287 光と闇が作り出す優しい幻想
食事が進み、残りが少なくなると明日美と藤城皐月の会話が増えてきた。
「満ちゃんと服を買いに行くっていう話もあったと思うけど、どうなってるの?」
満も皐月と買い物に行きたい、という話題になった。満の話は明日美も知っていることだが、皐月は少し緊張した。
「今週の日曜日にどうかって、ママから言われたんだけど……行かない方がいいかな?」
「えっ! どうして? 行けばいいじゃない」
「だって……明日美、嫉妬するでしょ?」
おどおどする必要はないとわかっていたが、皐月は明日美以外の女性と会うことが気まずかった。
「嫉妬なんてしないよ。満ちゃんなら大丈夫」
「満姉ちゃんなら大丈夫って、どういうこと?」
「あの子はね……私よりも男の人が嫌いなの」
「そうなの?」
芸妓は男嫌いばかりなのか、と皐月は不思議に思った。
考えてみれば母の小百合もそんな感じがするし、母の師匠の和泉や検番の京子からは男性に対して辛辣な言葉しか聞いたことがない。幼馴染の栗林真理の母の凛子のように、恋人のいる芸妓の方が珍しいのかもしれない。
「それに男の人よりも女の人の方が好きなんだって」
「ホント? それって、もしかしてレズってこと?」
「はっきりそういう話をしたことはないけれど、どうなんだろうね」
「明日美はそういうの、満姉ちゃんから感じたことある?」
「う〜ん、満ちゃんには懐かれているけど、そういう雰囲気は感じたことないな……」
皐月には満が普通の女性にしか見えなかった。満がレズビアンなら衝撃的な話だ。だが、明日美よりも男嫌いだということの方が気になる。皐月は自分が男だということに不安を覚えた。
「満ちゃんは私よりもずっとしっかりしているから、安心して皐月のことを任せられるわ。恐らく百合姐さんも同じことを感じているんじゃないかな」
「そうなのかな……。俺だって男だよ? だったら満姉ちゃん、俺のこと嫌いなんじゃないのかな?」
「満ちゃんには皐月のことがまだ男の子にしか見えていないと思うよ。皐月のことを男として見ている私がおかしいの」
明日美に男として見てもらえるのは嬉しいが、それがおかしいと改めて言われると、皐月は複雑な気持ちになった。
食事を終えた皐月と明日美はスヴァーハーを出た。母に着せられた長袖のシャツのお陰で夜の冷たい風に身体が冷えずに済んだ。
「帰ろうか」
「俺……9時までに帰ればいいんだけど」
門限まではまだ1時間半は残っている。皐月はいつまでも明日美と一緒にいたいと思っているのに、こんな日まで門限を設定した母のことを恨めしく思った。
「じゃあ、家に寄っていく?」
「いいの?」
「うん。本当はドライブに連れて行ってあげたいんだけど、ちょっと疲れちゃって……。ごめんね」
「そんなのいいけどさ……。疲れてるなら、俺、帰った方がいいのかな?」
「帰らなくてもいいよ」
「そう? ……わかった。じゃあ家で一緒に休もう」
「ありがとう」
明日美に「家に寄っていく?」と言われた時、皐月は気持ちが通じたことが嬉しかった。夜のドライブも楽しそうだが、皐月は明日美と家で二人になりたかった。
だが、明日美が本当に疲れて家に帰りたいのなら、明日美の言葉を手放しでは喜べない。車の運転で負担をかけたことを思うと心苦しい。
スヴァーハーからの帰り道、明日美は人気のない道を選んで車を走らせた。
店のない、家の明かりと街燈だけの夜道に、皐月は寂しさではなく、人の温もりのようなものを感じていた。少し前まではあの明かりの下に自分は独りでいた……皐月はそんなことを思い出し、感傷的になった。
皐月は自分のまわりに寂しい人が多いことに気が付いた。芸妓の子という境遇のためなのか、皐月の周囲には独身やシングルマザーが多い。
皐月の家は母子家庭だ。小百合寮に住み込みに来ている頼子もシンママになった。真理の家もそうだし、検番の京子もそうだ。
明日美は独身で、一人暮らしをしている。母の小百合の師匠の和泉もそうだ。京子の娘の玲子もそうだ。皐月が深く関わっている人たちは訳ありの人が多い。
闇に燈る家の明かりからはそれぞれの家の事情はわからない。皐月にはどの家も等しく幸せそうに見える。
それは人も同じだな、と皐月は考えた。人の持つ背景なんて、自分から知ろうとさえしなければ何も分かりはしない。その人の闇に首を突っ込まなければ、その人の知られたくない過去のことなんて知らずにすむ。人なんて、ただその人の放つ淡い光を見ていればいいのかもしれない。
夜景に寂しさを感じないのは、光と闇が作り出す優しい幻想なんだろう。皐月は窓の外を見ながらそんなことを思っていた。
「静かになっちゃったね。皐月って、よく物思いに耽るよね」
「あっ……ごめん」
「いいよ、何も話さなくても。皐月が隣にいてくれるだけで私は安心なんだから。それより私の方が皐月の邪魔をしちゃったみたい」
自分も明日美が隣にいるだけで心が安らいでいる。それは明日美が年上だから甘えているからだと思う。だが、自分の何が明日美を安心させているのか、皐月には全くわからなかった。