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13.


 朝は、まだ朝になりきっていなかった。セント巡礼口の屋根の上には夜の色が薄く残り、空の端だけが白み始めている。息が白く、指先の感覚が少し鈍い。星は消えきらず、雲の縁が灰色にほどけていく。


 町は静かだ。鐘は鳴らない。酒場も露店も眠っている。昨日あれほど人の匂いを吐き出していた通りが、今は息を潜めた獣みたいに横たわっていた。


 〈唄う子馬亭〉の戸を出ると、木の扉が小さく鳴った。その音が、やけに響く。人の声が引いた町は、昨日とは別の顔をしていた。二人は言葉少なに、門のない町外れへ向かった。濡れた石畳が足音を吸い、外套の裾がときどき擦れて小さな音を立てる。


 荷は昨夜まとめた。縄も鋲も手袋も滑り止めも、影袋の口も。触れればすぐ手が迷う。だからこそ、迷わない順番で身にまとっていく。イコは帯を締め、刃物の位置を確かめ、指先で留め具を一つずつ押し直した。慣れた動きだ。山を知っている者の手つきで、余計な力が入らない。最後に外套を羽織り、フードを深くかぶる。白い混じりの髪が影に沈み、横顔の線だけが冷えた輪郭として残った。


 ルクレツィアも同じように装備を身に寄せ、外套の前を留める。革と金具の重みが胸の前で一つにまとまり、呼吸のたびに確かな存在感を返してくる。昨日の朝の柔らかい服の感触は、もう思い出の中へ押し込められていた。代わりに残るのは、旅の形だ。フードと外套が風を受けて、ひらりと鳴る。町を出る風は冷たい。頬を刺すのに、頭は冴えた。息を吸うと、炭の匂いと濡れた土の匂いが混じって胸に入る。


(大丈夫)

 昨日、入念に準備をした。影袋も、星綱も、鋲も、火種石も。それらを選び、条件を聞き、手の中で確かめた。その事実が、ルクレツィアの不安と緊張を少しずつ削っていく。削れた分だけ、代わりに別のものが露になる。


 ――明日は、じゃない。今日だ。峰に住まう魔人に会いに行く。ロザリンドに。その名前を胸の中で言うだけで、冷たい塊がまた落ちてくる。落ちた塊は、やがて身体の動きを鈍らせるものではなく、足元を確かめる重さに変わっていく。


 外套の下には道具がある。隣にはイコがいる。それが、今この瞬間の支えだった。


 二人は巡礼の山へ入った。空の白みはいつのまにか広がり、木々の影がはっきり輪郭を持ち始めていた。朝が来る。光が増えるほど、山の奥行きも増して見える。山へ入る“入口”には、かつての巡礼の名残が残っていた。


 道の脇に小さな祠があり、石を積んだだけの台座の上に、風雨で角の欠けた像が座っている。誰の神なのか、もう分からない。けれど両手を胸の前で組む仕草だけは、祈りの形として残っていた。像の首には、色の抜けた布が何重にも結ばれている。古い巡礼札。乾いた花。小さな骨の飾り。願いの数だけ結ばれ、忘れられた数だけほどけずに残っている。


 祠の前の石には、膝をついた跡が浅く磨かれていた。昔はここで、誰もが一度足を止めていたのだろう。山に入ることが、ただの登りではなく、聖地へ向かう行為だった頃に。いま祈る者はいない。祠は古び、蝋の跡は黒く固まり、香の匂いは消えている。それでも、祈りの“場所”だけが、取り残されたまま残っている。


 ルクレツィアは一瞬だけ視線を落とし、次に顔を上げた。祈りはしない。けれど、踏み出す足だけは少しだけ静かになった。本来なら、旅人や行商人が使う、普通の通り道がある。多少は整備され、石が踏み固められ、案内の杭が立つ道だ。巡礼が消えた今でも、その道だけは残っている。山は人に優しくないが、人が通った痕はすぐには消えない。けれど、今回はそれを使わない。


 イコがわずかに進路を変え、木々の濃い方へ入った。枝の影が濃くなり、空が細く切り取られていく。ルクレツィアも続く。踏み固められた土が途切れ、落ち葉が深くなる。葉の下の湿りが靴底にまとわりつき、足を上げるたびに小さく引きちぎれる。枝が袖に触れ、露が外套の裾を濡らした。冷たさが布を通って膝のあたりまで染みる。


「……この先は、本来の通り道ではありません」

 イコが小さく言う。丁寧語はいつも通りだ。だからこそ、その言葉の内容だけが鋭い。


「分かった、イコさん」

 ルクレツィアは頷いた。分かっていても喉が少し乾き、舌の根が硬くなる。目的は峰。一直線にロザリンドのもとへ向かう。遠回りをして人目を避けるのではない、危険の密度へ踏み込むのだ。獣道は、獣のための道だ。人が通らない。だから、魔物が通る。


 踏み跡は細い。ときどき草が寝ているだけで終わり、次の踏み跡が急に途切れる。それでもイコは迷わない。木の傾き。苔の湿り。空の切れ方。土の匂い。そういうものを見て、見えない線を繋ぎ直すように進んだ。


 道はやがて、ただの獣道では済まなくなる。斜面が立ち、地面の柔らかさが消え、石が露骨に牙をむく。落ち葉の下の土は薄く、踏むたびに小石が転げ、足場がずれる。


「ここからは……登ります」

 イコが短く告げた。視線の先は、木々の根が絡んだ急な斜面だ。二人は外套の下から、昨日の道具を取り出した。


 星綱は細いのに、指に巻きつく感触がやわらかく、引けば引くほど締まっていく。鋲は掌の熱を吸うみたいに温かく、石に当てると妙に静かに馴染んだ。イコは岩の割れ目を探し、鋲を優しく置く。無理に叩かない。押し込む力と角度を合わせると、金属が石に噛み、微かな震えだけで留まった。


 ルクレツィアは手袋越しに綱を握り、身体を引き上げる。掌の刻みが滑りを止め、腕の力を裏切らない。踵に結んだ滑り止めの繊維が、湿った石と土の粒を拾って踏みしめるたびに音を変えた。息が白い。胸が熱い。それでも、一歩ずつ高度が上がっていくのが分かる。


 登りきる頃には、陽はもう頭の上に近かった。正午に差し掛かっている。光は強くなったのに、木陰の冷えは残り、汗が乾くたびに背中が薄く寒い。振り返ると、セント巡礼口の屋根がもう木々の隙間に沈みかけていた。下りる道は見えない。上へしか行けない。ルクレツィアは喉の奥で唾を飲み込んだ。


 さっきまで削れていた不安が、別の形で戻ってくる。けれど、手の中には綱があり、足元には鋲がある。準備が、いま初めて“役に立っている”。けれど、役に立つものが増えるほど、山の気配は逆に濃くなる。道具で登れたぶんだけ、引き返せない場所へ来てしまった、と身体が先に理解する。


 ルクレツィアは、背中に視線が刺さる感覚を振り払えなかった。振り向いても何もいない。それでも、木と石の隙間のどこかに“目”がある気がする。鳥が鳴かないのは、今だけたまたまではない。鳴けないのだ、と心が決めつけてしまう。


 隣を行くイコは、そんなものは感じていないように見えた。足取りは変わらず、呼吸も乱れず、斜面の先を淡々と確かめていく。その落ち着きが頼もしいのに、同時に怖い。自分だけが怯えているみたいで、喉の奥が熱くなる。ルクレツィアはその背中を追いながら、自分の呼吸がいつのまにか浅くなっているのに気づく。息が浅いと、音が小さくなる。音が小さいと、余計に周囲の静けさが際立つ。


 ――静かだ。鳥の声が遠い。虫の音も薄い。風だけが葉の隙間を擦っている。その擦れる音が、誰かの呼吸に聞こえる瞬間がある。山の静けさは、安心の静けさではない。何かが息を潜めている静けさだ。ルクレツィアは指先に力を入れた。外套の下で短剣の柄が確かに触れる。手袋の掌が滑らず、握る力がそのまま形になる。


(準備してきた)

 それを思い出すたびに、恐怖は少しずつ形を変える。ただの震えではなく、動ける緊張に変わっていく。それからも歩き続けた。木々の切れ間から覗く空が、少しずつ色を変えていく。青が薄くなり、白が増え、やがて黄が混じる。足元の影は短くなり、また長くなる。時間が流れているのが、影の伸び縮みで分かる。西の光が黄色くなり始め、葉の縁が一枚ずつ金色に焼けた。夕日に差し掛かる。斜面の上の風は、昼とは違う匂いを運ぶ。


 乾いた草。冷え始めた石。そして、どこか獣の体温を思わせる湿り。巡礼の山が、巡礼の山と呼ばれるようになったきっかけがある。はるか昔、この山には神聖なる獣がいると言われた。峰のさらに奥、禁足とされた高み。そこに棲む獣は神獣として崇められ、人々に畏れられた。


 巡礼とは、神に近づくための道ではなく、神獣に許される距離を確かめるための道だったのかもしれない。だから人々は祠を建て、札を結び、膝をつき、ここから先は踏み越えない、と自分に言い聞かせてきた。けれど今や巡礼路は役目を終え、旅人や行商人のための、ただの通り道と化した。祈りは薄れ、畏れは形だけ残り、山は再び人の手から離れた。


 通り道と化した場所の深く高く。禁足とされた地にいる神獣は、もはや神の使いとしての意味を持たない。残るのは牙と爪と、飢えと。――凶暴な魔物でしかないのだ。


 その頃から、気配が変わる。匂いが変わる。獣の匂いが濃くなる、という単純な話ではない。鼻の奥に残る鉄の味が増え、乾いた臭いの下から、湿った体温がじわりと滲んでくる。息を吸うだけで、肺が少しだけ痛い。肌から感じる空気がひりついている。昔の巡礼者なら、それを“神聖さ”だと形容したのだろう。近づくほどに身が引き締まり、言葉が減り、ただ歩幅と呼吸だけが整っていく。匂いが濃くなる前に、まず沈黙が深くなる。


 イコが立ち止まった。足元には、折れた枝。樹皮の削れ。地面に残る、重い爪の跡。踏み潰された草はまだ起き上がりきっていない。土の湿りが、形の縁に残っている。新しい。イコはしゃがみ、指先で土を少しだけ触れた。触れた指を嗅ぐように息を落とし、すぐに立ち上がる。


「……近い」

 声が低く、そして体温がない。山と同じ温度になる声だ。ルクレツィアは頷く。胸の奥で鼓動が一段大きくなる。耳の奥が熱いのに、背中は冷える。


 巡礼の山に巣くう、強力な魔物。――冠骸の山猫。


 それはロザリンドではない。ロザリンドへ行くための、門番のようなものだ。名を知っているだけで、形が立ち上がる。冠骸の山猫は隠れない、外敵に怯えない。隠れる必要がない。近づく側の呼吸と心臓が先に乱れ、視線が勝手に一点へ寄っていく。匂いがひりつき、空気が張る。昔の巡礼者なら、それを“神聖さ”と呼んだ。


 祈れば許される、と錯覚する。だが実際は、逆だ。許されないから、こうして禁足にした。神獣として崇められていた頃の名残だけが、空気の張り方に残っている。中身は、ただの肉食だ。獲物の血の温度を覚え、骨の割れる音を知っている。祈りの気配を、餌の匂いと同じくらい正確に嗅ぎ分ける。


 木々の間に、開けた場所が見えた。草は踏み荒らされ、石が転がり、土が黒い。血の匂いはない。けれど獣の匂いが濃い。獣の匂いに混じって、金属を舐めたような、舌に残る臭いがある。


 そこに、何かがいる。見えないのに分かる。空気が、こちらを見ている。ルクレツィアは息を止めた。止めた息が胸の内側で重くなる。イコが、ほんの少しだけ前へ出る。守るための位置。昨日の宿で見せた人間味とは別の、戦う者の形が戻る。


「ルクレツィア様」

 振り向かずに言う。


「自分の合図があるまで、動かないでください」

 丁寧語。いつもの鎧。その鎧が、今は頼もしい。ルクレツィアは小さく頷いた。喉の奥で返事を噛み、音にしない。そして、次の一歩を踏み出した。獣道、いや――魔物道の中心へ。


 その瞬間、風の向きが変わった。草が一斉に、同じ方向へ伏せる。木々の葉が鳴り、けれど鳥は飛ばない。黄昏の中、岩の陰が一つだけ動いた。最初に見えたのは、背の線だった。山猫のはずの背中が、やけに巨大である。肩甲骨のあたりに骨の板みたいな突起が連なり、冠のように並んでいる。次に、顔。裂けた古傷が口元に走り、笑っているように見える。歯が覗く。白い。整いすぎていて、見る者に恐怖を与える。


 冠骸の山猫。その名が、夕焼けを背景として刃物みたいに立った。ルクレツィアの喉が、音にならないまま鳴った。イコは、ひと呼吸だけ遅れて前に出る。言葉が出る前に、影がもう一つ揺れた。


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