12.
朝は、思ったより早く来た。まだ鐘が本気で鳴る前の時間で、〈唄う子馬亭〉の廊下は薄暗い。板は夜の名残を抱えたまま軋み、その音だけがやけに大きく耳に残った。
男浴場も女浴場も、昨夜の「狭い」から解放されていた。湯気は薄く、汲み替えられたばかりの湯は新しい匂いがした。旅人の声も少なく、桶の水音が静けさに混じる。二人はそれぞれ短い時間で身体を洗い、湯に沈み、それ以上は長居をしなかった。湯から上がると皮膚が軽くなり、疲れが一枚剥がれたみたいに息が通った。
部屋へ戻ると、旅装を置いた。外套の重さ、革の硬さ、帯に寄せた道具の冷たさが、床へ落ちていく。代わりに、今日は二人とも軽い服を選んだ。
ルクレツィアは薄い色の長衣を膝あたりまでたくし上げるように整え、紐を一度だけ結び直した。布は柔らかく、動くたびに音を立てずに揺れる。襟は崩れず、袖口はきちんと手首に沿い、旅装のときより少女らしさが前へ出た。
イコは黒を避け、薄い灰のシャツに短い上衣を重ねた。腰には細い帯を締め、足元は軽い靴にする。旅人の格好でありながら、どこか礼儀の形だけが残っていて乱れない。湯上がりの髪は少し柔らかく落ち、白い混じりが朝の光で淡く光った。
荷は部屋に置いた。身が軽い。軽くなったはずなのに、二人の間の距離だけは昨夜のままだった。妙に可笑しくて、それでも口にすると壊れそうで、ルクレツィアは言葉を飲み込む。
〈唄う子馬亭〉の扉を押し開けると、朝の風が正面から吹いた。濡れた髪の隙間に入り、首筋を撫で、呼吸を冷ます。山の方から降りてくる風で、土と草と、朝の石の匂いが混じっていた。ルクレツィアは思わず目を細めた。
「……気持ちいい」
言葉がこぼれる。昨夜の涙の跡が、風で乾いていくみたいだった。イコは扉の前でほんの少し立ち止まり、通りを見渡した。朝の光を受けた目は、いつもより薄く見える。
「朝のうちに買い出しを済ませましょう」
「うん。早い方が、目立たないし」
頷きながら、ルクレツィアは言ってから「しまった」と思う。目立つのは相変わらずで、軽い服の分だけむしろ余計だった。それでも今は、風が涼しく、身体が温かく、歩けることが嬉しい。
二人は並んで歩き出した。〈唄う子馬亭〉の前を離れ、まだ眠りの残る通りへ――と思ったが、通りはもう半分起きていた。早朝なのに店が開いている。灯りが点き、戸が上がり、声が出ている。この町が“登山口”の役割を果たしているからだ。
山へ入る者は夜明けに動き、だから町も夜明けに動く。道具屋の前には縄の束が吊られ、鉄具屋の台には楔と鋲が並ぶ。背負い袋を量る秤が揺れ、革手袋を叩いて馴染ませる音が路地に弾んだ。露店すらもう列を作っている。
湯気の向こうから、焼けた麦と干し肉、香草と蜜の匂いが立ち上がり、かぐわしい匂いを朝の風が運んだ。鼻先をくすぐるのは道具より先に、食べ物だった。意外にも立ち止まったのは、ルクレツィアではなくイコの方だった。視線が串に刺さった肉と、焼き菓子の籠へ吸われる。
「ねえ、お腹すいたの?」
ルクレツィアが小さく訊くと、イコは一瞬だけ黙った。視線が泳ぎ、串焼きの湯気からわざと外すみたいにしてから、短く頷く。
「……少し」
言い方がほんの少しだけ恥ずかしそうで、いつもの丁寧さが薄い。湯上がりの気の緩みが声に残っている。
ルクレツィアはその横顔を見て、胸の奥がふっと軽くなった。微笑ましい。昨夜、泣いていいと言った声のことを思い出す。敬語の鎧を外したまま、こちらを置いていかなかったことも。今朝はその続きみたいに見えた。空腹を隠しきれない、子どもみたいな間。それを恥ずかしがる仕草。
イコが魔人ではなく“人”である瞬間が、少しずつ増えていく。知らなかった部分が、ほんの小さな欠片で埋まっていく。それが嬉しい。嬉しいと感じられる自分が、今朝ははっきり分かった。
「じゃあ、買い出しの前に何か食べよっ」
ルクレツィアは言って、店先の湯気を指さした。露店の一つが炭火を起こしていた。串に刺さった肉が並び、表面の脂がぱちぱちと音を立てる。塩と胡椒、乾いた香草が肉に貼りついて、焼けるたびに匂いが濃くなる。
「すみませーん、二本ください」
ルクレツィアが言うと、店主は手際よく肉を返し、紙で包んで渡した。隣の小さな釜では香草茶が温められていて、葉を煮出した湯気が肉の匂いとは違う柔らかさで鼻をほどく。
「……そ、それも頂けますか」
イコが短く言い、言ってから少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。欲しいと言った自分が、まだ照れくさい。ルクレツィアは笑いそうになって噛み殺す。
香草茶を二つ。手のひらに収まる木の杯は温かく、指先の冷えをほどいた。二人は路地の脇に腰を下ろせる段差を見つけた。家の基礎の石で、誰かがいつも座るのだろう、角が少し丸い。
並んで腰を下ろすと、朝の町の喧騒が少しだけ遠くなった。串焼きは熱い。噛むと表面は香ばしく、奥は柔らかい。脂が甘く、塩がそれを締め、香草の苦みが後からふわりと追いかけてくる。香草茶は草の匂いをそのまま湯に溶かした味で、舌の奥に残る油を洗い流しながら胸の内側を温めた。
「……うまい」
イコが小さく言った。言葉は短いのに、口の端がほんの少しだけ緩む。ルクレツィアも同じように噛みしめた。思ったよりずっと美味しい。思ったよりずっと、普通の朝だった。
二人で食べている間だけは、その姿から本来背負っているはずのとてつもなく大きな使命が、まるで感じられない。ただ湯上がりの身体で朝の風に当たりながら、串焼きを頬張り、香草茶を飲み、腹が満ちることを確かめているだけだ。
食べ終えると木の串だけが残った。ルクレツィアは指先でそれを折り、立ち上がる。
「よし。次は道具だね、イコさん」
イコは頷き、さっきより少しだけ目が戻っていた。二人が向かったのは、登山用品というより“登攀魔具”の店だった。
木の看板には山を登る小人と、銀糸みたいに細い縄が描かれている。店先には鉄が並んでいるが、どれも普通の鉄ではない。光を吸う黒い鋲。触れると霜のように冷たい楔。薄い膜みたいに揺れる滑り止めの布。奥には背負い袋が積まれていた。一つずつ大きさが違うのにどれも妙に薄く、中身の気配が外へ漏れない。
「……こちらを」
イコが一つの袋の口を開けると、内側が暗い。暗いのに底が見えず、布ではなく“影”を縫い付けたみたいな口をしていた。店主は得意げというより慎重に言った。
「影袋だ。入れた荷は軽くなる。音もしない。匂いも薄まる」
「ただし“影”が要る。陽光が照らす場所では効きが落ちる」
「それから、一晩に三度以上、口を開け閉めすると翌朝まで眠る。無理にこじると裂ける」
便利すぎる道具には必ず癖がある。この町ではそれが当たり前みたいに、値札より先に注意書きとして出てきた。値は高い。銀貨が並ぶ。しかも今朝の分は、棚の奥に一つだけだった。ふつうの旅人なら、ここで目を逸らす。
しかし、ルクレツィアは逸らさなかった。外套の内側から小さな革袋を取り出す。金具は薄く、擦り傷一つない。結び目をほどくと、布の上に小さな石が二つ転がった。爪ほどの大きさなのに角が立ち、面がきれいに揃い、光を噛んで戻す。片方は深い青で、もう片方は淡い緑だった。正真正銘の宝石が、朝の光の中で一瞬だけ水みたいに冷たく見える。
「これで足りますか」
店主の目がはっきり変わった。値踏みではなく、獲物を見る目になる。手は出さず、まず息を止め、次に指先だけで布越しに石を転がした。光の返り、硬さ、傷。
「……本物」
声が低くなる。店主は顔を上げてルクレツィアを見た。それから急に周りを警戒し、棚の陰へ影袋を引き寄せ、帳尻を合わせるように無言で包み紙を取る。銀貨の山は消え、取引は物々交換に変わった。
イコがほんの僅かに肩を落とした。
「……ルクレツィア様。申し訳ありません」
その声は丁寧で真剣だった。自分が見たせいで出させたと思っている。ルクレツィアは首を振る。
「違うよ。こういう時のために持ってきたんだ」
「山の上で宝石が腹を満たしてくれる?」
「金は、下にいる間だけの道具だよ」
言いながら、石の一つを指で軽く押し、布の上で止めた。
「それに、イコさんが見つけた。なら、買う理由は十分さ」
次にルクレツィアは縄の束を手に取った。細いのに、指に巻きつく感触はやわらかく、強い。
「星綱だ」
店主が言う。
「結ぶとほどけにくい。切れても、落ちる前に“踏み場”を作る。……一度だけ」
「二度目は無い。欲張れば、ただの糸になる」
落ちる前に、一度だけ。優しい仕掛けには回数が決まっている。
鋲は掌に載せると、鉄のはずなのに温かい。石の上に置くと、勝手にわずかに沈んで噛み合う。
「山が嫌がらない鋲だ」
店主が笑いながら説明する。
「無理に刺すと折れる。優しく置けば、優しく留まる」
「ただし、留まるのは“山が許した時だけ”だ。吹雪の日は機嫌が悪い」
滑り止めは靴底に貼るのではなく、踵に結ぶ。硬い繊維の束が足首に沿ってしなり、地面の粒を拾う。けれど万能ではない。濡れたまま凍ると効きが鈍る。だから温め直すための小さな火種石も一緒に買った。石を二つ打てば親指ほどの火が生まれ、それも五回で砕ける。
必要なものを、必要な分だけ。二人は選び、買った。袋は軽く、縄は強く、鋲は静かで、手袋は滑らない。山へ行く準備が、少しずつ形になる。買い物が終わると、二人は店先で息を吐いた。朝の風がまた匂いを運ぶ。
「次は、縄と鋲の予備も見ておきましょう」
イコが言った。敬語の鎧は、そのままだ。ルクレツィアは頷いた。
「うん。行こう」
――気づけば、夕日が見えていた。朝の通りを歩き出した時は、まだ風が冷たかった。それが今は、石畳の影を長く伸ばし、屋根の縁を赤く染めている。買い出しを終える頃には日が暮れる。この町の一日は、山へ入る準備の速さで流れるのだと、ルクレツィアは思った。
二人の腕には、包みが増えている。背負い袋。縄。鋲。手袋。滑り止め。どれも軽いはずなのに、抱え方だけは慎重になった。大事そうに、落とさないように。
店々の明かりが点き始める。呼び込みの声が昼より低くなる。遠くで鍛冶の火が一度だけ強く燃え、金属の匂いが風に混じった。イコが包みを抱え直し、確かめるようにルクレツィアへ言う。
「明日、出発ですね」
丁寧な言葉。けれど、その裏にある緊張は、昼間よりはっきり伝わる。
ルクレツィアは頷いた。頷くしかない。明日。山へ入る。そして――ロザリンドという魔人を訪ねる。胸の奥に、冷たい塊が落ちる。食べ物の温かさも、風の心地よさも、遠くへ押しやられる。それでも、腕の中の道具は確かにある。イコが隣にいる。
「うん」
短く答えて、ルクレツィアは夕日の向こうを見た。緊張を胸に抱いたまま、それを落とさないように歩き出す。




