312 破られた神前の誓い
藤城皐月は栗林真理の家に来ていた。芸妓をしている母たちは二人ともお座敷に出ている。
「凛姐さんと俺のママ、別々のお座敷みたいだな」
「お母さんは明日美姐さんと一緒なんだって。だから今日はちゃんと家に帰ってくるけど、帰りは遅くなると思う」
「そうか……良かったな」
「もう帰って来ても来なくても、どっちでもいいけどね。独りは独りで気楽だし」
皐月には真理の言葉が本心なのか強がりなのか、わからなかった。だが、以前よりはメンタルが安定していることは伝わってきた。そんな真理の変化が嬉しかった。
「今日さ、頼子さんもお座敷に出てるんだ。だから家で晩御飯をたべられなくてさ。真理、俺の晩飯付き合ってくれない?」
「いいけど……私の晩御飯、お母さんが用意してくれてるの。どうしよう……」
「真理は凛姐さんの作ってくれたものを食べればいいじゃん。俺はどこかでパンを買ってくるよ。ママや頼子さんにも菓子パン食うって言ったからさ、ごみを持ち帰りたいんだ」
「へぇ……皐月も私みたいにアリバイ工作するんだ。悪い子だね」
「当たり前じゃん。俺がいい子のわけないだろ?」
真理がベッドサイドにある月を象ったナイトライトの明かりをつけた。ベッドから立ち上がり、窓辺にいる皐月のもとへやって来た。真理から皐月に抱きついてきて、軽い口づけをしてきた。
「窓の外から見えちゃうぞ?」
「見せてあげてるのよ」
「お前、バカだろ?」
今度は皐月からキスをした。真理には華鈴へしたときのように優しくはしなかった。
(これで二人目か……)
貪り合うようなキスをしていると、快感と背徳感で理性を抑えられなくなってきた。目の前にベッドがあるのが見えた。皐月は真理の身体を押し、ベッドに倒した。
「ちょっと……服がしわになっちゃう。明日、塾に着ていかなければならないんだから……」
「じゃあ脱げよ」
「皐月、いやらしい!」
「いやらしい俺は嫌い?」
「好き」
夜が迫って来た。真理は皐月の顔を引き寄せ、官能的でねっとりとしたキスをしてきた。皐月はメイクの崩れが気になって、顔を離した。ピンクのリップが少し乱れていたが、枕元の月影に照らされた真理はえもいわれないほど美しかった。
「真理。舌、出して」
「こう?」
真理は遠慮がちに、チロッと閉じた口から舌先を出した。皐月は真理の顎に手をかけて口を開かせ、真理の舌を舐めた。しばらく舐め合った後、服の上から、皐月はまだ育つ前の胸に手を当てた。胸を揉みしだき始めると、真理は自分から服を脱ぎ始めた。
真理の住むマンションを出て家に帰ると、及川祐希はまだ家に戻っていなかった。祐希は嗅覚が鋭いので、皐月は真理の匂いを消すために風呂に入った。
風呂から出て自分の部屋に戻ると、隣の祐希の部屋の明かりがついていた。祐希はもう帰っているようだ。皐月は二人の部屋を隔てている襖をノックした。
「祐希、お帰り」
小さな声で「ただいま」と返事があった。声にあまり元気がないように感じた。祐希の態度が少し気になったが、今はそれどころではない。自分のやるべきことが全然やれていない。
皐月は学校から持ち帰ったバスレク用のプレイリストを作ろうと思い、机上のノートPCを立ち上げた。ヘッドフォンをして音楽配信サイトを開き、みんなのリクエストの書かれたメモを見ながら曲を検索し始めた。
襖がノックされ、祐希が皐月の部屋に入って来た。祐希は暗い廊下を通りたくなくて部屋に入って来たのだろうと思い、皐月は振り向きもしないで作業に没頭していた。
「何してるの?」
祐希が背後から肩越しに顔を寄せて来た。思わず祐希の方を見ると、顔が至近距離にあった。もう少し大きく振り向けばキスをしていたかもしれなかったが、ヘッドホンが邪魔でできなかっただろう。皐月はおもむろにヘッドホンを外した。
「修学旅行の帰りのバスの中で流す音楽を集めてる。みんなから好きな曲を聞いたんだ」
「ふ〜ん。ちゃんと修学旅行の委員をやってるんだ」
祐希は相変わらず顔を寄せたまま画面を見ていた。皐月はここで祐希が制服姿のままだと気が付いた。着替えの入ったトートバッグを床に置き、祐希は皐月の肩に手をかけて、また顔を寄せてきた。
「祐希。顔、近い」
「嫌なの?」
「別に……」
祐希の声のトーンが低かった。皐月には元気がないと言うよりも、機嫌が悪そうに感じた。
「皐月、いい匂いがするね」
「風呂上がりだからな」
祐希の様子が少しおかしい。何があったのかわからないが、皐月には画面を見つめている祐希から言い知れない哀しみが伝わって来た。理由を聞いてはいけない気がした。
「そんなに顔が近いと、キスしたくなっちゃうんだけど……」
「したかったら、してもいいよ」
祐希は無感情に画面を見ていた。ぶっきら棒に言われた瞬間は神経を逆撫でされたが、よく見ると祐希は画面を見ているようで見ていないことがわかった。
皐月はそっと頬に口づけをした。祐希が動くまで、ずっと唇を触れたままでいようと思った。
「そんな遠慮しなくてもいいのに」
祐希から皐月の唇にキスをしてきた。今日はキス慣れをしていたせいか、皐月は抵抗なく祐希のキスを受け入れてしまった。
(これで三人目だ……)
祐希は捻じ込んできたが、まるで愛情を感じられなかった。皐月が舌を絡めると、祐希は少し乱暴に吸ってきた。ヤケになってるのかと思った。こんなことをされていても切なくなるだけなので、皐月は体を反らしてよけた。
「ちょっと待って。この体勢、首が痛い」
「あっ、ごめん……」
椅子から立ち上がり、祐希と向き合った。制服姿の祐希を見ていると、皐月は荼枳尼天の前で煩悩を祓うと決意したことを思い出した。
今日はすでに三回も誓いを破っている。罪の意識に苛まれ、心がぐちゃぐちゃになってきた。今、目の前には祐希しかいないのに、真理のこと、華鈴のこと、明日美のことが頭の中を点滅するように去来した。
「皐月、怒ってる?」
「……怒ってないよ」
皐月には祐希が高校生で自分より年上なのにひどくか弱く見えた。さりげなく抱き寄せてみると、そのまま身体を預けてきた。制服から埃と汗の臭いがした。
「祐希からキスしてくれて嬉しかった」
これは半分本心だ。だが皐月には祐希が何を考えているのかわからなくて、言葉とは裏腹の気持ち悪さを感じていた。
「また千智ちゃんに悪いことしちゃった……」
「俺は蓮に悪いなんて全然思わないけどね」
「ロータス?」
「英語にした。祐希の彼氏の名前なんてストレートに言いたくねーからな」
皐月が乱暴にキスをしても、祐希は逃げなかった。深く舌を挿し込んでも、祐希は前の時のように慌てて唇を離すようなことはせず、吸って絡めて応えてくれた。
心が気持ち悪くても、体が気持ち良くなってくる。皐月は何もかもがどうでもよくなってきた。一日で三度も戒律破りをしていると、自分の良心が信じられなくなってくる。
祐希がどんな気持ちでキスをしてきたかはわからないが、皐月は祐希を拒否して突き放す気にはなれなかった。祐希は今も自分にしがみつくように抱きついている。
二人しかいない世界なら、モラルよりも相手の気持ちに呼応することの方が大切じゃないかと、開き直って自分を納得させようとした。だが、皐月にはまだ恥ずかしく思う心が残っていた。