2.
片田舎の町は、昼下がりの眠気を引きずっていた。石畳はところどころ土に戻り、家並みは低い。道の端には乾きかけた藁が転がり、風が運ぶのは家畜と薪の匂いだ。
町外れの酒場〈喉の止まり木〉は、扉を開け放っていた。陽の光が床板に長く差し込み、埃を金色に浮かせている。昼を過ぎたばかりの時間帯だ。客足はまばらで、奥の卓に農夫が二人、薄い麦酒を舐めるように飲んでいるだけだった。
カウンターの向こうでは、マスターが黙々とグラスを拭いている。年季の入った指。火傷の痕。顔は笑わない、目は客を見逃さない。
扉の蝶番が、きし、と鳴った。風がひとつ、店の中へ入り込む。陽の匂いと乾いた土埃を連れて。続いて、男が姿を現した。背丈は低くもなく高くもない。肩幅も目立たない。昼下がりの酒場に紛れてしまう程度の、ありふれた体格だった。旅装は簡素で、よく手入れされている。外套の端に薄い砂埃がついている程度で、道中の荒さを誇るような汚れはない。
男は一度だけ店内を見回した。客の少なさを確かめる視線ではない。癖で人の位置を数えるような、静かな目。カウンターへ向かい、椅子を引く音すら控えめに腰を下ろす。フードを外したとき、髪が光を拾う。その男は、冷淡な顔立ちをした青年だった。
黒髪――だが白髪が混じっている。若さに似つかわしくない灰が筋になっていて、遠目には灰色にも銀色にも見える。目つきだけが鋭いのではない。立ち姿そのものが、研がれた刃に似ていた。角度がなく、無駄がなく、触れれば切れると分からせる静けさ。鞘に収まったままの刀のように大人しく、なのに、周囲の空気だけを薄く張り詰めさせる。笑っても礼を言っても、その“刃”だけは引っ込まない。
「すみません。お食事、いただけますか」
声は柔らかい。丁寧ですらある。その丁寧さが、研ぎ澄ました気配をいっそう目立たせた。マスターはグラスを拭く手を止めずに答える。
「ある。今なら煮込みが残ってる。パンも」
「それをお願いします。あと、お水を」
「酒じゃなくて?」
青年は小さく首を振った。
「……今日は控えておきます」
マスターは、青年を一度だけ見た。旅人は珍しくない。ただ、腹を満たしに来ただけの若者も、珍しくはない。マスターが奥へ引っ込み、鍋をかき回す音が聞こえた。木の匙が底をさらい、煮込みがぷつり、と小さく泡を立てる。青年は、背筋を崩さずに待っていた。急ぐ様子も、焦れる様子もない。それが旅の習慣なのか、それとも、待つことに慣れすぎているのか。
水の入ったコップが先に置かれる。青年は小さく会釈し、指先で縁を押さえ、ひと口だけ喉を潤した。飲むというより、体に必要な分だけ補うような仕草。続いて、木皿に盛られた煮込みと黒パンが置かれる。湯気が立ち、油の匂いが鼻をくすぐった。
「……いただきます」
そのまま青年はスプーンを取り、煮込みをすくう。
一口。熱さを確かめることもなく、口に入れ、噛む。舌の上で塩気がほどけ、肉の繊維が崩れる。喉が動き、胃へ落ちる。
二口目。今度はパンを千切り、煮汁に浸してから口へ運ぶ。丁寧で、無駄がない。空腹を満たすための動作だけが並び、余計な感情が紛れ込まない。
――ただの食事。そう見えるのに、箸休めの沈黙がどこか鋭い。刃が、鞘の中で静かに呼吸しているような。青年は皿を見下ろしながら、目の奥だけを少し遠くへやった。ここにあるのは、町の台所の味だ。それでも、食べ方だけが妙に整っている。急がず、貪らず、味わいすぎもしない。スプーンを置くタイミングも、咀嚼の速度も、呼吸の深さも、揺れない。ただ静かに、食事を終わらせていく。
湯気の向こうで、マスターがそれを見ていた。年老いた目は鋭くはない。けれど、長く店を守ってきた分だけ、しつこい。旅人の腹は、皿が来れば勝手に騒ぐ。礼を言うなら、声が弾む。うまいなら、顔に出る。まずいなら、眉が動く。だがこの若者は、どれも出さない。刃物を磨く手つきみたいに、同じ角度で、同じ回数だけ口へ運ぶ。
――変だ。そう思っても、問いただすほどの理由はない。いや、問いただす理由なら、作れる。マスターはグラスを拭く手を止めず、わざと世間話みたいな声を出した。
「旅かい」
青年は咀嚼を終えてから、スプーンを皿の端に置いた。
「はい。少しだけ」
「この辺りは何もないぞ。畑と森と、あと……退屈だけだ」
「退屈は、嫌いじゃありません」
青年の言い方は穏やかだった。拒むでも、持ち上げるでもない。こちらの言葉を一度受け止めて、角のない形で返す。マスターは次の玉を探す。
「どこから来た」
「南の方です」
「南の“どこ”だ。帝都か、港か、山向こうか」
青年は少し笑った。目尻だけが、ほんのわずかに。
「長く歩いていると、地名がほどけます。道だけが残ります」
はぐらかした。そう分かる。だが、露骨に嘘をつく気配もない。マスターは腹の中で舌打ちした。年を取ると、問い方だけが上手くなる。答えを引きずり出すのではなく、答えない癖を確かめるために。
「若いのに、髪が白いな」
言いながら、マスターは青年の顔を見ない。見れば、視線が絡む。絡めば、互いに分かってしまう。青年はパンをちぎり、煮汁の底をさらうように浸した。指先の動きは変わらない。だが、返事までの間が、ほんの僅かに長い。
「……昔、ひどく痛い目に遭いまして」
笑みを作ろうとして、作りきれなかった声だった。穏やかな調子のまま、そこだけが削れている。
「今も、たまに」
マスターの手が、グラスの縁で止まる。一瞬だけ。
「治らねえのか」
「ええ。慣れました」
慣れる、という言葉が、妙に重かった。青年は視線を皿に落とし、何事もないように煮汁を口へ運ぶ。
「苦労してると白くなるって話もある」
マスターがわざと軽く言う。
「……苦労、ですか」
青年は短く息を吐いた。笑いではない。痛みを押し戻すための呼吸だ。
「そういうことにしておきます」
刺はない。だが、触れれば切れる場所が確かにある。マスターはそれを確かめて、これ以上は踏み込まなかった。マスターは、グラスを置いて、ぽつりと世間話を落とした。
「そういや、この頃は帝都が騒がしいらしいな」
語尾は軽い。噂話を肴にするような調子だ。
「騒がしいんですか」
青年は穏やかに返した。驚いた顔はしない。ただ、相槌が少しだけ静かになる。
「門のあたりで揉めたとか、兵が増えたとか。行商が足止め食ったって話も聞いた」
「へえ」
青年はそれだけ言って、煮込みをもう一口。湯気に紛れるように、表情を整える。
「まあ、田舎には関係ねえ話だがな。……妙に話が広がらねえのが、不気味ってだけで」
マスターは乾いた笑いを足す。
「誰も知らねえってのも変だろ。あの帝都でよ。兵が、口をつぐませて歩いてるって噂もある。余計なこと言うなってな」
「……そうですか」
青年の返事は穏やかだった。湯気の向こうで一度だけ瞼が落ちる。知っているからではない、と言い張るような間。
「まあ、噂なんて当てにならねえが」
「ええ。噂は、風みたいなものです」
青年の声は柔らかい。だが、言い方がどこか決まりすぎていた。聞いたことがある言葉を、確かめるように口にしている。マスターは肩をすくめた。追えば追うほど、この若者は奥へ引っ込む。それに――腹を満たしに来ただけの客を、追い詰めるのは筋が悪い。
「悪かった。食ってくれ」
「ありがとうございます。おいしいです」
その一言は、うまく作り物の温度をしていた。なのに、嘘だと言い切れない。マスターはまたグラスを拭き始めた。余計な言葉を飲み込んで。やがて皿が軽くなり、パン屑だけが残った。青年は最後に水を一口。口元を拭い、革袋から硬貨を出してカウンターに置く。
「ごちそうさまでした」
言って、深くはないが丁寧に頭を下げた。刃を思わせる佇まいのまま、所作だけがやけに柔らかい。マスターは「おう」と短く返し、受け取った硬貨を皿の上で転がした。
その音が落ち着く前に、若者はもう椅子を引いている。椅子の脚は床を鳴らさない。外套を肩に掛ける動きも、風を立てない。扉に手をかけ、最後に一度だけ振り返る。店内を見直すでもなく、誰かを探すでもない。ただ、出る前に礼を置くみたいに、目を伏せた。
「失礼します」
それから外へ出た。昼の光が背中を飲み込み、扉が静かに閉まる。マスターはグラスを拭く手を止めない。だが、目だけがしばらく扉を追っていた。――あんな若者、そうそういない。そう思いながら、何も言わずに布を動かした。
煮込みの鍋の湯気が少しだけ細くなり、奥の卓の農夫が杯を置く音が一度鳴った。そのとき、通りの向こうから足音がまとまって近づいてきた。土を踏む音ではない。革靴が石を叩く、硬い音。扉が開く。今度は蝶番が、先ほどより大きく鳴った。
入ってきたのは、帝都の色をまとった大柄な男たちだった。数人。薄い鎧の上に外套を羽織り、腰には短い剣。旅人のような埃ではなく、行軍の乾いた匂いがついている。店の空気が、別の意味で固まる。奥の農夫が、反射で背を正した。先頭の伝令が、帽子を取り、軽く会釈した。
「酒場の主はいるか」
マスターは布を手にしたまま頷く。
「俺だ」
伝令は巻いた革袋をカウンターに置いた。中から、束になった紙片が出てくる。手配書。紙は新しい。だが角が少し折れている。帝都から遠い場所まで運ばれてきた、遅れの痕だ。
「帝都より通達だ。見かけたら――いや、見かけたと思っただけでも、役所へ知らせろ」
言い方は事務的で、感情がない。マスターは紙を受け取り、目を落とす。似顔。文言。印章。どれも、ここでは不釣り合いなほど整っている。そして――似顔が、やけに見覚えのある線をしていた。
背丈は並。旅装。黒髪に、白の筋。遠目には灰色にも銀色にも見える、と注釈まである。絵は粗い。それでも特徴だけは外さない。人相の欄には、淡々と書かれていた。
マスターの喉が、ひとつ鳴った。さっきまで、このカウンターにいた。煮込みを食って、水を飲んで、丁寧に頭を下げて出ていった。――遅い。紙の角の折れ目が、そのまま時間のずれに見えた。
そして気づく。革袋から出てきた手配書は一枚じゃない。数枚ほどの束だ。上に乗った紙が、たまたま“今の”若者だっただけで。その下にも、別の顔、別の特徴、別の文言が続いている。
一枚、覗く。幼い。顔立ちは整っていて、誰が見ても美少女と呼ぶだろう。だが、目だけが違う。獣の眼だ。覗き込んだ相手の息づかいまで数えるような、濡れた暗さ。その下の紙には、短い走り書きがある。『幼い女。外見に惑うな。』粗い線と短い文。だが、どれも同じ印章が押されている。帝都が探しているのは一人ではない。
「何の……騒ぎで」
伝令は答えない。答えないまま、次の束を奥の卓へ放る。
「必要なことは紙にある」
それだけ。マスターは紙を置き、顔を上げた。さっきまでここにいた若者の髪。灰色にも銀色にも見えた筋。丁寧な声。刃みたいな静けさ。脳裏で、全部が一度に並ぶ。だが、口は動かない。
「……分かった」
伝令は頷き、もう一度だけ帽子を持ち上げる。
「すぐ回る。次の店へ」
男たちは踵を返し、また硬い足音を外へ連れていった。扉が閉まっても、店の中の空気は元に戻らない。マスターは手配書を見つめたまま、布を握り直した。役所へ走ればいい。「さっきの若者がいた」と言えばいい。だが――遅い。
この町の役所は小さい。兵は少ない。追いつける距離でもない。追いついたとして、何ができる。マスターは手配書を裏返し、束ごと棚の下へ滑らせた。見なかった。聞かなかった。気づかなかった。そういう顔を作れるのが、田舎の大人の処世だ。奥の農夫が不安そうにこちらを見る。そのうちの一人が、腰を浮かせるようにして近づき、声を落とした。
「……役所に言わなくていいのか」
マスターは布を動かしたまま、農夫を見ない。返事もしない。代わりに、カウンターの下へ滑らせた束を、もう一度だけ奥へ押し込む。その動きが答えだった。農夫は口をつぐみ、元の席へ戻る。マスターは肩をすくめるだけで、何も言わなかった。帝都の騒ぎは、噂より遅く、紙より先に、人を運ぶ。




