279 知らない景色
ここから先は藤城皐月が足を踏み入れたことのないエリアだ。レジェンド・クーペの広く低い助手席からは知らない景色しか見えなくなった。
車内には皐月には聴き慣れない、都会的で格好いい音楽が流れている。隣には芸妓姿でもなく、稽古姿でもない、大人の明日美がいる。
香水もどことなく都会の女性のような洗練された匂いを放っている。皐月は本革シートに身を沈めながら、現実離れをしたこの状況に不安を覚え始めていた。
スキャットのリフレインが印象的なこの曲が何なのか知りたくなり、皐月は明日美のスマホを見た。『SHADOW CITY』という寺尾聰の曲だった。歌詞を聴いても一度では意味が良くわからないが、心細さに拍車がかかっているような気がした。
縋るような思いで隣を見ると、明日美が真剣な顔をしてステアリングを握っている。車の運転はタクシードライバーの永井のように巧みではないが、悠々としていてエレガントだ。
芸妓姿の時の華やかさとは違って、美しさの中に儚さを感じるのは、皐月が明日美が命にかかわる病に冒されていることを知っているからだ。そんな明日美の横にいると、事故で一緒に死ぬのも悪くないな、と思った。
坂を下り、国道151号線に出た。観音堂の交差点で信号待ちになったので、皐月は明日美の右腕に手を掛けた。
「どうしたの?」
「ちょっと寂しくなった……」
「かわいいことを言うのね」
「遠いよ……」
タクシーの後部座席にしか乗ったことのない皐月にとって、高級車の助手席はセンターコンソールが邪魔をして運転席まで遠すぎた。
「後で抱きしめてあげるから、もう少し我慢してね」
信号が青に変わった。大きな交差点を右に曲がり、中央分離帯のある片側2車線の道をしばらく進んだ。周囲は田圃に囲まれていて、空がやけに広い。
城下交差点を左折すると、もう皐月には考えたことすらない遠い世界だ。陽はまだ高く、妙に健康的なのが心もとない思いにさせる。皐月の暮らす町にこんな空間はない。
車窓を流れる町並みは皐月の生活圏にはない建物ばかりだ。県道400号線沿いに立ち並ぶ全国チェーンの店たちを眺めていると、機能的だと思うが退屈で、駅前商店街とは違った光景に趣のない旅情を感じる。
しばらく走ると豊川放水路を渡る橋に出た。皐月の感覚だと、川の向こうが豊橋だ。
交通量が増えてきたので、気持ちよく走るというわけにはいかなくなった。心なしか明日美に余裕を感じられなくなったように見える。皐月は自分の買い物のせいで明日美に負担をかけていることに気が咎めた。
「皐月、大人しくなっちゃったね」
「うん……この辺りは全然知らないから、いろいろ珍しくて面白いよ」
皐月は沈む心を取り繕うように、少しでも明日美の気分が良くなることを言おうと思った。
「今までは車よりも鉄道の方が好きだったけど、車もいいね。道があればどこにでも行ける」
「ドライブならいくらでも連れてってあげるよ」
「ホント!?」
「私もせっかく車を買ったんだし、もう少しドライブを楽しまないとね。今は買い物か雑用にしか車を使っていないから」
皐月には市街地の中を運転している明日美がドライブを楽しんでいるようには見えなかった。
「ねえ、街中の運転って大変?」
「そうね……やっぱり事故らないように気を使うわね。それに、豊橋の道ってあまり走ったことがないから、よく知らないの。一応、予習はしてきたんだけどね。でも、そろそろナビに頼ろうかな」
「この車ってナビ付いてるの?」
「付いているけど、壊れてるの。まあ、壊れていなくても古すぎて使い物にならないと思うけどね。スマホホルダーに隠れている小さな画面がカーナビなんだよ。時代を感じるわね」
信号待ちになると、明日美は音楽を止めた。グーグルMapを起ち上げ、『コンパル』までの経路を出してナビを開始した。
「音楽止めちゃったけど、皐月のスマホにケーブルを繋ぎ直せば聴けるよ。今度は皐月の好きな曲をかけてよ」
明日美の車のオーディオ周りはややこしい。小さな機器がシガーソケットに刺さっていて、それにUSBケーブルが繋がれてスマホと接続している。
「ねえ、この機械って何?」
「FMトランスミッターってわかる? 音楽をFM電波に変換して発信する機械なんだよ。今まで聴いていた音楽って、ラジオ経由で聴いてたの」
「へぇ〜、面白い! 昔の車が Bluetooth なんか使えるわけないもんね。面倒だけど、なんかレアなゲームを攻略したって感じがして楽しいね」
「この車のオーディオって古すぎるから、AUX端子が付いていないのよ。でもね、カセットテープは聴けるし、CDだって6枚も入れられるのよ。もっとも私はCDなんて持っていないけどね」
「頼子さんがカセットテープいっぱい持ってるよ。頼子さんがこの車に乗ったら喜んじゃうね」