268 フリージア
藤城皐月は検番の表玄関の紅殻格子の引き戸を開けた。今日は誰も芸妓が来ていないかもしれないなと思いながらも、明日美に会えることを期待していた。だが、中はしんとしていた。
「皐月だよ。お母さんいる?」
奥から老芸妓の京子がゆっくりと現れた。皐月には京子が元気がなさそうに見えた。
「いらっしゃい。今日はどうしたんだい?」
「別に……。ちょっと寄ってみただけ。お母さん元気かなって」
「私は元気だよ。昼過ぎに明日美が来て、少し稽古をして帰ったよ。こんなとこ立ってないで、まあ上がりな」
皐月は勝手知ったる応接間のソファーにランドセルを置き、京子のいる台所へ行った。
「お母さん、コーヒーある?」
「ペットボトルに入ったのも、インスタントもあるよ。温かいコーヒーでも飲むかい?」
「アイスがいいな。ガラスの脚付きのタンブラーを使ってもいい?」
「いいよ。何でも好きなのを使いな」
皐月は食器棚から前に検番に来た時に出されたのと同じものを持ち出した。それはフリージアの彫刻がなされた美しいタンブラーだ。
「あったあった。これ使うね。この花ってフリージアだよね」
ソファーに座ってアイスコーヒーを飲みながら、スマホでフリージアの指輪を画像検索してみた。フリージアで稲荷小学校の校長先生のしていたフリージアの指輪のことを思い出したからだ。
検索してみると、婚約指輪がたくさん出てきた。さすがに今の皐月に買えるものではない。だが、もしも一回りも年上の明日美と結婚するなら、こんな婚約指輪を買ってあげたいと思った。
京子が温かい緑茶を湯呑に入れて持ってきて、皐月の向かいのソファーに座った。
「そのグラスは明日美のお気に入りでさ。あの子、フリージアが好きなんだって」
皐月は今まで明日美がフリージアを好きなことを知らなかった。校長のフリージアの指輪を見た時に、いつか明日美にフリージアの指輪をプレゼントしたいと思った。どうやらその考えは間違っていないようだ。
「俺もフリージア、好きだよ。かわいいし、いい匂いがするよね。そういえばさ、昔は検番の軒先にフリージアのプランターがあったけど、今はないよね。どうしちゃったの?」
「今年は球根を掘り上げたからね。明日美が球根を欲しいっていうから、少し分けてあげたよ。花が咲くのは来年の春なんだけどね」
「へぇ……」
「皐月にも分けてあげようか? 今から栽培しても、まだ間に合うよ」
「家は日当たりがいいところが二階しかないからな……。古い建物だから、ベランダなんてないし。家でも栽培できるのかな?」
「そういえばそうだったねぇ。百合んとこりは家が密集しているからねぇ……」
及川祐希たちが皐月の家に来るまでは二階の回廊の日当たりの良いところを独占できた。だが今は日の当たる部屋は及川親子に使ってもらっているので、皐月の日の当らない部屋では植物の世話をできない。
「俺は諦めるよ。花が咲く頃にまた検番に来るから」
フリージアの花が咲く時期は小学校を卒業して中学に上がる頃だ。皐月はいつまで検番に遊びに来ることができるのかと不安になった。
中学生になれば、もう子どもとは言えなくなる。検番は女の園だ。大人の男が出入りするような場所ではない。
「お母さん、明日美ってあれからお仕事減らしているの?」
皐月は芸妓の明日美の健康状態が気になっていた。メッセージのアカウントを交換しているのに、皐月はまだ明日美と直接やりとりをしていない。
「前から決まっているお座敷は断れないけれど、新しいお座敷は減らすようにしているよ。昨日も今日も、明日もお休みにしているからね」
「へえ〜。じゃあ少しは体が休まるね」
明日美の病気が命に関わるものだと知ってから、皐月は明日美がいつか目の前から消えてしまうのではないかという不安に駆られるようになっていた。
今の皐月には京子からしか明日美の情報を仕入れることしかできない。後ろめたい気持ちがあるので、母の小百合には明日美のことを聞けない。
「最近は稽古も減らしているの?」
「検番ではね。家では何をやっているのか知らないけどね。あの子は家で高卒認定試験の勉強をしてるって言ってたよ」
「そっか……。勉強は勉強で大変そうだな。真理が中学受験の勉強をしてるけど、いつも疲れた顔をしてるからな……」
「そうなの? 勉強って疲れるのかい?」
「そりゃ根を詰めて勉強すれば疲れるでしょ。お母さんってもしかして勉強したことないの?」
「あたしゃ昔から勉強なんてしたことなかったからね」
「マジか!」
京子が勉強をしたことがないというのには驚いたが、考えてみれば皐月も栗林真理のように勉強に打ち込んだことがなかった。