429 東寺講堂
次に訪れる講堂は金堂のすぐ隣にあり、東寺境内の中心に位置している。講堂は825年に着工され、796年に着工された金堂に比べてかなり年月が離れている。
「いよいよ二橋さんが見たかった立体曼荼羅だね」
「うん。楽しみ」
二橋絵梨花を先頭に藤城皐月たち六人は講堂に入った。今度は金堂の時のように立ち止まらなかった。皐月は絵梨花に続いて講堂に入った。
「おうっ、こっちも凄ぇ!」
絵梨花の手前、皐月は少し大げさにはしゃいで見せたが、第一印象は金堂の薬師三尊像の方が強かった。しかし、講堂の中に入って仏像群を眺めていると、立体曼荼羅も見応えがある。
立体曼荼羅とは二次元の仏絵で描かれた曼荼羅を、三次元の仏像で表現したものだ。曼荼羅とは密教の教えを図で示したもので、空海は二次元の曼荼羅では不十分だと思ったのか、曼荼羅を三次元化することによって修行僧たちへの理解を深めようとした。
「どう?」
皐月は合掌していた絵梨花に率直な感想を聞きたかった。
「う〜ん……写真や映像とは比べ物にならないくらい素晴らしいんだけど、情報量が多過ぎて目移りしちゃう」
「俺も想像以上にいいな〜って思った。曼荼羅を立体化するとか、空海って面白いことを考えるよね」
「少しは密教のことを勉強しておけばよかった。曼荼羅の知識があったら、もっと楽しめたんだろうな」
皐月は豊川稲荷の荼枳尼天について調べた時に曼荼羅のことを知り、勉強をしようと思ったことがあった。だが、曼荼羅に出てくる数多の仏を見てやる気が失せてしまった。あの時の皐月は栗林真理の夏休みの宿題を片付けるのに必死だったからだ。
「俺も知識がないから、空海の意図がさっぱりわからない。曼荼羅は仏像にするよりも絵のままの方が抽象度が高くてわかりやすいと思うんだけどな」
「曼荼羅の絵があってこその立体曼荼羅なんじゃない? 修行僧向けに作ったものだから、私たちみたいに曼荼羅の知識のない一般人には、本当の意味で立体曼荼羅の良さはわからないんだろうな」
悲しいことを言いながらも、絵梨花は楽しそうな顔をしていた。
「これは勉強し直して、またここに来なきゃいけないかな」
「だな。俺もそんな気持ちになった。曼荼羅っていうか、仏像のキャラのことを勉強して、いつかまた来る」
絵梨花を見ると妖しい微笑みを浮かべていた。次に東寺に来る時は絵梨花と二人きりになりそうな予感がした。絵梨花は視線を残しつつ、そっと皐月から離れていった。
皐月は須弥壇の左側の明王部にある五体の仏像に見入っていた。中央の如来部や右側の菩薩部よりも、力強い明王たちに皐月は魅かれていた。すると、真理がすぐ隣に来て話しかけてきた。
「絵梨花ちゃん、楽しそうだったね」
「実物は写真や映像とは全然違うって感動していたよ。伏見稲荷では時間のことを気にして自分を犠牲にしようとしていたけど、諦めないでここに来られてよかったよな」
「私も伏見稲荷の山の奥を見るよりも、東寺の五重塔や仏像の方を見たかった」
修学旅行の行き先を決める時、東寺に行ってみたいと思っていたのは絵梨花だけだった。そう思うと、ここへは絵梨花に連れて来てもらったようなものだ。
そして、秀真が伏見稲荷の参拝を短く切り上げたことも、ここでの時間を稼ぐことに貢献していた。皐月は自分が祇園に行くことを諦めたのも少しは時間稼ぎになったと思っている。
「でも、ここもそんなにゆっくりできないよね」
「そうだな……。ここなら京都駅から近いし、名鉄と在来線を使えば安くすむから、また来ようか」
絵梨花には言えない気持ちでも、真理には簡単に言えた。しかし、本心では一人でここに来てみたいという気持ちの方が強かった。
「名鉄と在来線って、どれくらい時間がかかるの?」
「んん……片道4時間くらい、かな?」
「ヤダ! そんなの。時間の無駄じゃない」
「そうか? 電車に乗ってるだけで楽しいだろ?」
「あ〜、皐月も鉄オタだったか……。新幹線なら一緒に行ってあげる」
「そんな金なんてねーよ」
皐月が今いる場所を離れて、右側の菩薩部の方へ移動すると、真理もついて来た。
「真ん中は見ないの?」
「最後に見るよ。真ん中の五体は一度焼失しているんだ。他の仏像は平安時代のもので国宝なんだ。土一揆で講堂が炎上した時、端の方の仏像はなんとか外に持ち出せたんだろうな。真ん中の如来部の五体と菩薩部の金剛波羅蜜多菩薩像は逃げ遅れたみたいだ」
「一揆か……宗教に民衆を救う力なんてないんだね」
皐月も真理と同じことを考えていた。宗教なんか痛み止め程度の救いにしかならないんだろうな、と思った。