262 次の日の朝
藤城皐月はいつも通り朝6時に目覚め、ベッドから起き上がって部屋を出た。洗面所には及川祐希がいた。起きたタイミングがほぼ同じだったのか、祐希はこれから洗顔をするところだったので、まだセーラー服を着ていなかった。
「おはよう」
祐希がまだ眠そうな声で挨拶をした。
「おはよう。眠そうだね」
「うん。あまり眠れなかった。皐月はすぐに寝ちゃったみたいだけどね。いびきがすごかったよ」
「本当? もしかして、俺のいびきがうるさくて眠れなかったとか?」
「そーだよっ」
「ごめん。次から気をつけるよ。でも、どうやって気をつけたらいいかわかんないけど……」
祐希はまるで何事もなかったかのように振舞っている。眠れなかったのを皐月のせいにする祐希がかわいくて、皐月は抱き寄せたい衝動に駆られた。だが祐希に冷たく拒否されたら悲しいし、拒否をさせるような嫌な思いもさせたくない。ここは我慢して、祐希のように昨日の夜は何もなかったかのごとく振舞わなければならない。
鏡を見た皐月は左耳の裏の髪の毛が寝癖で跳ねているのに気が付いた。アホ毛を直そうと思い、顔を蛇口に近づけて髪を水で濡らした。
「ドライヤー、借りるね」
ドライヤーを手に取る時、皐月と祐希の身体が急接近した。わざと腕を接触させてみると、祐希の体温がダイレクトに伝わって来た。ほんのわずかな時間だが、幸せだった。
そんな気持ちを押し隠し、皐月はドライヤーで髪のセットをし始めた。櫛で髪を伸ばしながら跳ねたところを乾かしても、曲がった毛先は完全には直らない。やり直そうと思い、もう一度髪を濡らした。
「私がやってあげるよ」
祐希は皐月からドライヤーをもらい、代わりにヘアーアイロンを手に取った。アイロンのスイッチを入れ、温まるまでの間に皐月の髪をブラッシングし始めた。
「寝癖を直すだけなんてもったいないな〜。折角だから何かヘアアレンジしてみたいな。波打ちマッシュヘアとかやってみたいけど、時間がないから髪の毛をまっすぐ伸ばすだけにするか……」
皐月の髪に手を入れた祐希が興味深いことを言い出した。
「なんだ、俺の髪で遊びたいのか?」
「皐月って顔立ちが整っているから、もっと格好良くなるよ。ヘアアレンジだけじゃなくて、メイクもしてみたいな」
「ヤダよ、気持ち悪い。男のメイクなんて生理的に無理!」
「皐月って髪が長かった頃があったよね。その頃からずっと皐月を女装させてみたいなって思ってたんだけどな……」
祐希は皐月の髪にヘアアイロンを当てて、くるんとなった髪を直し始めた。
皐月だってお洒落に興味がないわけではない。女の子向けのファッション誌を読むのが好きなので、自分がしようとは思わないが、メイクにだって興味がある。
皐月は祐希が軽くメイクをした顔をかわいいと思っている。栗林真理がメイクをした時はあまりの変貌ぶりに理性がぶっ飛んだ。女子はメイクができていいな、と思う。
「カラーしたとこ、だいぶ色が落ちてきたね。どうするの? 黒髪に戻すの?」
「いや、同じ感じにカラーし直そうかなって思ってる。これ以上は派手にしないけどね。修学旅行までにはなんとかしたいな」
「中学生になったら、こんなことできないもんね」
こうして髪を触られながら祐希と話をしていると、皐月は祐希とキスをしたことが夢ではないかと思えてくる。鏡越しに祐希の唇を見ていると昨夜のことを思い出し、身体が熱くなる。
皐月には祐希がキスを拒まなかったことがいまだに信じられない。あの時は自分でもちょっと調子に乗っていたと思うし、性欲にも負けていた。
二人の唇が重なっていた時、祐希が何を思っていたのか全く想像がつかない。祐希が自分の魅力に抗えなかったと自惚れたいところだが、子どもの自分にそんな色気があるとは思えない。だが、あの時の祐希は間違いなく自分のことを受け入れていた。
「今日は時間がないから無理だけど、いつか本格的に皐月の髪の毛で遊ばせてよ。いいでしょ?」
「まあ……格好良くしてくれるんだったら、別にいいけど……」
「じゃあ、約束だからね」
相手が真理ならここで軽い気持ちでキスすることができる。だが祐希とはまだそこまでできるほどの深い関係ではない。細かいことは気にしないで口づけをしてしまえばいいのかもしれないが、祐希が入屋千智への告白のことを喜んでくれたので、その想いを大切にしたいと考えてしまう。皐月はまだそこまで悪い男にはなり切れない。
寝癖を直して、歯磨きを終え、皐月は自分の部屋に戻って学校へ行く用意をした。服を着替えて部屋を出ると、祐希はまだ鏡の前にいた。
「なんだ、まだいたの?」
「ヘアアレンジが上手くいかなくて、元に戻してた」
「どんな失敗?」
「皐月にヘアアイロンを使ったから、私もちょっと毛先を外ハネにしてみようかなって思ったんだけど、慣れていないから上手くいかなくて……」
「そうだったんだ。でも、もういつもみたいにかわいくなってるよ」
「そう?」
「うん。すごくかわいい」
鏡越しに祐希を見つめながら、背後から顔を寄せた。頬に口づけをしようとすると、手の甲でブロックされた。
「そういうことをする相手は私じゃないでしょ?」
「この世界には俺たち二人しかいないのに?」
皐月は祐希の右手の甲に軽く口づけをした。なんとなくこうなる気はしていた。
「ご飯用意しておくから、早く着替えて下りて来いよ」
皐月が鏡越しに微笑むと、祐希は戸惑いながらも少し嬉しそうに微笑んでいた。明日美の時もそうだったが、こういう時は年上の女の人でも、同じ齢の真理と何も変わらないものだ。
皐月は階段を下りながら、自分はいったい祐希とどういう関係になりたいのかと、ほんの束の間だけ考えた。だがすぐにどうにでもなれという気持ちになった。