403 細石
奈良の小川を渡る小さな橋を超え、朱塗りの南口鳥居の前まで来た。右手に手水舎があったので、みんなで手と口を清めた。二橋絵梨花は藤城皐月の涙でぬれたハンカチで口を拭っていた。
「あれっ? この辺りって雰囲気変わった?」
栗林真理が突然まわりをきょろきょろと見始めた。言われてみれば皐月もそんな気がしてきた。
「緑の色が濃くなった?」
吉口千由紀は植生の変化に気が付いた。糺の森はほとんどが落葉樹だったが、南口鳥居の奥は常緑樹が幅を利かせていた。
「あの松みたいな木は栂っていう針葉樹だね。山の尾根によく生えているよ。普通はこんな里には生えていないから、植樹されたんだろうね」
「絵梨花ちゃん、よくそんなこと知ってるね」
「前の学校の課外授業で近くの神社の鎮守の森に行ったの。栂は御神木に使われることがあるんだって」
皐月は栂のことを松にしてはちょっと変わっているな、としか思わなかった。下手に口を開くと恥をかきそうだ。
「糺の森は原生林なんだよね。でもここは別の場所から木を持ってきたっんだ。どこの木だったんだろう?」
真理が絵梨花に質問した。
「栂は神様がいる所に生えている木だから、奥宮がある山頂に近い森の奥かな。神社は聖域だから、神聖な場所に生えていた木を植樹したんだと思う」
絵梨花の神社の知識が増えていることに皐月は驚いた。修学旅行に来るまでに、こっそり勉強していたのだろうか。
皐月たち四人は南口鳥居を抜けて楼門に向かった。少し歩いた先の左手に注連縄がかけられた岩が見えた。磐座かと思い近づいてみると、それは細石だった。
「『君が代』の細石って小さな石っていう意味だったんだ……。こうして見ると大きい石に見えるけど、石の世界では小さい部類になるんだね。皐月、知ってた?」
「いや……。細石の言葉の意味は知ってたけど、手で持てるような小さな石のことかと思ってた」
「へぇ〜、知ってたんだ。私、細石の意味なんて知らなかった。皐月って変なこと知ってるよね」
「変なことじゃないだろ、別に。真理が無知なだけじゃん」
皐月たちの小学校で真理のことを無知呼ばわりできるのは幼馴染の皐月だけだ。真理は学校では引かれるほど勉強ができる秀才キャラだと思われている。
「じゃあ『細石の巌となりて』って、小石が岩になるっていう意味だったんだ。なるほど」
「昔は石が成長して大きくなるっていう信仰があったらしいよ。ここに書いてあるじゃん」
皐月は細石の隣にある解説の一文を指差した。そこには「『さざれ石』は年とともに成長し、岩となると信じられている神霊の宿る石です」と書かれていた。
「昔の人にコンクリートを見せたらびっくりするだろうな。神の御業だって」
皐月が笑いながら冗談を言うと、真理が不機嫌になった。
「あのさぁ……この細石って礫岩だよ。小さな石が続成作用によって固まった堆積岩だから、コンクリートにしなくても自然に大きくなったんだから」
真理は無知と言われたことに腹を立てていたようで、言い方がキツかった。
皐月は礫岩と続成作用の漢字が思い浮かばなかった。だが、堆積岩の堆積は漢検2級の勉強で憶えた漢字だったので、真理の言うことは理解できた。中学受験ではここまでのレベルで理科の勉強しなければならないのかと思うと、やっぱり今から目指しても手遅れだという思いがした。
「漢訳の『君が代』には『小石は凝結して巌と成り』ってあるから、栗林さんの説明を聞いて納得」
千由紀が漢訳の「君が代」を知っていることには驚いた。おそらく下鴨神社の事前学習で、細石つながりで「君が代」まで調べたのだろう。皐月は真理と千由紀の知識に舌を巻いた。
「でも、藤城さんの発想は面白いって思ったよ。コンクリートって砂や砂利を固めた物だから、原料は岩だよね。自然に固めるんじゃなくて、人の手によって細石を巌にしたわけだし。そう考えると、現代文明って巌でできてるってことになるよね。君が代じゃないけど、この文明が千代に八千代に続けばいいなって思う」
なんてことを考えるんだ、と皐月は絵梨花に感嘆した。
絵梨花はコンクリートという言葉から話をここまで膨らませた。コンクリートは皐月が思い付きで言ったので、絵梨花の言葉はあらかじめ勉強して用意してあった考えではない。絵梨花はこの場で現代文明の考察をして語った。
「なんか、三人とも凄いわ。……恥ずかしいな」
皐月は真理、千由紀、絵梨花に並びたいと強く思った。知識や洞察力が彼女たちにはまるで及ばない。それは自分が遊び呆けている間、彼女たちが研鑽を積んでいたからだ。
皐月はこの先、自分が何を目指して頑張ればいいのかはよくわからなかった。まずは疲労に対するリミッターを外して、集中している状態を少しでも長くしてみようと思った。