289 小学生は親の庇護下にある
二人の間に気まずい沈黙が流れた。明日美がどことなく怯えているように見えた。藤城皐月は自分の行為が乱暴に過ぎたことを思い、取り返しがつかないことをしたんじゃないかと怖くなってきた。
「俺……帰った方がいいのかな?」
皐月は自分が姿を消すことしか明日美を安心させる術を思いつかなかった。
「まだ帰らなくてもいいじゃない。9時まで1時間以上あるでしょ?」
何の装飾もない白い壁でも時計だけは掛けられていた。
「……ここにいてもいいの?」
「いてよ」
「……うん」
明日美の意外な言葉に皐月は戸惑った。強い拒否反応にこの恋は終わったと思っていた。命拾いをしたような展開にホッとしたが、ショックが消えたわけではない。
「お願いがあるんだけど……」
「何?」
「私ね、皐月に見守られながら眠ってみたい」
「えっ? ……いいけど。明日美、眠いの?」
「まだ眠くない。ちょっと疲れただけ」
「俺と出かけたことで疲れちゃったんだ……」
車の中やレストランで感じた明日美の疲れは思い過ごしではなかった。慣れない運転による心労だけでないのかもしれない。
「病気をしてからは、できるだけ休むようにしているの。家にいるときはゴロゴロしていることが多いよ」
「そういえば、そんなこと言ってたね」
検番に住む、明日美の師匠の京子は明日美の過労を心配していて、皐月は明日美の身体を気にかけるようにと頼まれていた。
皐月はこの日、明日美が自分と会う前に稽古に根を詰めていた可能性を考慮していなかった。うかつだった。
「だから、ちょっと横になりたいなって思って……。そうしたら寝ちゃうかもしれないでしょ? その時、皐月がそばにいてくれると嬉しいなって……」
人はいくつになっても寂しいのかもしれない。一人で過ごすことが多かった皐月にはその気持ちがよくわかる。
「俺、明日美が眠るまで見ててあげるよ。でも条件がある」
「条件?」
「うん。条件は二つ。まず歯磨きをすること。それとメイク落としもね。このまま寝ちゃダメでしょ?」
明日美が目を丸くしていた。このまま寝てしまうのなら、本当はシャワーも浴びてもらいたいと思った。だが、そんなことを言うと明日美と一緒にいられる時間が削られると思い、皐月は条件を二つに絞った。
「皐月はしっかりしているのね」
「そんなの、当たり前じゃん」
明日美は皐月の肩に手をついて立ち上がり、洗面所へ行った。一人残された皐月は門限の時間の10分前に合わせてスマホのタイマーをセットした。
リビングで明日美を待っている間にメッセージをチェックすると、いくつかの着信があった。とりあえず既読にしておいて、返信は家に帰ってからすることにした。その後は明日美が戻ってくるまでインスタで鉄道写真を見て、時間を潰すことにした。
明日美が洗面所から戻って来た。メイクを落とした明日美には意外にも幼く、少女の面影がまだ残っていた。
「すっぴん見られるのって恥ずかしいな……」
「そう? 小学校じゃ女子は全員すっぴんだよ。それに明日美はメイクなんかしなくても、世界で一番きれいだよ」
「ありがと〜。皐月は本当にかわいいなぁ。チューしてやるよ」
明日美は昔のような台詞をいいながら、後ろから抱き締めてきて何度も頬にキスをしてきた。でもテンションは以前よりも高くなかったので、無理してはしゃいでいるんだなと思った。
皐月は明日美に合わせて子どものままでいようと思った。抱きしめられた感触がいつもよりも柔らかかった。
「これから寝るんだろ? ベッドで横になりなよ。俺、見ててやるからさ」
「ここで寝ちゃおっかな。テレビで動画を見ながらダラダラして過ごすのが好きだから、フカフカのマットにしたの」
「へ〜、そうなんだ。でもさ、こんなところで寝ちゃうと風邪引いちゃうから、蒲団に入らなきゃダメだよ」
「ふ〜ん。皐月はちゃんとしてるんだね」
「当たり前じゃん」
皐月は明日美を連れて寝室に入った。部屋の明かりはつけず、ベッドの照明をつけた。蒲団に入る明日美を見て、皐月はベッドサイドにしゃがみこんだ。
「見ててあげるから、寝ちゃってもいいよ。帰る時って玄関の鍵、どうしよう? あれって勝手に鍵がかかるやつ?」
「オートロックだから、ドアを閉めれば自動的に施錠されるよ。それよりもさ……こうして最初に話すことが、帰る時の話ってどうなの?」
「あぁ……そうだね。ごめん」
「帰る話なんかされると寂しくなるじゃない。……あ〜あ、帰らないでほしいな……。泊ってってくれるといいんだけど」
明日美が真理と同じことを言うことが面白い。真理の家だと母の凛子が帰ってきてしまうが、明日美の家には明日美しかいない。ここに泊っても誰からも責められることはない。
だが、家に帰らなければ母の小百合に怒られるし、それだけではすまないだろう。皐月は自分が親の庇護下にある小学生だということが悲しくなってきた。