334 安らぎを求めて
藤城皐月はこの日、晴れない気持ちで学校生活を送った。浮つかず穏やかに、無難に今日一日を過ごした。そして誰ともつるまずに一人で学校を出た。
帰り道では仄かに明日美に会える期待感を抱きながら検番の前を通った。だが、二階の稽古場には芸妓の気配がなかった。
明日美は家にいるに違いない……そう思うと皐月はいてもたってもいられなくなり、明日美に電話をした。
「もしもし。皐月だよ。今大丈夫?」
「大丈夫よ。どうしたの?」
「今から行ってもいい?」
「いいよ。待ってる」
電話連絡が上手くいき、皐月はホッとした。メッセージでは連絡がつかないかもしれないと思い、苦手な電話をかけた。皐月は明日美の優しい声に救われた。
通学路の細い路地を抜け、右へ曲がるところを左へ曲がって明日美のマンションへ向かった。すぐ近くまで来ていたのがプラスに働き、ごちゃごちゃと考え事をする暇がなかった。
皐月はマンションのエントランスの暗証番号を覚えているので、パパッと番号を入力して中へ入った。すると、エレベーターから同じクラスの伊藤恵里沙が出てきた。恵里沙は同じクラスのインフルエンサーの新倉美優や、お調子者の長谷村菜央と仲がいい。
「あれっ? なんで藤城君がここにいるの?」
「うん。ちょっと友達のところに寄り道。伊藤さんってここに住んでたんだ」
「そうだよ。ねえ、友達って噂になってる五年生のかわいい子?」
「そんなわけないだろ。もしそうなら伊藤さんと彼女は同じ通学班ってことになるじゃん」
「あっ、そうか!」
「俺の友達っていうか、親の友達に用があってね。じゃあ、また学校で」
恵里沙なら雑にごまかしても大丈夫だと思い、皐月はエレベーターの扉を閉めた。
学校の教室で見る恵里沙とは違い、プライベートの恵里沙は一人でいるせいか、力の抜けた感じが素朴でかわいかった。恵里沙は本来、穏やかな子なのだろう。存在感の強い美優と一緒にいるのは神経を使うのかもしれない、と皐月は恵里沙のことを気に掛けずにはいられなかった。
皐月は明日美の部屋に来たことがあるので、もう緊張感はなかった。インターホンを押すと明日美が出てきた。
明日美は白いパーカーを着て、白のジャージをはいていた。家でくつろいでいたのだろう。検番の京子がいつも明日美のことを心配しているが、この日は元気そうなので安心だ。
明日美は軽くメイクをして、髪をポニーテールにまとめていた。自分のために急いでかわいくなったと思うと嬉しくなる。
「急に来ちゃって、ごめんね」
「何言ってんの。いつでも来てって言ったでしょ。上がって」
皐月は入屋千智と選んだ新しい靴を脱ぎ、明日美の部屋に上がった。
居間は相変わらず真っ白で統一されていて、生活感のある物が何もなかった。居間の片隅にランドセルを下ろしたが、なんとなく落ち着かなくてその場に立ち尽くした。
「座ってて。お茶を入れてあげる」
この部屋は明日美の匂いで満ちていた。服に沁み込んだ明日美の匂いに及川祐希が反応するかもしれないと思うと、気が重くなってくる。
「皐月から家に来てくれて嬉しいな」
「うん。会いたくなっちゃって……」
明日美はタンブラーを一つだけ持って来て、皐月の横に座った。軽いアイメイクとリップだけのほぼスッピンなのに、明日美は息を呑むほど美しかった。
「髪の毛を切ったのね。いいじゃない。女の子みたいに髪が長かった時の皐月もかわいかったけど、今の髪型の皐月は格好いいね」
「ありがとう。明日美は女性的な俺のことが好きなのかと思ってたから、髪を切ってちょっと不安だったんだ」
「中性的な皐月もいいよ」
明日美に髪をなでられた。身体を寄せて来て、髪をつまんで弄び始めた。
「きれいな紫……。私もこういう色にしてみたいな」
「芸妓ってカラーしちゃダメなの?」
「この辺りだけで芸妓をするならいいかもしれないけど、私は余所にも仕事で行くことがあるからダメかも。他はみんな伝統的っていうか、豊川が緩いんだけどね」
一度廃れた豊川芸妓を再興するために、老芸妓で組合長の京子が改革をした。伝統を尊重しながらも、若い芸妓を集めるために、現代のセンスを取り入れた自由な芸妓を目指す方針を打ち立てた。
そのため、豊川の芸妓はコンパニオンみたいだと誹謗中傷を受けることもあるが、明日美や満、薫など若い芸妓が増え始めている。若い女の子の収入を確保するために、京子の娘の玲子がクラブの経営を始め、芸妓とホステスを兼任させている。
「昨日、満姉ちゃんと名古屋に服を買いに行ってきた。満姉ちゃんはロリータファッションの服を着て、ピンクのウィッグをつけてたよ。まるで西洋人形みたいだった」
「へぇ〜。かわいい満ちゃん、見たかったな〜」
「写真撮ったけど、見る?」
「写真あるの? 見る見る」
皐月はいつか明日美に写真を見せることになると思い、嫉妬を呼び起こす可能性のある写真を全て隠した。これは明日美だけへの対策ではなく、真理や祐希に見られてもいいように配慮してある。
「わあっ! 満ちゃん、かわいいっ! 私も満ちゃんとデートしたかったな」
「そんなこと言ったら満姉ちゃん、悶絶して喜んじゃうぞ」
皐月は明日美のことが大好きな満にこの言葉を聞かせてあげたいと思った。でも、満の恋人の薫は明日美とのデートを許さないだろう。
「皐月の着てる服って満ちゃんが選んだのだよね。……このテーパードパンツは私と一緒に買ったのだ。どっちもよく似合ってるね」
「このベスト、古着屋で買ったんだ。頼子さんが昔こういうベストが流行ってたって言ってたよ」
「満ちゃんってこういう昔の服が趣味だったんだ……。意外だな。あの子ならもっと派手な服を選ぶかと思ってた」
皐月は満との関係を全く疑っていない明日美を見て安心した。秘密を守ることは絶対だ。
「満姉ちゃんは自分の趣味を勧めるんじゃなくて、俺に似合いそうな服を選んでくれたみたい。でも、このベストってレディースなんだよね。やっぱり俺って女っぽい服が似合うのかな?」
「皐月は綺麗な顔をしてるからね。でも男っぽい服だって似合うよ」
「自分で選んで買った服もあるよ。そっちは全然女っぽくないから。また今度着て来るね」
今日の皐月は情緒不安定で、学校では誰と話していてもどこか寂しいと思っていた。だが明日美と話をしているうちに徐々に気持ちが安らいできた。この感情は真理と一緒にいる時と少し似ていると感じた。




