15.
日が沈む。冠骸の山猫が影へ溶けたあとも、空気の鉄の味だけが残る。夕光は山の端へ吸い込まれ、木々の間に紺色が落ちていく。暗くなるのが、早い。山の夜は、町の夜とは違う。道が消える。音が近くなる。足元が“穴”になる。
ルクレツィアは、外套の内側で冷えた指を握り直した。震えが残っている。恐怖の震えなのか、疲れの震えなのか、自分でも分からない。イコは歩き続けた。戦いの直後だというのに、歩幅も呼吸も落ち着いたままだ。その背中を追っていると、さっき見た異能の片鱗が、嘘だったみたいに思えてくる。けれど、嘘ではない。影へ溶けた山猫の気配が、それを証明している。
「……夜の山は危険です」
イコが言った。丁寧で、いつも通り。
「今夜は、進みません」
ルクレツィアは頷いた。頷いた瞬間、喉の奥が乾いた音を立てる。二人は風を避けられる場所を探した。斜面を少し下り、岩の重なりが深くなる辺り。木の根が露出した暗がりの奥。
そこに、小さな洞穴があった。人が二人、身を寄せれば入れる程度。奥は浅い。けれど入口が狭く、風が正面から吹き込まない。洞穴の中は、土と石の匂いがした。湿り、冷たさが充満する。それでも外よりは静かで、風が弱い。
イコは荷を下ろし、手早く周囲を確かめた。足跡。糞。獣の毛。そういうものを見て、ここが「今夜だけなら」安全だと判断する。
ルクレツィアは、外套の裾を整えながら息を吐いた。吐いた息が白い。もう春ではない。山の夜は容赦がない。火が必要だ。けれど火は目立つ。匂いも出る。光も出る。迷いを切り捨てるみたいに、イコは道具袋を開いた。
火種石と小さな金具、そして乾いた麻の繊維。今夜は異能を使わなかった。二つの石を打つ。乾いた音が洞穴に響き、火花が跳ねる。火花は小さくて、すぐ消える。けれど麻がそれを受け止めた。息を落とす。ふっと、赤い点が生まれる。赤はゆっくり広がり、やがて薄い炎になった。
枝が鳴る。煙が細く昇る。焚火の匂いが、洞穴の冷たさを押し返した。光が壁の凹凸を照らし、影が揺れる。ルクレツィアは、その火を見つめていた。火は小さい。けれど、今日一日の終わりを知らせるには十分だった。
「理解してたことだけどさ……すごかった」
気づけば、声が漏れていた。イコは顔を上げる。焚火の明かりが、白い混じりの髪に当たって淡く光った。
「自分ですか」
「うん」
ルクレツィアは言葉を探す。探しているうちに、胸の中の感嘆がそのまま形になった。
「やっぱりすごく強い。あんな大きな魔物が二体で来ても、全然……」
全然、という言葉の先が続かない。言葉にできない。涼しい顔で捌き続けた。それを、ただ見ていた。イコは焚火に枝を足しながら、淡々と答えた。
「運が良かっただけです」
運。その言葉が、焚火の火と同じくらい小さく聞こえる。ルクレツィアは眉を寄せた。
「それは……違うよ」
イコはルクレツィアの言葉を否定しない、ただ受け止める。火を見たまま、乾いた枝の端を指で折る。折れた繊維がぱち、と鳴って炎に飲まれた。
「自分で努力して得た能力ではありません」
声は静かで、責める色がない。事実を並べているだけなのに、どこか自分の胸に刃を当てているように聞こえた。
「魔物の死肉を食べて……たまたま死なずに、たまたま適合しただけです」
たまたま。適合。その語は軽いのに、背負っているものは重い。
「運よく授かっただけです。自分は……何もしていません」
焚火が揺れ、洞穴の壁に影が大きく伸びた。その影の中で、イコの横顔だけが遠い。洞穴の壁ではない。もっと遠いどこか。
「凡人です。怠け者の類です」
言い切ると、逆に声がさらに小さくなる。まるで、自分のことを言葉にしてしまえば、すべて片づくとでも思うみたいに。ルクレツィアは胸の奥が痛くなった。
「そんなふうに言わないで」
熱が、喉の奥に溜まる。否定したいのに、どんな言葉も軽く見える。イコはそこでようやく顔を上げた。焚火の明かりが、白い混じりの髪に当たって淡く光る。そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……ありがとうございます」
それから、ゆっくりと言葉を返す。
「ですが、本当にそう思っています」
焚火が爆ぜ、赤い火の粉が一つだけ宙に浮いた。その火の粉を、イコは目で追わない。追えないのではなく、追う必要がないみたいに。視線だけが、焚火の向こう――洞穴の暗がりよりさらに奥へ向いている。
遠い。そこには今の山も、今の夜もない。ただ、誰かの声の残骸と、金属の匂いと、噛みしめたまま飲み込めなかった言葉があるように見える。微笑みは消えていない。けれどそれは、温かいものではなかった。痛みを隠すために形を整えた、薄い皮のような笑みだ。ルクレツィアは、胸の奥で小さく息を詰めた。触れてはいけない場所に、触れてしまった気がする。
「だからこそ」
イコの視線が、ルクレツィアへ戻る。
「ルクレツィア様の剣の腕の方が、よほど素晴らしいものです」
褒め言葉なのに、逃げ道のない言い方だった。努力で積み上げたものにだけ、重さがあると言っているみたいに。ルクレツィアは瞬きをした。褒められたことに驚いたのではない。剣という言葉が、こんな場面で出ることに、少しだけ息が止まった。自分の剣。家。学び。そこへ触れられると、心の中の古い箱が、勝手に軋む。
「……ありがとう」
短く答えてから、ルクレツィアは火を見た。焚火の中で木が崩れ、赤い芯が一度だけ露になる。その赤を見ていると、胸の奥の箱が少しだけ開きそうになった。イコは火の向こうで、相変わらず静かだ。丁寧で、優しくて、時々ひどく遠い。
褒められたはずなのに、嬉しさより先に不安が来る。この人は、自分のことをどこまで「自分の言葉」で話してくれるのだろう。この人のことをどこまで知っているのだろう。ルクレツィアは焚火を見つめたまま、口を開きかける。
――さっき、イコが言った。魔物の死肉を食べて、適合した。何を食べたのか。どんな匂いで、どんな味で、どんな痛みだったのか。それを聞けば、この人の遠さに少し触れられる気がした。けれど、その問いは喉の奥で止まった。踏み込めば、傷口を指でなぞることになる。今の自分には、まだ勇気がない。だから代わりに、今ここにある事実だけを言葉にする。
「でも、ボクたち」
ルクレツィアは言葉を探して、ゆっくり続けた。
「火を挟んでこうして座ってても」
息を吸う。吐く。
「お互いのこと、あまりよく知らないよね」
焚火がぱちりと鳴った。その音が、返事の代わりみたいに響く。イコは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
否定はしない。拒みもしない。ルクレツィアは、手袋を外し、掌を火にかざす。指先がじわりと戻ってくる。
「ボク、家のことを話すのは好きじゃないんだけど」
言ってしまった。言葉にした瞬間、逃げ道が塞がる。
「でも、これからずっと一緒に旅を続けるのなら」
「知らないままより、少し知ってた方がいい」
イコは黙って聞いている。焚火の光の中で、表情が読みにくい。けれど視線は逸らさない。ルクレツィアは息を吸い、吐いた。
「ボク、剣は……家で叩き込まれたの」
それだけを、まず言った。けれど言った瞬間、焚火の熱とは別の熱が胸の奥に残る。ルクレツィアは、指先を膝の上で組み直した。
「両親がね、帝都国防軍にいた」
言葉は簡単なのに、口の中で硬い。語尾が落ちた瞬間、焚火の音だけが大きくなる。
「二人とも……優秀な剣士だった」
焚火がぱちりと鳴り、赤い光が一瞬だけ顔を照らした。
「だから、ボクが剣を持つのも……自然だったんだと思う」
自然。そう言ってしまえば楽だ。けれど、自然の中には命令も期待も混じっている。
「家で教わって」
「それだけじゃ足りないって言われて」
言われて、終わった。続きの言葉を探すと、喉の奥に硬いものが当たる。処刑台の木の匂いを、見たこともないのに知っている気がした。ルクレツィアは息を吸い、吐いた。
「両親の伝手で、剣術院に入れてもらった。名前のある先生のところで」
伝手。それも今は、灰の中の糸だ。誇りだ。そう言うこともできる。けれど、誇りだけではない。
「……ボクは、才能があるわけじゃない」
言い方が、イコの『運が良かっただけ』に似てしまって、ルクレツィアは小さく眉を寄せた。
「ただ、やるしかなかった。剣を握るのが、当たり前になった」
焚火の向こうで、イコが黙って聞いている。その沈黙が、話を続けさせた。
「ヴァルクレールって名もね」
ルクレツィアは、火の粉の上がるのを見ながら言った。
「名家だって言われる」
“言われる”。自分の口で言うには、まだ居心地が悪い。
「今から遠い昔、同じヴァルクレールの先祖が……帝都を襲った白竜を討伐したって」
白竜。ドラゴンという種の一体。この世界で、その種は魔物でありながら魔物という言葉の外にある。すべての魔物の最上位。
最強と語られる存在。だが誰も、はっきりとは語れない。見た、と言う者ほど曖昧になる。残るのは痕だけだ。山の尾根に走る、一本の焦げ。石が硝子みたいに溶けて固まった筋。雨のない夜に空だけが裂け、朝になっても雲の焼け跡が消えない日。そして、なぜか獣も魔物も近寄らなくなる“通り道”。
昔の人々は、それらを閃光の名で呼び、雷の名で恐れた。神鳴りの正体が白竜なのだと、半ば思い込んでいた。姿を見せない。けれど、いる。そう信じさせるだけの圧倒が、痕の一つ一つに残る。魔物であるのに、神に近しいものとして語られる理由だ。
――白竜は天空を支配する。軽く吠えれば雷が落ち、通り道には嵐が起こる。人はもちろん、魔物でさえ、その影の下で声を失う。そんなものを、討ち落とした。焚火の光が揺れ、洞穴の壁の影が巨大な翼みたいに伸び縮みした。
「それが、貴き血だって言われるようになったきっかけ」
貴き血。それを誇りにできる人もいる。けれどルクレツィアにとっては、肩に乗る重さの方が先に来る。
「だからボクは、剣が上手くなきゃいけない」
口にしてから、ルクレツィアは少しだけ唇を噛んだ。
「……そういう家なんだ」
イコの指が、火種石の角を撫でる。
「奇遇ですね」
イコが小さく言った。その声は、焚火の音に溶けそうなくらい静かだった。ルクレツィアが語った白竜の名が、まだ焚火の上に浮かんでいる。神鳴りの正体だと恐れられ、痕だけを残して消える最強の魔物。イコは火を見たまま続けた。
「自分が食べたのも――白竜です」
言葉が、ゆっくり落ちる。
「白竜の死肉を口にして、たまたま生き残って」
「たまたま適合した」
さっき自分で吐いた言葉を、もう一度なぞるみたいに。焚火が小さく鳴った。火の粉が一つ飛び、すぐ消える。
「だから、自分は」
イコはようやく顔を上げた。焚火の明かりが瞳の奥を照らしても、そこに揺れはない。遠くを見ていた視線が、今はここに刺さっている。ルクレツィアの背中を、遅れて寒気が撫でた。今日、冠骸の山猫が止まった時。空気が裂けたような、音になる手前の“ぱちり”。毛羽立った外套と、鳴った金具。あれは見せつけだった。攻撃ではない。格の違いを知らせるための、静かな宣言。
白竜の痕跡を語った直後だからこそ、その意味が繋がってしまう。雷も嵐も、神鳴りも。伝承の外側にあるはずのものが、目の前の人間の中に収まっている。焚火がぱちりと鳴った。さっきとは違う。木が爆ぜただけの音だ。それでもルクレツィアは、身体の奥で同じ感触を思い出す。イコの声は小さい。丁寧で、静かで、逃げ道がない。
「ドラゴンの――白竜の魔人です」




