411 稲荷神の起源
下鴨神社の参拝を終えた藤城皐月たち六人は京阪電車の出町柳駅に戻って来た。駅構内に入っても足を止めることなく、ホームに向かった。
階段を下りる途中で発車標と時計を見た。時刻は13時25分で、電車の発車する5分前だった。ここから改札を抜けてホームに行くまでは少し距離があるので、地下の店に寄り道をする余裕はなかった。
岩原比呂志を先頭にして、早歩きでコンコースを抜けた。改札を通り、さらに階段を下りると、1番ホームにはすでに中之島行き普通が停まっていた。
比呂志は7両編成の先頭車両へ班員五人を率いて、緑と白のツートンカラーの車内に乗り込んだ。始発駅だけあって、座席に六人がかたまって座ることができたのはありがたかった。みんな少し疲れが出ていた。
「伏見稲荷駅だから特急は停まらないんだな」
皐月は下鴨神社に来る時に乗った京阪8000系の豪華な内装が忘れられず、できることならもう一度乗りたいと思っていた。電車は定時に出発した。
「藤城氏、各駅停車も悪くないぞ。七条駅までは地下だからつまんないけど、東福寺駅からは地上駅だ。駅も車窓も変化があって楽しいよ」
「地上駅って言っても、東福寺、鳥羽街道、伏見稲荷で終わっちゃうじゃん。あっけね〜」
「おっ! 藤城氏、もしかして京阪本線の駅、憶えた?」
「いや……修学旅行の範囲内の駅しか憶えていない。もしかして岩原氏は全部憶えたのか?」
「さすがにまだ憶えていない。でもいずれは全部憶えたいな。今はJRの駅を憶えている最中だから、私鉄は後回しにしているんだよね。でも、せっかく修学旅行で京阪に乗れたんだから、こっちを先に憶えようかな」
「そうか……岩原氏がそのつもりなら、俺も負けてられないな。やっぱ、JRに限らず、私鉄も全線全駅は憶えたいよな」
皐月も比呂志も時刻表で路線図を眺めるのが好きな路線鉄だが、比呂志は駅訪問が好きな降り鉄で、皐月は駅舎を楽しむ駅鉄だ。皐月と比呂志は同じ鉄オタでも少し趣味が違う。
「なあ、岩原氏。京阪であれやる?」
「いいね。まだ途中までだけど、やってみようか」
皐月の言う「あれ」とは、皐月と比呂志が学校の休憩時間でやる遊びのことだ。
「せ〜のっ、出町柳・神宮丸太町・三条・祇園四条・清水五条・七条・東福寺・鳥羽街道・伏見稲荷」
皐月と比呂志は声を合わせて駅名の暗誦をした。
「龍谷大前深草」
「あれっ? 藤城氏、伏見稲荷までじゃなかったの?」
「龍谷大前深草は予定変更前に下りる予定だったから憶えてた」
「じゃあ、ここから先は僕がやる。藤森・墨染・丹波橋・伏見桃山・中書島・淀・石清水八幡宮・橋本。とりあえず京都府だけは憶えたけど、大阪府はまだ憶えていないや」
「お〜っ、京都府で区切ったか」
「特急停車駅だけは憶えたけどね。さすがに。でもまだ全然憶えていないから、恥ずかしい……」
皐月はあることに気付き、頭の中で復唱して確認した。
「なあ、岩原氏。この中に五七五があるぞ! 『丹波橋・伏見桃山・中書島』!」
「本当だ! すげ〜。『淀・石清水八幡宮』で五七五七七。あ〜、字足らず!」
「宮を伸ばしてもダメか。ぐう〜」
「ハハハッ!」
皐月と比呂志がはしゃいでいる間、神谷秀真は女子たちに稲荷についてレクチャーしていた。
「伏見稲荷の辺りは深草っていってね、弥生時代から栄えていた大規模な農耕集落だったんだ。遺跡もあるんだよ」
秦伊侶巨(伊侶具)は稲作で裕福な暮らしをしていた。餅を的にして矢を射ると、餅が白鳥になって山へ飛んでいった。その白鳥が降りた所に稲が成った。そのことを昔の言葉で「伊禰奈利」といい、伊奈利という社を建てた。
「この出来事は伏見稲荷大社の始まりとなった711年の話だよ」
「じゃあ、稲荷の神様って、この時までいなかったってこと?」
栗林真理が秀真に疑問をぶつけた。
「これは難問なんだよな……。伊奈利社は確かにこの時が始まりなんだけど、それ以前に伏見稲荷大社の御祭神の宇迦之御魂神というか、食物の神への信仰はあったんだよね」
宇迦之御魂神は日本神話に登場する女神で、穀物など食物の神だ。人が生きていくためには食べ物が必要だ。暮らしの中で神様を信じるのなら、食べ物の神様への信仰心が生まれるのは必然だ。
「伏見稲荷よりも古い稲荷神社はあるんだ。和歌山県有田市の熊野古道に稲葉根社という神社があって、創建は535年。日本最古の稲荷跡と言われている。祭神は倉稲魂命で、今の伏見稲荷大社と同じだよ」
秀真は皐月と違い、真理を相手に容赦なく情報を浴びせかけた。真理だけでなく、二橋絵梨花や吉口千由紀も真剣に秀真の話を聞いていた。
「稲葉根が稲荷ってこと?」
「う〜ん、音の響きが似ているから有り得るな……。稲葉根社はもともと山の上にあったんだけど、氏子が参拝しやすいよう、社を山の麓にも造ったんだ。その時に稲葉根社を稲荷社って言うようになってね、今では糸我稲荷神社っていう神社になってる。それが652年のことだから、伏見稲荷の711年よりもだいぶ古いね」
秀真の話を聞いて、真理は考え込んだ。
「稲葉根社と伏見稲荷大社の関係がよくわからない。稲葉根社はどうしてできたの?」
「ちょっと待ってね。しおりのメモを見るから」
秀真はナップサックから修学旅行のしおりを取り出して、メモを見ながら話をした。
稲葉根社は安閑天皇の2年(535年)の春、凶作を憂えた郷の人たちが山に神籬を作って豊作を祈った。数日後、倉稲魂命の神託が下り、ここに降臨した。翌年、ここに仮の社を建てて稲葉根社と称し、神を祀った。
「稲葉根社の由緒書には倉稲魂命が稲荷山にも降臨したって書いてあるけど、山城国風土記には白鳥って書いてあるし、他の文書には稲荷明神って書いてある」
「秦伊侶巨の伊奈利の話とは繋がっていないね。じゃあ、稲荷明神は倉稲魂命とは違うってこと?」
「違うわけじゃないと思うけど……秦伊侶巨が伊奈利社を作ったから、伊奈利社の神が稲荷明神とか稲荷大神って呼ばれるようになったんだと思う。後の時代になると、稲荷大神と宇迦之御魂神(倉稲魂命)の働きが同じだから同一視されるようになった、ってことじゃないかな」
聡明な真理は小学生の秀真にこれ以上の知識を求めるのは酷だと判断した。真理は内心モヤモヤとしていた。
「ありがとう、神谷君。稲荷のこと、なんとなくわかった。食物の神への信仰は伏見稲荷ができる前からあったんだね」
真理に話を打ち切られ、秀真はホッとしていた。稲荷神の起源には諸説ある。皐月となら「異也」や「INRI」の話もできようが、女子たち相手に今ここでするべき話ではない。電車に乗っていられる時間も限られている。