春は巡る
また春がやってきたようだ。暖かくなっている。
先日、私は、川べりをランニングしていて、言いようのない幸福感を味わった。夕陽の光と輝く植物、光を跳ね返す水面と、水面を泳ぐ鴨…そうした全ての光景が走っている私自身と溶け去って、私自身が世界に流れ出していくような幸福を感じた。
…そうした瞬間というのは、西欧の人間ならば、「神と合一した瞬間」と言ったかもしれない。東洋であれば、坊主が悟りを開いた瞬間かもしれない。
私のそんな瞬間には別に大した意味はない。ただ、私は(ああ、春がやってきたな)と思っただけだった。
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季節は巡る。当然の事だ。
だが、私にとっては当然ではない。これは私だけの感じ方かもしれないが、冬のさなかにいると、私は永遠に冬が続くような気がする。
これまでもずっと冬であり、これから先も冬が続く。必要なのはダウンジャケットであり、こたつであり、暖房器具の類で、この先、Tシャツとハーフパンツで外に出られる日が来るとは想像もできない。
しかし、私のそんな感覚を裏切り、季節は巡る。春はやってきて、夏が来る。そうなると、私は冬なんて二度と来ないような気がする。これまでずっと夏の季節が続いてきたし、これまでも夏が続く。そんな気がする。
押入れに入った毛布や上着、暖房器具の類はその存在意義がわからない。こんなに暖かいのに、この暖かさが変化する事などありえないだろうーーもちろん、冬は例年通りやってくる。
こうした感じ方は、私特有のものかもしれないが、以下ではこうした感じ方ついて考えていこうと思う。
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私は自己意識の強い人間だ。それ故に、私は自己意識によって、世界を観照する。世界は存在する。だが、世界を存在させているのは意識の方なのだ。
私が冬を感じる。すると、私の感覚、思考は冬という現象を固定化する。意識というのは世界を固定化しようとする傾向がある。そもそも「理解」というのは対象の固定化を意味する。
私達があるものを「理解」したとして、その次の瞬間にそれが理解できないものになってしまうと、私達は失望を感じる。だから「理解」とは主体が作り出した概念の内部に対象を閉じ込める事だ。
私は存在している。だがそれはただ存在しているわけではない。世界との関連において存在している。
私は冬の中にいる。私の意識は、我知らず、冬という現象を固定化する。私の意識が一定で、常に何事かを考え、志向し、それ自体が恒常的に存在しているように、私は外界の「冬」も存在している。そう考えてしまう。
それは自己意識というものが、存在する世界に対して、自己の模倣を見ているからではないか。意識が一定のものとして、あるいは自己というアイデンティティが、肉体の変化、精神の変化を通り越して一定である…そう感じられるように、私達は外界の存在の中にも何かしら一定のものがあるだろう、と予期する。
それで、私のような人間は「冬」を固定化する。これまでも冬だったし、これからも冬であろう、と。
しかし実際には季節は巡る。冬は春へと変わる。私は、自分の期待が裏切られたのを感じる。私は上着を押入れの中に押し込み、半袖を引っ張り出してくる。
…このような例をあげて、私が何を言いたいかと言うと、世界の変転は自己意識を越えていくのではないか、という事だ。
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ニーチェに「永劫回帰」というアイデアがある。これは、永劫回帰して、同じ人生が永遠に繰り返されたとしても、それを積極的に是認し、引き受けるのが「超人」だ、という思想だ。
しかし、この考えは時間というものを自我の中に閉じ込めておく発想だと私は思う。時間は自我の中を通行していく。それ故に、それを引き受けるのが「可能」であるような時間しか、自我にはやってこない。
ニーチェのアイデアにおいては、そのような自我を変容させる外部としての時間はイメージされていない。あくまでも時間は自己意識の内部を通行するし、自己意識によって手懐けられた時間でしかない。
というのは、時間が経過し、世界が変容し、それによって永劫回帰する生を受け止めようとする自我そのものが変容してしまえば一体どうなるだろうか? ニーチェにおいてはそうした時間は想像されていない。
だが、こうしたニーチェ的な時間観念というのは、人間が作り出す様々な観念とも関わりがあるのではないか、と私は思っている。
例えば「永遠」という観念があるが、我々は「永遠」という観念になんとなく静的なものを見出す。
「永遠」という観念を夢想できる人間という種が存在している。そこに「永遠」の時間が流れる、と言った時、我々はなんとなく、永遠というものが静的に続いているのをイメージする。
永遠という時間感覚が変転極まりないもので、その変転が時間や空間に対する規則それ自体を捻じ曲げてしまう、そう考えるともう、永遠という概念が成立できない。
永遠という概念そのものが、実際には時というもの、時は流れていくものだという、そういう我々の感覚を元にした観念に過ぎないのであって、もし、永遠を含めた全てが変化する「永遠の時」というものが現れたとしたら、我々にはそれはどういうものかわからなくなる。そこでは「永遠」という観念そのものが変容してしまうから。
だから「永遠の時」「無限の時」などと言っても、そこには明白に限界がある。それは我々の認識能力自体の限界だ。
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こうして時間というものについて書いてきて、一体、私は何を言いたいのか。
ただ私は、時間というものは私の外部を流れているものではないか、そう言いたいだけだ。
だから人間が想像力をたくましくして、例えば「百年後の日本はどうなるか?」なんて真剣に議論しても大した意味があるとは思われない。
ネットにはこういうお遊びをしたがる手合が多いが、「百年後の日本はどうなるか?」という議論をしている人々は、あくまでも「今」を生きているのだ。「百年後の日本はどうなるか?」という議論をあくまでも、「今この時」にしているのだ。
そんな事は人はわかっている、と言うかもしれない。しかしそうした議論というのは、結局は現代の延長としての百年後を議論する事にしかならない。そして未来が、現在の延長として、つまり我々が前提している様々なものがそのまま未来でも同じように存在しているとは限らない。
そこでは我々の議論の土台そのものが崩壊しているかもしれない。しかし、議論の土台の崩壊した後の未来を議論する事はできない。もしできたとしてもそれはあまりにも抽象的で、意味のない議論となってしまうだろう。
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私自身は「時」が我々の外部に存在している事を期待する。そしてそれがどういうものになるかはわからない。
私が川べりを走って感じた事は、自然が生きていて、変化しているという事だ。生きて、変化しており、私もまたその一部なのだ、という事。それは概念を越えて、存続していくだろう。…これは私の自然に対する「信仰」であって「理解」ではない。
孔子は次のように言っている。
「子、川のほとりにありて曰わく、逝く者は斯くの如きか。昼夜をおかず」
川は昼とか夜とかいった人が作った概念を越えて、とうとうと流れていっている。時間は、人間の観念を割って先へと進んでいく。
私は川を走りながら、自然が生きて運動しているのを感じた。そしてそうした全ては、私の自我を越えて運動していくものであろう。私はその事を感じた為に嬉しかったのではないか。
そしてそれは自我が世界に溶け込むような経験、つまり自我の「内部」を時間が通行するような体験ではなく、自我の外側の変化を生み出す時間そのものの一部に私がなった、そのような経験ではなかったか。




