10.
道は、森の匂いを連れていた。巡礼の山の麓近くにある町を目指して歩くうちに、景色は少しずつ変わっていった。顔を上げれば、遠くの稜線に山々が連なっている。幾重にも重なった青が、陽に焼けて薄く霞み、その奥にひときわ高い影が立っていた。
巡礼の山――と呼ばれるものは一つではなく、尾根が尾根を呼び、山が山を隠す。その中で、いちばん“奥”へ向かう道だけが、見えない指で示されているみたいに感じられた。濃い木陰はまばらになり、代わりに草の匂いが立つ。足元の土は柔らかさを失い、乾いた砂利が靴底で軽く鳴る。
あれから数日。イコの出血は止まっていた。あの夜、焚き火のそばで落ち続けていた赤は、いまはもうない。代わりにあるのは、歩くたびに揺れる外套の裾と、乾いた風の音だけだ。外套はすっかり乾き、二人の背中で風を孕んで膨らんだ。布が擦れる音は小さく、けれどその小ささが、旅が続いていることを確かにする。
陽射しは強かった。雲が薄い。空が高い。森の縁を抜けた分だけ光がまっすぐ落ち、石にも草にも、白い熱を塗っていく。ルクレツィアは思わず目を細めた。大きな瞳が、光を受け止めきれずに震える。長い睫毛の影が頬に落ちても、眩しさは薄まらない。
「……暑い」
呟きは独り言に近い。弱音を吐くつもりではない。ただ、眩しさが言葉になっただけだ。
隣を歩くイコは、前を見たまま歩調を合わせている。外套の輪郭が陽に縁取られ、影が細く伸びていた。黒い服はその下に隠れて、いまは目立たない。
ルクレツィアは、その横顔を盗み見る。黒髪の中に、白いものが混じっている。日を受けると、それは灰のようにも、銀のようにも見えた。長い睫毛が、切れ長の目に影を落としている。その目は鋭い。鋭いのに、血の匂いを追う獣の目ではなく、もっと静かで、もっと冷たい。真実だけを選り分けて見透かしてしまうような目だ。顔つきは冷淡に見える。口元の線は固く、笑う気配がない。けれど言葉はいつも丁寧で、丁寧さが崩れない。その丁寧さが、ときどき恐ろしいほどだ。
――この人は、どこまでが本心で、どこからが鎧なんだろう。あの夜の「三日」という言葉が、まだ喉の奥に残っている。三日は過ぎた。だから大丈夫、だと、頭は理解する。けれど身体は、理解の速度が遅い。歩いているのに、どこかでまだ焚き火の赤を見ている。歩いているのに、まだ血の艶を思い出す。
ルクレツィアは息を吸い、吐いて、胸の中の残滓を押し出そうとした。吐息は乾いた。それでも、気持ちまで乾くわけではない。
「ルクレツィア様」
イコの声が、風の音の間に差し込む。振り向かなくても分かる。こちらの呼吸の乱れを、見ていなくても拾っている。
「大丈夫です」
大丈夫。その言葉の柔らかさが、少しだけ胸を緩める。
「……大丈夫、って」
ルクレツィアは笑おうとして、うまくいかなかった。
「それ、ボクが言うべきだったのに」
イコは足を止めない。ただ、ほんの少しだけ声の調子を落とす。
「言われるよりも、言ってしまう方が、楽なこともあります」
その言葉と一緒に、イコの口元がほんの少しだけ緩んだ。笑う、というほど大きな変化ではない。けれど確かに、冷たい線が柔らかくなる。長い睫毛の影が揺れ、切れ長の目がわずかに細まって、陽の光がそこに薄く滲んだ。
(……笑った)
ルクレツィアは、思わず息を止める。たぶん、ボクを安心させようとしているんだ、とルクレツィアは思う。それだけで、胸の奥の固い部分が少しだけほどけた。けれど、その微笑みは長く続かない。次の瞬間にはまた、彼は歩調を崩さず、丁寧なままの距離へ戻っている。それでも今の一瞬は、嘘じゃない。
ルクレツィアは、言いそびれていた言葉を喉の奥から引き上げた。軽く言えば、軽く流されてしまいそうで、だから息を整えてから口に出す。
「……イコさん」
呼びかける声は小さかった。けれど、逃げなかった。
「ボクさ……二度も命、助けてもらった」
「ありがとうございます」
感謝を言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。恥ずかしさも混じる。名家の娘として、礼は慣れているはずなのに、これは礼儀とは違う場所に刺さる。イコは歩調を変えないまま、わずかに首を傾けた。振り向かない。それでも、聞き逃さない。
「……もったいないお言葉です」
丁寧だ。丁寧なのに、拒まない。ルクレツィアは、外套の裾を握り直した。ありがとうを言えたぶんだけ、ここにいる自分が少しだけ現実になる。
「ねえ、イコさん」
ルクレツィアは、呼びかける前に一度だけ息を整えた。距離を詰めるのは怖い。けれど、怖いままでも詰めなければ、何も分からない。
「ボク、あなたのことを、何も知らない」
言葉にすると、あまりにも当たり前で、あまりにも遅い。イコは歩きながら、ほんの少しだけ首を傾けた。振り返らない。けれど、聞いている。
「存じております」
丁寧な返事。丁寧すぎる返事。その丁寧さが、鎧のままこちらに差し出される。
「知らないのに、ボクはあなたに命を預けてる」
「預けてるのに、あなたは……ボクを“様”で呼ぶ」
責めたいわけではない。責めたいのなら、もっと尖った言い方になる。これは、確かめだ。自分がこの距離に耐えられるのか、そして彼が、この距離のまま人を守り続けるのか。イコは、外套の裾を風に揺らしながら、少しだけ声を落とした。
「癖のようなものです」
「距離を守る方が……間違えないで済みます」
間違えない。その言い方が、ルクレツィアの喉を乾かした。
「間違えるって、何を?」
問いは柔らかく投げたつもりだった。でも、風の中では、針みたいにまっすぐ飛んだ。イコはすぐに答えない。歩く音と砂利の鳴る音が、沈黙を埋める。
「触れるべきでないところに、触れてしまうことです」
曖昧なのに、痛い。彼の言葉は、いつも曖昧なまま核心だけを刺す。ルクレツィアは、手のひらを外套の上から握った。乾いた布の感触が、指先の震えを隠してくれる。
「ボクは、触れてほしいって言ってるわけじゃない」
「ただ……知りたい」
知りたい。その言葉に、願いの形が混じる。
「あなたは、どうしてそんなに……人のために動けるの?」
イコは、やはり振り返らない。それでも、足取りがほんの少しだけ遅くなった。遅くなった分だけ、ルクレツィアは自分の問いが届いたのだと知る。
「……償いです」
短い。短いのに、重い。イコの声は感情を抑えているのではなく、感情が溢れないように押さえ込んでいるように聞こえた。言葉を続ければ、何かが崩れる。そう分かっているから、そこで止めている。
「過去に、取り返しのつかないことがありました」
それだけを、彼は足元に落とすように言った。誰のことかも、何があったのかも言わない。言わないまま、背中だけが少し硬くなる。
「だから、間違えないように距離を取る」
「それでも守る、と決めた相手だけは……守る」
ルクレツィアは、それ以上を問い詰めなかった。問い詰めれば、今の自分はたぶん、彼の“鎧”を壊してしまう。鎧を壊したところで、代わりの鎧を自分は用意できない。それでも、知りたい気持ちだけは引かなかった。
「じゃあ、せめて」
ルクレツィアは歩幅を合わせ、声を少しだけ低くする。
「償いのためじゃない言葉で、ボクを呼んで」
イコの息が、ひとつだけ深くなった。呼び捨てにはしない。その一線を、彼は守る。
「……ルクレツィア様」
たったそれだけ。変わらない呼び方。なのに、不思議と、さっきまでとは違って聞こえた。距離を取るための“様”ではなく、距離を崩さないために選んだ“様”。
ルクレツィアは、ありがとうと言いかけて、やめた。礼を言えば、この距離が正しいと認めてしまう。認めたくないのに、否定もしきれない。だから代わりに、前を向く。眩しさに目を細めたまま、足を出す。前を向いたぶんだけ、ほんの少しだけ、歩くのが楽になるのを感じた。
ルクレツィアは外套の襟元を指で整える。風が布の隙間に入り、背中をくすぐった。乾いた布が肌を撫でる感触は、安心に似ている。巡礼の山は、ただの山ではない。その奥にいるのはロザリンドだ。手配書の線だけで体温を削った女。話が通じるかもしれない、とイコが言った相手。“かもしれない”。その不確かさが、陽射しより眩しい。
「町まで、どれくらい?」
ルクレツィアが尋ねると、イコは少しだけ顎を上げ、前方の木々の切れ目を示した。
「日が高いうちに到着しますよ」
その答えに、ルクレツィアは小さく頷いた。頷きは、今日何度目かの確認だ。歩く。止まらない。逃げない。風が吹く。外套が揺れる。乾いた布が鳴る。それは、血の音ではない。ルクレツィアは眩しさに目を細めたまま、足を前へ出した。
やがて木々の切れ目がひらけ、先の斜面の向こうに、屋根の群れが見えてくる。赤茶けた瓦。白い壁。煙突の煙が細く伸び、風にほどける。人の気配が、匂いの形で戻ってきた。そして、その町の背後には山が立っている。町を飲み込むように、影を落とすように、黙ってそびえている。麓の町は、山に守られているのではなく、山に見張られているのだと分かる高さだ。見上げた先の稜線は、陽の光を受けても黒く、輪郭だけが鋭い。あの奥に続く道を思うだけで、喉の奥が乾いた。
「町だ」
言ったのはルクレツィアだった。声の底に、ほっとしたものが混じる。そのとき、道の脇の藪ががさりと鳴った。次いで、甲高い鳴き声――ではなく、もっと小さな、濡れたものが擦れるような音。足元の草が揺れ、黒い塊みたいなものが、ぱちぱちと跳ねた。
「……ヒル」
ルクレツィアが息を呑む。乾いた道のはずなのに、跳ねてくる。草の影から現れたそれは、人の子供ほどの大きさの黒く濡れた塊。
腹で地面を吸い、伸び縮みしながら進むたび、ぬるりとした皮膚が陽を受けて油膜みたいに虹色を滲ませる。表面には細い皺が無数に走り、その溝に砂と枯れ葉が貼りついて、呼吸するたびにぴくぴくと動いた。口はどこにあるのか分からない。けれど、近づけば分かる。先端がふいに割れて、湿った輪が開き、吸い口の奥で小さな歯が擦れる。そこから、甘いようで腐ったような匂いが漏れた。
――巡礼蛭。水辺に棲むただの蛭ではない、正真正銘の魔物である。巡礼路の周辺、汗と体温が集まる場所を好み、匂いを嗅ぎ分けて群れで寄ってくる魔物だ。
「……来る」
イコが低く言った。丁寧な声ではない。短く、刃のある声。
次の瞬間、巡礼蛭が一斉に跳ねた。外套の裾へ。靴の甲へ。肌が見えている首元へ。町は見えている。もう少しで、人の声が聞こえる距離だ。それなのに、この場所だけ、山の小さな悪意が残っている。ルクレツィアは外套の裾を握り直し、重心を落とした。乾いた砂利が、靴の下で小さく鳴る。
「イコさん――」
呼びかけの途中で、イコが一歩、前へ出ようとした。外套が揺れ、黒い服の気配がその下でわずかに立ち上がる。
(また、守るつもりだ)
そう思った瞬間、ルクレツィアは反射で手を伸ばしていた。
「待って」
イコの手を掴む。掴んだ指先に、意外なほど硬い筋肉の感触がある。
「こんなの、ボクがやる」
イコが何か言おうとする前に、ルクレツィアは腰へ手をやった。剣はない。目立つから、故郷から持ってきていない。代わりに、革鞘がある。旅の間ずっと腰に添わせてきた短剣の鞘だ。抜く動作に迷いがない。短い刃が陽を受けて白く光り、次の瞬間には光が消える。
刃は“見せる”ためではなく“通す”ために動いた。巡礼蛭が跳ぶ。濡れた身体が空気を裂き、甘腐った匂いが距離を詰める。ルクレツィアは半歩だけ踏み込んだ。
一閃。刃は、蛭のぬめりに引っかからない。骨を断つのではなく、肉を割るのでもなく、ただ“線”を引く。子供ほどの塊は、真っ二つにはならない。けれど、吸い口のある先端が切り落とされ、湿った輪が地面に転がった。遅れて、黒い体液がとろりと噴き、砂利を濡らす。切られた蛭がのたうち、腹で地面を叩く。ぴち、ぴち、と濡れた音が続き、気色悪さが増す。
もう一匹。さらに一匹。ルクレツィアの刃は無駄を作らない。最短の軌道で、跳ぶ先を読んで、必要なところだけを落とす。少女の身体には不釣り合いな静けさで、手首が正確に仕事をする。上手いと自分でそう思う前に、背中にイコの気配が硬くなる。驚きと警戒。そして、ほんの少しの安堵だ。ルクレツィアは息を吐いた。
「……ね。ボクでも、できる」
言った途端、また一匹が裾へ跳ねる。風が外套を持ち上げ、布が大きく舞った。陽を受けた外套の端が、白い翼みたいにひるがえり、影が一瞬だけ路面を撫でる。
ルクレツィアはその布の動きに逆らわない。外套が舞うぶんだけ間合いを変え、刃先だけを細く滑らせた。短剣の光は布に触れない。触れたのは、跳んできた巡礼蛭の先端だけだ。刃を返す。返した刃が、また別の跳躍を迎え撃つ。身体の動きは小さいのに、外套だけが大きく揺れて、視線をさらう。まるで演舞だった。
血の匂いを立てずに、派手さもなく、ただ正確に、気色悪いものだけを落としていく。ルクレツィアは刃を返し、外套を切らずにそれだけを落とした。砂利の上で、巡礼蛭がまだうごめく。群れは残っている。でも、最初の勢いは削げた。
町はすぐそこだ。ここで騒ぎを大きくしない。魔人の力も、目立つ剣も、まだ必要ない。ルクレツィアは短剣を低く構えたまま、イコへ言う。
「イコさんは、後ろを見て」
頼る言葉が、自然に出た。距離は残ったままでも、息は合う。そして、黒い塊の群れが、もう一度跳んだ。ルクレツィアは、呼吸を乱さない。足先で砂利を踏み、身体の軸だけを少しずつずらして、跳躍の角度を殺していく。
一匹が首元を狙う。外套が遅れて舞う。その布の影に刃を隠し、見えないところから切り上げる。ぴち。吸い口が地面へ落ち、黒い体液が細く弾けた。二匹目は靴の甲。三匹目は裾。四匹目は影の中から。跳ぶたびに落ちる。落ちるたびに、濡れた音が小さくなる。
ルクレツィアの刃は、最初から最後まで同じ速度で、同じ精度で動いた。最後の一匹は、少しだけ賢かった。跳ばずに腹で這い、視覚の陰に潜り、外套の裏へ回り込もうとする。ルクレツィアはそれを見て、短剣を“振らない”。手首を返し、刃を低く差し入れ、ただ通す。
ぬるり、と切れた感触。巡礼蛭は丸まって、縮んで、最後に動きを止めた。甘腐った匂いだけが、遅れて風に残る。ルクレツィアは一歩、下がる。外套の舞いが収まり、布が肩に落ち着く。刃先には黒い粘りが薄くついていたが、衣服には一筋も触れていない。
「……終わり」
呟いてから、荒布で刃を拭い、短剣を腰の革鞘へ戻す。納める動作まで静かで、無駄がない。イコは、言葉を探すみたいに一拍遅れて息を吐いた。
「お見事、ルクレツィア様」
丁寧な声に戻っている。けれど、その丁寧さの底に、確かな評価が混じっていた。町は、もう目の前だ。
ルクレツィアは外套の襟を整え、何事もなかったように足を前へ出した。ただ、砂利に残った黒い濡れ跡を踏まないようにだけ気をつけながら。




