19.
数秒。それしか経っていない。イコとロザリンドが言葉を交わし、空気がわずかに震えた、その短い時間の中だけで。ルクレツィアの目の前から、イコの“立っている”という事実が奪われた。
突如として、イコが膝から崩れ落ちる。花粉の甘さが呼吸を塞いでも、蔦が身体を固定しても、皮膚の内側で種が暴れても、イコは平然としていた。無表情で耐え、痛みの形さえ外へ漏らさなかった。それなのに。血の味を帯びた小さな吐息を一度だけ吐いて、イコは崩れた。
膝が折れ、腰が落ち、最後に上半身が重力へ預けられる。花畑のどこかで蔦がきしみ、花弁が擦れる音が、遅れて耳に届いた。花畑が静かに蠢く。ロザリンドは動かない。瞳だけが、倒れていく男を追い、苛立ちも悲しみも、もう顔に出すまいとしているように見えた。
花畑の外。ルクレツィアは、その瞬間を見逃さなかった。胸の奥が凍り、胃の底が引き上がる。――だめ。頭のどこかが叫ぶ。自分は無力で、ロザリンドの異能に立ち向かう力などない。この甘い匂いを吸い込めば肺は塞がれる。踏み込めば花が怒り、根が絡み、蔦が縛り、同じ末路が待っている。
分かっている。分かっているのに。イコが崩れ落ちた瞬間、足が勝手に動いた。理屈は身体を止められない。怖さも無力も、今はただの遅れだった。ルクレツィアは息を止めて、花畑へ踏み出した。足裏の下で花が折れ、起き上がろうとする茎が踝に触れ、地面の下で根が蠢く気配が伝わってくる。甘い匂いが濃くなり、喉の奥が反射で開きかける。
吸ってはいけない。そう思うほど、呼吸が欲しくなる。それでも前へ。イコに向かって。声は出ない。叫べない。ただ喉の奥で名前を砕き、目だけで走った。胸が焼け、鼓動が暴れ、視界の端が白く揺れる。それでも。
イコが地面に近い。その無表情が、今にも花に飲まれそうだ。ルクレツィアは怖さより先に、ただ一つの願いだけを握った。――死なないで。その願いが胸の中で鳴った瞬間。イコに巻き付いていた蔦が、ふっと力を失った。蛇が死ぬように。糸が切れるように。締めつけていた輪がほどけていき、意思を失った蔦はイコの身体から外れて、花の海へ沈んだ。
ルクレツィアは倒れかけたイコに駆け寄り、身体ごと受け止めた。重く、冷たい。外套越しに感じる体温が、いまは怖いほど弱い。骨の輪郭が近く、呼吸のたびに胸がわずかに持ち上がるのが分かる。近くで見るイコの姿は、遠目で見た時よりいっそう痛々しかった。
閉じかけた目の粘膜を、白い花粉が薄く覆っている。睫毛の先にも粉が溜まり、瞬きをするたびにまぶたが擦れて小さく震えた。イコが呼吸をしようとすると、掠れた吐息が漏れる。その吐息に押し出されるように、わずかな花粉が舞い、甘い匂いが顔のすぐ横で弾けた。ルクレツィアは反射で息を止め直し、イコの首筋へ腕を回す。
イコの名前を呼ぶ言葉は喉の奥だけで形になり、声にはならない。それでも支える。倒れないように。ロザリンドは二人のその姿を、無表情で見ていた。怒りも嘲りもない。
そしてイコの身体から、花粉が散るように消えはじめた。白い粉が風に溶ける。頬から。まつ毛から。唇の端から。同時に、植え付けられていたはずの種が――皮膚の下で作りかけていた緑が、急に色を失った。芽吹いたものが枯れ、内側で伸びかけた根が引き返すみたいに縮む。さっきまでの“生まれる音”とは逆の音がした。死ぬ音だ。花畑の甘く、毒々しい匂いが引いた。
ルクレツィアはイコを抱えたまま、息が戻るのを待った。その姿を見て、ロザリンドが不意にルクレツィアへ問う。
「あなたには、この男がどう見えてるのかしらね」
意図が分からず、ルクレツィアは戸惑った。問われているのは強さか。怪物性か。それとも――。
ロザリンドは一拍置いてから、まるで答えを持っている者のように口を開いた。
「……見てのとおりよ」
乾いた声。けれど視線は逸らさない。
「この男は、完全無欠なんかじゃない」
その言い方には、突き放しと、どこかの諦めが混じっていた。ルクレツィアは意識のないイコを支えながら、喉の奥に残る甘さを噛み殺す。
「ボクは最初から、イコさんが完全無欠だなんて思っていない」
ロザリンドはそれを聞いても何も言わず、沈黙が場を満たした。冷たい風が一本通り、花々が揺れる。やがてロザリンドは口を開いた。
「イコは魔人の中で最も強い」
乾いた断言。
「この男の横に並べる魔人は存在しない」
ルクレツィアの胸の奥が、嫌な形に冷える。褒め言葉ではない。次に来る言葉が刃になる。
「ただね――この男は馬鹿だから、削りすぎた。文字通りね」
ロザリンドは続けた。ルクレツィアは思い返す。ルーファスとの戦い。異能を使用したイコが、鼻と口から血を流し続けたこと。あれは代償。そう理解していた。
「……竜の力の代償ってことですか」
ロザリンドは首を振る。
「違う。竜の力は関係ない」
声がさらに低くなる。
「イコの外見からじゃ分からない」
言い切って、ロザリンドはイコとルクレツィアを交互に見やった。
「イコの中身はズタズタ」
淡々と告げる。
「内臓の一部も、骨の一部も“置き換え”られている」
ルクレツィアの背筋を、冷たいものが走った。腕の中の重さが、急に別の意味を持つ。理解できない。
“置き換え”。内臓。骨。言葉としては分かる。でも、その中身がはっきりとは掴めない。掴めないのに、イコの身には恐ろしいことが起こっている。起こっていた。それだけは、身体の奥が先に理解してしまった。ルクレツィアの腕の中で、イコは軽く息を漏らす。その吐息が、怖いほど薄い。
「イコは帝都の検体なの」
ロザリンドは、悲しそうな表情で呟いた。言い切った直後、ほんの少しだけ口元が歪む。
「……いや。帝都がああなってしまった以上、過去形ね」
検体だった。その過去形が、花畑の匂いより重かった。
ルクレツィアは膝をつき、意識のないイコを抱き締めるように支え直す。あんなにも頼もしかったイコが、今は弱々しく見えた。倒れないでいたのは強さではなく、ただ耐えることに慣れていただけなのかもしれない。胸の奥が震える。指先が震える。
ロザリンドが、花の匂いの奥で小さく呟いた。
「……本当に馬鹿な男」
吐き捨てるようでいて、吐き捨てきれない声だった。
ルクレツィアはその言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。そして次の言葉だけは、ルクレツィア自身のものとして、はっきり形になった。
「イコさんを殺さないで」
ロザリンドは、すぐには答えなかった。花畑が静かに蠢き、折れた茎がわずかに揺れる。やがて、ロザリンドは低い声で言った。
「……イコを殺すつもりなんてない。最初から」
ルクレツィアの喉の奥が、ひくりと鳴った。信じたい。けれど信じるのが怖い。腕の中のイコは、まだ目を開けない。
「一番、帝都に苦しめられたくせに……帝都を救おうと動くなんてね」
ロザリンドが、消え入りそうな声で言った。ルクレツィアは、その小さな声を聞き逃さなかった。胸の奥が痛む。帝都を故郷として。帝都で生まれて。帝都で暮らしてきた。
ルクレツィアは、何も知らずにのうのうと日常を過ごしていた。何も知らずに、家族と食卓を囲み、暖かい湯船に浸かり、柔らかいベッドで眠っていた。そのとき、イコは何をしていたのだろう。同じ帝都の空の下で。何を見て、何を耐えて、どんな名前で呼ばれていたのだろう。意識のないイコの肩を抱き寄せ、自分の無知を噛みしめる。痛みは今さら胸を満たす。それでも――今ここにいるイコだけは、離したくなかった。
ロザリンドが、ルクレツィアへ指示を出す。
「その男を、私の家まで運んで」
命令だった。けれど刃ではない。柔らかい言い方。
「すぐそこだから。あなたの小さな身体でも運べるでしょう」
それだけ言うと、ロザリンドは二人から視線を外し、背を向けて自分のログハウスへ足を進めた。花を踏まない。踏まずに進む。花畑がまた、ロザリンドのためだけに道を割った。
ルクレツィアは膝をついたまま、腕の中の重さを抱え直す。重い。けれど離せない。ルクレツィアの細い腕の中で、イコは静かに呼吸をしていた。ルクレツィアは息を呑み、肩に力を込める。運ぶ、運ばなければ。ログハウスの扉の向こうで、何が待っていても。
その時。花畑が迎え入れるかのように動いた。折れた花が身を起こし、茎が揃って頭を垂れる。根が地面の下で静かに引き、踏みしめるはずだった場所から退く。そして、ルクレツィアとイコのために。通り道だけが、すっと開く。花が左右へ割れた。ロザリンドの家へ続く一本の道が、最初からそこにあったみたいに現れる。ルクレツィアはイコを抱え直し、震える足に命令して、その道へ踏み出した。




