310 痴話喧嘩
藤城皐月が4組の教室に戻ると、皐月の班は栗林真理しか席にいなかった。真理は相変わらず受験勉強をしていた。
「真理、一人なんだ」
「うん。金曜日はいつも絵梨花ちゃんも千由紀ちゃんも図書室に行ってる」
「ああ……返却日か。真理は図書室で本、借りないんだ」
皐月は自分の席に座った。真理は勉強している手を止めて振り返り、後ろの席の皐月の方へ体を向けた。
「私は読みたい本があれば買うから。……ねえ。……今日、家に来てよ」
皐月は一瞬、躊躇した。荼枳尼天の神前で誓ったことを思い出した。その決意はすでに破ってしまったから、罪の意識と自己嫌悪で血が濁るような感覚になった。
「いいよ。実行委員の仕事が終わったら行くわ。でも、今日は家で晩御飯を食べなきゃならないから、6時までには帰る」
「わかった。じゃあ、待ってる」
真理は身体の向きを元に戻し、再び受験勉強を始めた。皐月は朝の読書で読んでいた芥川龍之介の文庫本を取り出し、『或阿呆の一生』を読み始めた。
二人は教室内ではあまり仲良くし過ぎない方がいいんじゃないか、と気にするようになっていた。皐月には真理がどうして周りに配慮するようになったかわからないが、皐月は他の女子に真理との恋愛関係を悟られたくないという、ズルい気持ちで真理とのことを隠している。
昼休みの終わりを告げる予鈴が学校中に鳴り響いた。
帰りの会が終わった後、皐月は修学旅行実行委員の筒井美耶の前の席に座り、みんなの好きな曲を書いたメモを見せてもらった。全員分が揃ったかどうかを確認していると、皐月たちの周りに女子が集まり始めた。
「ねえ、藤城君。昼休みに3組の野上さんに引っ叩かれたって本当?」
真っ先に聞いてきたのは恋愛話の好きな惣田由香里だ。仲良しの小川美緒と松井晴香が由香里の後ろで聞いていた。美緒は心配そうな、晴香は機嫌の悪そうな顔をしている。
「本当」
「ねえねえ、何があったの? 喧嘩?」
「そう。ただの喧嘩。別になんもねーよ」
「痴話喧嘩?」
昨日、美耶の真似をして皐月をからかった長谷村菜央が皐月と由香里の会話を茶化そうとした。
「まあ、そんなとこ」
一緒にいた伊藤恵里沙と新倉美優から歓声が上がった。恵里沙も美優も学校内のゴシップが大好きだ。
「藤城君と野上さんってしょっちゅう喧嘩してたよね。でも藤城君が鼻血出すくらい殴られるとか、なかったよね?」
5年生の時に皐月と同じクラスだった浅見寿々歌が心配している。寿々歌と皐月は5年生の時に同じクラスだった。
「鼻血なんか出してねーし。なんか話が大きくなってねーか?」
「私はボコボコにされたって聞いたよ」
恵里沙の聞いた話も大げさに盛られている。
「大丈夫? 怪我しなかった?」
「大丈夫だよ。見りゃわかるだろ?」
美耶は本気で心配している。確認しなくてもわかることを聞かれ、皐月は美耶のことを鬱陶しく感じた。
「どうせあんたが野上さんを怒らせるようなこと言ったんでしょ?」
晴香は皐月のことをよく知っていて、図星を突いてくる。皐月はこの時やっと野上実果子に叩かれた原因がわかった。
晴香と実果子は気性の荒いところが似ている。だがコミュニケーション能力は圧倒的に晴香の方が高い。晴香のつもりで実果子をからかったから、実果子は怒ったのだろう。
「そうだよ。俺が野上のことを怒らせた」
「何を言ってた怒らせたの?」
「秘密」
どんな些細なことでも皐月は事情を話したくなかった。皐月の秘密主義を面白がっているのか、周りの女子たちが代わる代わる卑俗なことを聞いてくる。そんな彼女らの質問に皐月は全部「秘密」と答えた。
「もう仲直りしたの?」
うんざりしている中、二人のことを知る寿々歌は真剣に心配をしていた。
当時の寿々歌が皐月と実果子の関係をどう思っていたのかわからないが、5年3組の中では皐月と実果子は浮いた存在だった。寿々歌は皐月と実果子のことを遠巻きに見ていたような記憶しかない。
「仲直りしたよ」
寿々歌とのやり取りの中で場の空気が少し緩んだ。気持ちに余裕ができて周りが見え始めると、皐月は教室の外に実果子と華鈴が立っているのを見つけた。
「ちょっと悪ぃ」
皐月は席を立つと、廊下にいる実果子たちのところへ急いだ。そんな皐月を見て、女子たちがぞろぞろと後からついて来た。
「どうした?」
「実果子が謝りたいって」
華鈴がお節介を焼いたんだなと思った。昔は皐月と実果子が喧嘩をすると、いつも華鈴が仲裁に入ってた。華鈴はどことなくピリピリとしていたが、実果子は穏やかな顔をしていた。
「藤城、ほっぺた叩いちゃってごめん。痛かった?」
「痛かったー。口ん中、切っちゃった」
「マジ? ごめん!」
実果子が左頬をさすってきたので、皐月は実果子の右手を掴んだ。
「嘘だよ。怪我なんかしてねーよ」
「なんだ、嘘かよ!」
皐月は掴んでいた手を実果子に振りほどかれた。
「お前、手加減してくれただろ? 全然痛くなかったよ」
本当は痛かった。痛かったのは頬だけではなかった。
「野上と喧嘩するのなんて久しぶりだな。同じクラスだったら毎日喧嘩できるのにな」
「喧嘩なんかしたくねーよ」
「そりゃそうか。どうせなら仲良くしたいよな」
皐月と実果子が笑いあっているのを見て、4組の女子たちが何も言わず、静かに二人のことを見ていた。その背後から無表情で真理も皐月のことを見ていた。