレツィアの心臓を嫌な形で締めつける。
ロザリンドが、先に口を開く。
「そんなとこに立ってないで、座ったら?」
声は驚くほど平坦で、さっきまでの攻撃性の欠片すら感じさせない。続けて、少しだけ顎を上げる。
「山、登ってきたんでしょう。疲れてるんじゃないの」
気遣いにも聞こえる。けれど、優しさだと信じてしまうには、ルクレツィアの記憶が生々しすぎた。
花畑。蔦。花粉。呼吸を奪われ、皮膚の内側に“植え付けられる”感触まで想像してしまった、あの苛烈さ。それが脳裏に焼き付いたまま、まだ剥がれない。ルクレツィアはロザリンドから視線を外さない。外した瞬間に何かが起きる気がして、瞬きさえ惜しい。
それでも身体だけをずらす。イコが横たわるベッドから一番近い椅子へ。座面の柔らかい布が擦れ、小さく音が鳴った。腰を下ろしても、背筋は伸びたまま。いつでも立ち上がれるように。いつでもイコの方へ手が届くように。ルクレツィアは両手を膝に置き、指先の震えを押し殺した。
部屋の可愛らしさが、余計に怖い。この世界は柔らかいふりをして、いつでも牙を隠せる。そう教えてくる。
ロザリンドの視線は、ルクレツィアの警戒を最初から見透かしていた。背筋の硬さ。椅子の浅い座り方。イコから手が離れない距離。全部、分かっている。それでもロザリンドは気にしている様子がない。さも当然だろうと思いながら、軽く前髪をかき上げた。
「イライラした」
驚くほど軽い。
「衝動的に攻撃しただけ」
言い訳でもない。謝罪でもない。ただ、事実を並べるみたいに。ロザリンドは窓の外を見る。見ているのは空でも花でもなく、もっと遠い何かだ。
「この期に及んで、帝都の味方をして」
言葉の端に、古い棘が引っかかる。
「帝都の人間とつるんでる姿を見たら」
息を吐く。
「苛立ちを抑えきれなかったの」
淡々としている。軽い。軽いからこそ、重かった。
ルクレツィアは何も言わない。言えなかった。イコとロザリンドが、どのように帝都に関わっていたのか。ルクレツィアは知らない。そして、真っ当で健全な関わり方をしていたわけではないと、容易く想像できてしまう。花畑の外で見た苛烈さ。この可愛い部屋の異様さ。そのどちらも、同じ線で繋がっている気がした。
ルクレツィアは唇を開きかけて、閉じた。問いかける言葉が、まだ形にならない。ベッドの上のイコが、浅い呼吸を続けている。その音だけが、部屋の中で一番現実だった。ルクレツィアは、その呼吸の間に言葉を滑り込ませるみたいに口を開いた。
「帝都が……裏でどれだけ罪深き行いを重ねていようが」
言いかけて、喉が詰まる。自分の中の甘さではない匂いが、まだ鼻の奥に残っている。それでも続けた。
「民衆には罪はない」
硬い断言。
「虐げられて当然だとは、ボクは思えない」
それが、ルクレツィアの答えだった。けれどルクレツィアが言う“民衆”の中に、ルクレツィア自身は含まれていない。
貴き血を体内に流す者として。帝都に守られ、帝都に甘え、帝都でのうのうと暮らしてきた者として。看過できず、同時に逃げられもしない。自分もまた、帝都の罪深き者に含まれている。その自覚が、口の中を苦くした。
ロザリンドは何も言わない。けれど沈黙の形が、返答だった。ロザリンドはルクレツィアのその思いを。自分も罪の側に立っていると、ルクレツィアが分かっていることを。――最初から察している。その眼差しがそう言っている。部屋の可愛らしさが、また一段と重くなる。そしてベッドの上で、イコの胸が静かに上下した。
「あなた、帝都を救いたいのよね」
ロザリンドが言った。問いではない。確認。ルクレツィアは、唇を引き結んだまま頷く。喉の奥で息を殺し、頷く角度だけで答える。ロザリンドはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「そう」
そして、淡々と続ける。
「ならば、それ相応の覚悟がある、と」
ルクレツィアは今度は強く頷いた。
怖い。けれど、怖いからやめるとは言えない。ロザリンドはそれ以上、何も言わない。背を向けると、静かな足取りで寝室から出て行った。扉の向こうで床板が一度、きい、と鳴る。ルクレツィアの心臓が、遅れて早くなる。
――来る。ロザリンドがこれから自分に何を行おうとしているのか。きっと“試す”ための行いだ。そう確信してしまう。ルクレツィアは椅子の縁を掴む。指先に力が入り、爪が布に沈む。ベッドの上のイコは眠ったまま、浅い呼吸を続けている。
守らなければ。守れる力がないなら。せめて、隣に立てるようにならなければ。やがてロザリンドが戻ってきた。手の中に、三角に折られた紙。それを、ルクレツィアの目の前へ差し出す。
「あなたは無力よ」
その声は責めていない。ただ、事実を置く。
「イコの力になりたいのなら」
一拍。
「覚悟を見せて」
ルクレツィアの喉が鳴る。ロザリンドは続けた。
「イコの隣に立ち、魔人と敵対する素質」
言葉が冷たい。
「生まれ持った素質があるのなら、決して死なない」
そして、視線がほんの少しだけ鋭くなる。
「逆に言えば、その素質がないのなら」
息を吸う。
「死ぬべきでしょう」
ロザリンドは三角に折られた紙を開いた。中身は黒い粉だった。
「これは、とある魔物の死骸」
淡々と。
「乾燥させて、すり砕いたもの」
ルクレツィアは息を止めたまま、その黒さを見つめた。喉が、反射で拒む。けれど目は逸らせない。
「あなたも魔人になりなさい」
命令。
「イコの力になりたいのなら」
黒い粉が、紙の上で小さく揺れた。部屋の可愛らしさが、一瞬だけ遠のく。ベッドの上で、イコの呼吸だけが確かに鳴っていた。
「――覚悟を見せて」
ルクレツィアは唇を噛み、ロザリンドへ強い眼差しを向けた。
「……覚悟を見せます」
声は小さい。けれど逃げない。ルクレツィアはロザリンドから、黒い粉を乗せた包みを受け取った。紙越しに伝わるのは、軽さではない。冷たさと。乾いたざらつきと。すべてを飲み込むような漆黒。
掌の上で、三角の紙がわずかに震えた。それが恐怖なのか。決意なのか。ルクレツィア自身にも、まだ判別がつかなかった。




