322 刺激的な新しい世界
満の駆るホンダ・ビートはゆっくりと焼肉屋の前を通り、突き当りを右折した。いつも買い物をする八百屋の前を通ると、また一本の道に突き当たる。その道は豊川稲荷の表参道で、左折すると豊川稲荷の楼門に至るが、この日は右折した。
日曜日の表参道は参拝客が多い。それほど広い道ではないので、ゆっくり走らなければならない。そのため、この珍しいオープンカーは参拝客の好奇の目に晒される。藤城皐月は恥ずかしくてたまらなかったが、運転している満は涼しい顔をしていた。
「ねえ、みんなが見てるけど恥ずかしくない?」
「もう慣れた。ビートは目立つから、みんなに見られるのは仕方ないね。皐月もそのうちに慣れるよ」
「車が目立つからじゃないよ。満姉ちゃんがカワイイからみんな見てるんだよ」
「本当にそう思ってるぅ?」
「当ったり前じゃん。俺って嘘下手だから」
皐月は正直、満がこんなにかわいいとは思っていなかった。満の芸妓姿も稽古姿もかわいいとは思っていたが、満が本気でカワイイを狙いにいくと、ここまで突き抜けるとは驚きだった。
古本屋の竹井書店の前を通ると、女店主がちょうど店から出てきたところだった。皐月に気が付いたようで、驚いた顔をしていた。走り去る時に皐月は彼女を目で追って手を振った。表参道を抜けると、道は片側1車線に広がった。
「やっと普通に走れる道に出た」
満はエンジンの回転数を上げてシフトアップをした。加速で体がシートに押し付けられる。皐月はオートマの車しか知らなかったので、満の操作が何なのか気になった。
「左手で何をしているの?」
「これ? シフトチェンジだよ。エンジンの回転数を上げて、ギアを一つずつ上げていくの。自転車の変速ギアと一緒って言えばわかるかな?」
「わかる。坂道だとギアを軽くするんだよね」
「そう。軽いギアで一所懸命ペダルを漕いでも全然スピードが出ないでしょ?」
「出ない。力が要らないから楽でいいなって思うんだけど、全然先に進まないんだよね」
「車も自転車と同じで、低いギアでいくらエンジンをまわしても出せるスピードには限りがあるの。だからギアを上げていかなきゃ速く走れないの」
飯田線の踏切に差し掛かると警報機が鳴って遮断機が下りてきた。満はビートの速度を落として停止した。
「今って何速?」
「ニュートラル。わかるかな?」
「ニュートラルって言葉は聞いたことがあるけど、意味はわかんない」
「車でニュートラルっていうと、エンジンを駆動系から切り離して、動力が伝わらない状態にすること。だから何速でもない状態。ビートのような車は停止している時にギアをニュートラルにしておかないと、エンジンが止まっちゃうの」
電車が目の前を通り過ぎるまで、皐月は満からマニュアル車についてレクチャーを受けた。車の仕組みを何となく理解できた気がした。
「皐月が聞いたことのあるニュートラルって言葉は、人間関係で立場が中立って意味だよね、きっと」
「ああ〜、そうだったかもしれない。じゃあ俺が知ってるニュートラルは比喩なんだ」
「そうそう。皐月ってもしかして勉強できる方?」
「まあね。結構できる方だと思う」
「ふ〜ん。そうなんだ」
満の反応が皐月にはよくわからなかった。皐月の印象では、豊川の芸妓組合には頭の悪そうな人はいないように感じていた。その中で満は結構バカっぽい扱いを受けているけれど、説明のわかりやすさから、皐月には満がバカには見えなかった。満がおバカなキャラを作っていると考えると、満のことが少し怖くなった。
「ニュートラルだとエンジンを吹かしても動かないから、こういうこともできるの」
満がアクセルを踏むと、フォンと車が吠えた。イキった輩が暴走族みたいに大きな音を出すのは、ニュートラル状態でエンジンを空吹かししているからだ。
「ビートはね、エンジンが良く回るし、レスポンスもいいからすっごく気持ちいいの。軽自動車だし、ターボもついていないからメッチャ遅いんだけどね」
満がビートのことを話している時の雰囲気がオタク的な愛情に溢れているように感じた。皐月はオタク気質の人間が大好きなので、満がただの車好きなのか、オタクなのかを話しながら見極めようと思った。
視界の先に国道151号線を横切る高架の道路が見えた。あれが東名高速道路だ。皐月はまだ車の助手席に乗って高速道路を走ったことがない。
「高速に入るから窓を上げるね。ウィッグが飛んじゃったら大変だから」
満が風を除けるためにサイドウィンドウを上げた。横の窓を上げるだけで室内に風がほとんど入って来なくなった。それでも屋根が開いているので、解放感はあまり損なわれていない。
インターに進入してループの道に入ると満がスピードを上げ始めた。皐月の体は横Gで満の方に持っていかれた。ジェットコースターに乗っているみたいだ。
「ヤッホー! 気持ちいいっ! ハハハハハ」
満のテンションがおかしくなっていた。顔を見ると恍惚の表情をしていた。
皐月は満に狂気を感じた。だが狂気は満だけじゃなくて皐月にも伝染したようだ。スピードとスリルに気持ちが良くなり、もっとスピードを上げろと興奮していた。今までずっと穏やかな暮らしをしてきた皐月だが、満とのドライブで刺激的な新しい世界を知ってしまった。
ETCのゲートを抜けると、満はアクセルをベタ踏みにしてエンジンを全開にした。レッドゾーンの8500回転まで一気にエンジンを回して、素早くシフトアップをする。軽快なエンジン音と共に加速する景色は低い目線と相まってスピード感が抜群だ。しかしスピードメーターを見ると特別速いというわけではない。
「こんなに目いっぱい走っても、大して速くないんだね」
「だからいいんじゃない。大きいエンジンの速い車だと、街中ではせいぜい1速か2速くらいしか使えないでしょ。ビートなら3速4速、なんなら5速まで使えるんだよ。その方が楽しくない?」
「あぁ〜、力を持て余すか、目いっぱい暴れまくるかの違いってこと?」
「そうそう。皐月はまとめるのがうまいね」
高速道路をクルージング中、満はずっとビートの魅力について語っていた。皐月が上手に質問したり受け答えしたりしていたので、満はずっと上機嫌だった。
満に影響を受け、皐月もすっかりビートが気に入ってしまった。運転免許を取ったらビートに乗ってみたいと思うようになっていた。




