1.
一言でいえば、正に蹂躙。そう呼ぶのに相応しい戦場だった。
ここは本来、戦場ではない。精鋭の恒例行事として組まれた遠征訓練の途上――帝都から離れ、決められた踏破ルートをなぞり、模擬戦の合図を待つはずの場所だった。
一流の戦士に、一級の武具が揃えられ、帝都で過酷な訓練を受けた国防軍数十名。素人目にも、戦力過多とさえ言いたくなる布陣だった。想定されていたのは疲労と小さな負傷であって、敗北ではない。
だが、その国防軍は、訓練の台本にないイレギュラー。――たった一匹の魔物に蹂躙されていた。
ルクレツィア・フォン・ヴァルクレールも、その輪の中にいた。屈強な兵士たちの中に混じる、小柄な十代後半の少女。帝都の名家の紋章を刻んだ外套は煤一つなく、髪の毛は兜の下できつく束ねられている。長い睫毛の奥の大きな瞳は冷えた色をして、戦場の熱を前にしても、まだ揺れていない。
実戦経験はない。だが帝都の剣術院では、教官が名を挙げて称えるほどの腕前だった。入隊して日が浅いにもかかわらず、精鋭の恒例行事である遠征訓練に同行を許されたのは、その剣が「本物」だと見なされたからだ。
号令より早く、ルクレツィアは踏み込む。足が地を叩き、体が前へ滑り、刃が炎の揺らぎを裂く。狙いは正確だった。間合いも完璧だった。
「――斬れる」
確信は、一閃と同時に終わった。鬼の王オーガは、傷ついた気配すら見せない。こちらを“見た”とも言い切れない。
炎の向こうに立つその巨体は、人型ではあった。だが人ではない。赤く灼けた皮膚は鎧のように厚く、筋肉は獣のそれのように盛り上がり、肩から腕にかけての質量だけで「近づいてはいけない」と本能が告げる。
額から生えた角は短く太く、肉を裂くための楔のように前へ突き出し、頬骨は異様に張って口元を獣のように尖らせている。唇は裂け、歯列は人のそれではない。牙が不揃いに噛み合い、噛み砕くためだけに作られた白が、炎に濡れたように光る。鼻梁は潰れ、穴は広い。吐息のたびに熱が漏れ、血と焦げの匂いを運んだ。
眼がある。細い。黒い。瞳孔の奥に理性の灯はなく、あるのは獲物を選り分ける獣の冷たさだけだった。視線がこちらへ滑っただけで、身体のどこかが「近づくな」と叫ぶ。炎の向こうで、巨体がただそこにある。揺るぎのない質量が、世界の理屈を押し潰している。
ルクレツィアが次の踏み込みに移ろうとした瞬間、右前方で帝都勤めの熟練戦士が躍り出た。守りを固め、彼女の突撃に合わせて呼吸を揃えてきた男だ。その男がオーガの懐に入った。
次の瞬間。オーガの腕が、軽く振られる。軽く――そう見えた。
だが、男の体は音を立てて潰れた。鎧が悲鳴を上げ、骨が折れる音が遅れて届き、肉が裂け、血が熱い雨のように飛び散る。人が、形を保てず、地面に落ちる。落ちたのではない。落とされたのだ。
ルクレツィアの足が止まった。喉が勝手にひゅ、と鳴った。呼吸が浅くなる。肺が熱を吸い込み、胸の奥が焼ける。視界の端で、さっきまで人だったものが、赤黒い塊になって転がっている。
訓練では、死体は木偶だった。訓練では、血は絵具だった。訓練では、こんな匂いはしない。焼けた鉄と、焼けた肉と、恐怖で漏れたものが混じった匂いなど、教本のどこにもなかった。それでも、ルクレツィアは剣を下げなかった。下げられなかった。ここで退けば、退く自分が許せない。名家の名が、帝都の評価が、両親の声が、背中を押す。
だが、隊列のどこかで、誰かが悲鳴を上げた。続いて命令が飛ぶ。整ったはずの指揮系統から、焦げた声が絞り出される。
「下がれ! 隊形を保て、散るな!」
散るな。言葉だけが宙に残り、現実がそれを踏み潰す。潰された男の傍で、別の兵が足を止めた。助けようとしたのか、確かめようとしたのか。次の瞬間、オーガの炎がなぞるだけで、その兵は膝から崩れ落ちた。鎧の隙間から煙が上がり、声にならない喘ぎが漏れる。救う手が伸びる。伸びた手が熱で引き攣れる。伸びた者まで倒れる。
連鎖。
最前列の戦士が半歩だけ下がる。次がそれに気づいて下がる。さらに後ろが押し返される。退却ではない。退却と呼べるほど整っていない。それは崩れだ。
「止まれ!」
誰かが叫ぶ。別の誰かが「戻れ!」と叫ぶ。指示が割れ、声がぶつかり合い、そして――誰も従わない。
「下がれ! 隊形を保て、散るな!」
指揮官の声は怒号の形をしていた。声だけは訓練と同じだった。だから一瞬、皆がそれに縋った。
オーガが腕を上げる。火球でもない。ただ、熱を孕んだ動きが空気を引き裂く。次の瞬間、指揮官の胸元で金属が鳴った。鎧が凹む音ではない。折れる音だ。砕ける音だ。
指揮官は言葉を続けようとして口を開いたまま止まった。喉から出たのは声ではなく、濁った息だけだった。身体が半歩揺れ、膝が折れ、膝が地面に触れる前に――上体が前へ崩れ落ちる。
「し、指揮官――!」
命令が、消える。指揮系統が、切断される。精鋭たちの動きが、そこで一瞬だけ空白になる。全員が同じものを見たからだ。――今、ここには、命令を通す人間がいない。
その空白を、オーガは見逃さない。巨体が一歩進む。炎の渦が隊列の中心へ滑り込む。熱が肺を刺し、目が焼け、皮膚が痛む。悲鳴が上がる。上がった悲鳴が、次の悲鳴を呼ぶ。誰かが走り出す。走り出した者が後ろを引きずる。引きずられた者がつまずく。つまずいた者を踏み越えて、さらに誰かが逃げる。
精鋭の恒例行事を支えてきたのは、剣の腕でも武具でもない。「命令は通る」という前提だった。だが、その前提が、いま目の前で焼け落ちていく。血肉が焼かれる臭い。圧倒的な膂力によって四肢が千切れる音。目の前に広がる焼死体、バラバラ死体。
ルクレツィアの剣は、まだ握られている。だが握っているだけで、戦いにはならない。握り締めた柄が、汗と熱で滑る。掌が痛い。手袋越しに、指の節が白くなるほど力を入れているのに、刃は一歩も前へ進まない。進めない。彼女の足元にあるのは前進の地面ではなく、崩れ落ちていく群れの背中だ。
逃げるな――そう叫びたい。いや、叫べばいい。ヴァルクレールの名で、帝都の剣で、命令を通してきた者たちを叱り飛ばせばいい。だが、喉は乾いて声が出ない。出たとして、誰が聞く。
自分の中で何かが音を立てて欠けた。今まで支えになっていたもの――教官の称賛、両親の自慢、選ばれたという感覚。剣を握れば世界は従うという、疑いようもない前提。それが、炎の向こうの一匹を前にして、空虚な飾りに変わる。
「本物」だと見なされた剣。本物であるほど、何もできない。オーガは遠い。なのに近い。距離の問題ではない。斬撃が届くかどうかではない。こちらの世界の理屈そのものが、あの巨体に届かない。息を吸うたびに胸の奥が焼け、吐くたびに冷える。血と焦げの匂いが肺に張り付いて、胃がひくつく。視界の端で、人が転ぶ。転んだ者が踏まれる。踏まれた者の声が途切れる。その途切れが、次の足を速める。
恐怖が伝播するのではない。絶望が、秩序の代わりに隊を動かしている。
ルクレツィアは一度、剣先を持ち上げた。胸の高さまで。動かしたというより、動かせると証明したくて。その瞬間、彼女は悟った。自分は戦場の中心ではない。選ばれた剣でもない。隊を支える柱でもない。
ただの、一人の肉だ。
足が震えた。膝が笑う。歯が鳴りそうになるのを、奥歯で噛み殺す。震える体を叱りつけようとして、叱れるだけの言葉が出てこない。命令が消えたのではない。命令が通る世界が、ここにはない。
ルクレツィアは炎の向こうを見た。獣の眼が、たった一度だけこちらへ滑る。それだけで、背中の皮膚が総毛立つ。逃げろ、と本能が言う。逃げるな、と誇りが言う。どちらも遅い。彼女の足は、前にも後ろにも出ないまま、ただその場で固まっていた。
そのとき、熱の渦の外側――炎が薄くなる境目に、ひとつの影が立った。
国防軍の鎧でも、逃げ惑う兵の外套でもない。兵と比べれば小柄だ。輪郭だけが、煙の向こうで静かに浮かび上がる。風が吹き、影の背にかかる髪が揺れた。火の粉を弾くような光を孕んだ、淡い色――灰とも銀ともつかない。
その背中は、逃げる群れとは逆向きに、ただ前を見ている。ルクレツィアは一瞬、息の仕方を忘れた。
あれは人間だ。そう思った直後、否定が胸の奥から湧き上がる。人間が、あの方向に立つはずがない。その細い背中は、逃げ惑う兵たちの流れをせき止めるでもなく、同じ速度で逃げるでもなく、ただ静止している。静止しているだけで、そこだけ空気が違う。
あれは国防軍の兵ではない。だが国防軍の側に立つ者だ。
――魔物の死肉は猛毒。幼い頃から叩き込まれた。教本の最初の頁に、太字でそう書いてある。素手で触れれば皮膚が爛れる。だが、本当に致命的なのは摂食だ。一口でも口にすれば内臓が焼け、血が泡立ち、数息のうちに死ぬ。安易に触れるな。口に入れるな。まして飲み込むな。
ただし、ほんのわずかな例外が存在する。ルクレツィアは帝都で聞いたことがあった。
魔物の死肉は、種別を問わず、すべて猛毒だ。そして毒は一つではない。魔物ごとに“別々の猛毒”を持ち、毒の性質も、症状も、死に方も違う。だが、ある魔物の毒に適合した抗体を、生まれつき持つ者がいる。数は極めて少なく、ほとんどは本人すら気づかない。
そういう人間が、桁違いの確率から合致した魔物の死肉を喰らうと――毒は命を奪わず、代わりに肉と一緒に“特性”が体へ沈む。
炎を吐く魔物なら、熱を。硬い皮膚の魔物なら、鎧を。獣の膂力なら、そのままの力を。すべてを持つ魔物なら、そのすべてを。初めて喰らった魔物の性質が、その者の核になる。魔物の猛毒に耐え、死肉を糧にして、人の枠を踏み越えた者たち。人はそれを――魔人と呼ぶ。
その人物の背に、魔物に対する恐れがない。それが何より、異物だった。
その瞬間、炎のうねりがはっきりと淀んだ。鬼の王オーガの首が、獣じみた軋みを伴って、ゆっくりとそちらへ向く。細い瞳孔が一度だけ収縮し――次いで、逃げ場を探すように左右へ震えた。
裂けた唇が、歯を見せたまま固まる。喉の奥で、低い息が詰まる。一歩、下がった。たった半歩。それでも、あの巨体が退いたという事実は、戦場の温度を変えた。獲物を測る沈黙ではない。
それは、怯えだ――そして同時に、より大きな蹂躙の前触れだった。




