呪ひのイコン
〈初雷やゼウスの欠伸獨り知る 涙次〉
【ⅰ】
黑海沿ひ。ウクライナのと或る寒村に、そのギリシア正教の修道院はある。その、と云ふのは、そこの修道士にアレキサンデル・シスキと云ふ者があり、彼が一躍有名になつてしまつた顛末が語り草、だと云ふ事。シスキは元は「名も無き」イコン描きに過ぎなかつたが、彼の作品の一つに呪ひがかゝつてゐる事から、著名画家の仲間入りをしたのだ。
シスキは若くして喘息の發作で死んだが、彼の「呪ひのイコン」は、世に殘つた。それは小さな拙い繪に過ぎなかつたが、十字架のイエスのその繪を持つと、何故か必ずその持ち主は不幸に陥る。これ迄に、何人の破産者、自殺者を世に送り出してきたか。
一部では、ウクライナがロシアとの戦禍に喘いでゐるのも、その繪のせゐではないか、とさへ囁かれてゐる。
その「呪ひのイコン」が日本に持ち込まれる、と云ふ。銀坐の某ギャラリーが、たゞ同然で落札した「呪ひのイコン」。讀者諸兄姉は、それこそカンテラ一味の出番だと云ふかも知れない。然し、黑いヴェールを被せて置けば、ギャラリー関係者に累は及ぶまい、さう髙を括つたギャラリー主は、カンテラ一味に新しい仕事を持ち込む事は、避けた。それでは、この繪を観るスリルが減じるのだと、彼は云ひ張つた。
恐い物見たさ、目当てゞ一攫千金を狙つてゐるのだ。他人の不幸についてなど、彼は一顧だにしない。
【ⅱ】
テオ「だう思ひます、兄貴? この『呪ひ』について」カンテラ「まあ『呪ひ』は作者シスキの怨念なのだらうが... 仕事にならないんぢや、俺らの出る幕はないよ」テ「日本にその不幸のタネを持ち込まなきやいゝけど...」
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〈初蛙世に願ふたり卵見よ 涙次〉
【ⅲ】
ところで、【魔】に誘惑され難い體質と云ふのはあるもので、故買屋Xなどは、その最右翼と云へた。彼は某ギャラリー主と同じで、このイコンを儲けの種、としてしか見てゐない。すかさず、もぐら國王に、盗みの依頼をしてきた。
「自分が不幸に陥るか、試したがる人種、と云ふのは、必ず存在するものだ」と、彼は云ふ。國王は國王で、「カンテラさんが手を出さない、と云ふなら、俺はその話、乘つてもいゝよ」と輕く返事をしてしまつたのが、彼の運の盡き、だつたのだ。
【ⅳ】
國王は例により、某ギャラリーまでトンネルを掘つて、仕事に勤しんだのだが、それにより魔道に墜ちるだらうとの、テオを始めとする業界人(?)たちの忠告は、全く無視してゐたのだ。
彼は、その仕事をしてからと云ふもの、「ルシフェル様...」と譫言のやうに呟く、【魔】の一員となつてしまつた。これには、朱那は勿論、故買屋ですら驚いた。既に、國王は、そのイコンの呪ひを、一身に受けてゐたのだ。
「ルシフェル様、だうか蘇りの秘蹟を」彼は眞顔でさう云ひ放つた。もはやかつての快活で精悍な國王は、何処かに行つてしまつたのだ。人の不幸を喜ぶ、卑劣漢に、彼は成り下がつてしまつた。
朱那は、或る日、そつと「もぐら御殿」を脱け出すと、その足でカンテラ事務所に急いだ。
だが、國王は、そんな朱那の思ひやりを理解せず、「につくきカンテラめ、地獄の沙汰とやらを見せてやる」
どこで仕入れた知識か、ベルゼブブ(魔界の「蠅將軍」)召喚の術を使ひ、この世の破滅に手を貸さうとするところ迄、墜ちた。
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〈鴉の巣七つ仔のゐるかしましさ 涙次〉
【ⅴ】
夜は更け、魔道の者らが跋扈する時間帯、カンテラが機轉を働かせ、結界を張つてゐたので、トンネル堀りは出來ない國王、丁度夜の散歩に出やうとしてゐた牧野と由香梨に、地表でばつたりと出喰はした。バールを振り翳して、牧野に襲ひかゝらうとする、狂つた國王。
しかし、「龍」が牧野の身を護らうと、彼の口から飛び出てきた... それ以降の記憶は、國王には、ない。氣が付くと、カンテラ事務所のベッドに國王は横たはつてゐた。「あれ? 俺...」
事の次第が徐々に明らかになるにつれ、正氣に戻つた彼は、身震ひして、カンテラに懇願した。
「だうか、平に、平にご容赦を...」
カンテラ「まあ、朱那ちやんに詫びの一つでも入れるんだな。俺は氣にしてないから」
【ⅵ】
そして、ベルゼブブの放つた蠅人間どもを、じろさん叩き、この一件は落着する。「もぐら御殿」に置いてあつた「呪ひのイコン」は、「龍」がばりばりと嚙みくだいてしまつたさうだ。
さて、朱那のご機嫌は、だう取り結ぶのかな、國王よ。プレゼント一つぐらゐでは、濟みさうにないぜ。
お仕舞ひ。誰にもカネの入らない、不毛なお話、でした。
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〈世に古れば女男を知ると云ふ男女と云はず何ゆゑ 平手みき〉