第83話 名乗りあう不思議な空間
「残念ですが、まだ名乗られていないので、別の名で呼ぶのは無理です」
知っている名前はリンのみ。姫君ではなく、市井で出会った少女の名前だった。きちんと名乗りを上げていない状況で、互いに名を呼ぶのは不敬に当たる。もっともな理由で、ルイは切り抜けた。この辺は、王子教育の賜物だ。
厳しかった教師と母に感謝しながら、ルイは堂々と言い放った。なるほどと納得する姉達をよそに、皇太子シンは渋面を崩さない。
「では名乗ればいいですね。倭国、皇太子シンと申します」
「同じく、長姫アオイですわ」
「次姫ヒスイです」
淡々と挨拶する兄や姉と真逆に、アイリーンは満面の笑みで挨拶をした。その膝は白い小狐と子犬が、小競り合いを続けている。
「末姫のアイリーンよ。よろしくね」
倭国では皇族は家名を持たない。そのため名前だけを口にするのが日常だった。その辺の常識の違いは、自国で学んでいる。多少の違和感はあるが、ルイはすんなり受け入れた。
倭国側が先に名乗ったため、ルイもバレている王子としての名を口にした。
「フルール大陸のルイ・フレイム・ビュシェルベルジェール、留学生です。この度はお騒がせしました」
申し訳ないと頭を下げるのは、個人的に可能だ。だが王族と名乗った以上、簡単に下げられない。そこはシンも理解できるし、逆に好感を抱いた。まともな教育を受けているらしい、と。
「東開大陸とフルール大陸の間で商人をする、セザール・バローにございます」
黙っていようと思ったのに、促すような視線で待つルイに負けて、バローは名乗った。王族でも貴族でもないのに、この場で一緒に名乗るのは絶対に違う。そう思うが、王子の意向を無視もできない。彼の苦しい立場に気付いたのか、アオイが気の毒そうな目を向けた。
「ねえ、シン兄様。もうリンと呼んでもらってもいいの?」
「ダメだよ」
この子はまったく理解していない。シンは肩を落とした。リンと呼ばせないために名乗ったのだ。渋い顔の兄の苦労を、ルイは苦笑いで受け止めた。これは貴族令嬢を呼ぶ際の礼儀を適用すれば、簡単に理解できる。
アイリーンは愛称を呼ばれることに対し、特に気にした様子はない。大切に守られてきた子なのだろう。一般的に愛称で呼んで許されるのは、家族、幼馴染みや婚約者くらいだ。勝手に呼べば、非常識のレッテルを貼られる。
ここは俺が先に折れるべきか。ルイは冷静に判断して名を口にした。
「アイリーン姫、今後はこう呼ばせていただきます」
「……そうしてくれると助かる」
ああ、苦労しているんだな。ルイはそう感じ、同情を滲ませる。敏感に察したシンは曖昧な笑みで頷いた。長男と次男なのに、不思議と通じ合ってしまう。
バローは早くこの部屋から解放されたいと、壁の模様を数え始めた。現実逃避するバローを見ながら、アイリーンは首を傾げた。何か変わったもの、壁にあったかしら。




