400 『方丈記』
鴨川デルタで家から持ってきた弁当を食べ終えた藤城皐月たち六人は次の訪問地、下鴨神社へ向かった。葵公園の入口に「史跡 糺の森(下鴨神社境内)」という案内札が建っていたので、矢印に従って下鴨東通を進んだ。
左手に旧三井家下鴨別邸の土塀が巡らされていた。皐月は土塀の石垣から何かの新芽が吹いているのを見つけた。
「よくこんなところから芽が出るね。何の芽だろう?」
「これは榎の芽生えだよ」
榎の名前は知っているが、皐月は木の見分けがつかないくらい樹木に関しては知識がない。何気なく口にした言葉が恥ずかしかった。
「よく知ってるね、二橋さん。すごい」
「前の学校で習ったの。5年生の時の担任の先生が森林インストラクターの勉強をしていた人で、理科の授業で校外に出て、いろいろ教えてくれたの」
二橋絵梨花は5年生まで名古屋に住んでいた。絵梨花は担任に恵まれていたようだ。皐月は学校の理科のテストでは満点以外は取ったことがないが、教科書に書いてあること以外は何も知らないに等しい。
「この榎、もっと楽に生きられるところがあるのに」
「こういう隙間は水が蒸発しないから、根を広げられるの。芽を抜いたり切ったりしないとどんどん大きくなっちゃって、塀が壊れちゃう」
土塀に沿って歩いていると、賀茂御祖神社の社号標と一の鳥居が見えた。この鳥居は朱に塗られていて、笠木の黒い明神鳥居だ。
一の鳥居の手前に旧三井家下鴨別邸の入口がある。ここから入るとすぐ右手に御手洗いがある。あらかじめ調べておかなければ塀に隠れて見えないようになっている。
「ちょっとトイレに行かせて」
「僕も」
皐月と神谷秀真は旧三井家邸の門を通って、敷地内に入った。そこには切妻瓦葺屋根の落ち着いた佇まいの御手洗いがあった。先に用を済ませた皐月は秀真が出てくるのを外で待っていた。
皐月は別世界にいるような寂しさを感じていた。本来、自分とはまるで縁のないこの大富豪の邸宅で、このトイレだけは自分のことを受け入れてくれた。異世界のような京都の寺社や街並みを歩いて来たことを振り返ると、自分が便所こそふさわしい糞みたいな人間のような思いに囚われてしまう。
「皐月、お待たせ」
秀真はなぜかニコニコしていた。
「なんで秀真はそんなにご機嫌なんだよ?」
「だって、いいトイレを使わせてもらえたんだよ。嬉しいじゃん」
こんな気持ちでいられたら楽なんだろうな、と皐月は秀真のことを羨ましく思った。
みんなの待つ場所へ戻ると、絵梨花たち四人は一の鳥居の下で皐月と秀真を待っていた。
「ねえ、神谷君。昔は河合神社の境内に鴨長明の住んでいた家が復元されていたんだよね。今はどこにあるか知ってる?」
皐月は吉口千由紀の言う鴨長明を国語の教科書で見たことがあった。古文に親しむ単元に「方丈記」の一部が収録されていた。
「境内の外にあるらしいけど、今は非公開なんだって」
「そうなんだ……見たかったな」
旧三井家邸を過ぎ、京都家庭裁判所の土塀沿いに歩いている時、皐月は千由紀に鴨長明の草庵の何が見所なのかを聞いてみた。
「鴨長明が世を捨てて、『方丈記』を執筆した家を、生活感が感じられるほど細部まで復元したところかな。住まいの様子が『方丈記』に事細やかに書かれていたんだよね。こういう家で『方丈記』を書いていたんだな、って思うとゾクゾクしちゃう」
「ゾクゾク?」
「うん。私、作家の書いた文章も好きだけど、その人となりにも興味があるから。長明がどんな暮らしぶりをしていたのかがわかる空間ってそそられる」
千由紀は文学作品だけじゃなく、作家そのものにも興味があるようだ。皐月はまだ小説を読み始めたばかりなので、千由紀ほど作家に関心があるわけではない。千由紀は自殺をした作家の小説を読むのが好きだと言っていた。
「そっか……鴨長明も作家だもんね。俺、『方丈記』って読んだことないんだけど、面白い?」
「そうだね……面白いっていえば面白いかな。一言で言えば、落ちぶれた老人が定年後に書いたブログなんだけど、私は好き。でも、この文を現代語訳して投稿サイトに上げても、多分埋もれる」
「大したことが書かれていないってこと?」
「そういうわけじゃない。前半は平氏と源氏の争いで都が荒廃した話だったり、大地震や飢饉などの災害の話だったりするけど、昔話を今の人に読んでもらうのは難しいってこと。リアルタイムの戦争や災害の話だったらバズるかもね。例えば移民と地元民の抗争があって、街がグチャグチャになった様子を書いたりとか、地震や津波、台風なんかで未曽有の被害が出た話とか。でも、今は動画の投稿が多いから、文字で動画に勝つのは難しいかも」
千由紀の言う通り、皐月はブログを読む小学生なんて数人しか知らない。小学生の間ではショート動画が流行っている。
「じゃあさ、鴨長明はどういうつもりで『方丈記』を書いたの? 鴨長明が大勢の人に読んでもらおうとして『方丈記』を書いたとは思えないんだけど」
千由紀はネットに小説を投稿しているが、ほとんど読まれないと言っていた。それでも千由紀は小説を書いている。そんな千由紀なら、鴨長明の心情がわかっている気がした。
「長明は現世で広く読まれることよりも、後世に自身の体験を伝えることを考えていたんじゃないかな。長明の生きた時代は乱世だったから、見たことや感じたことを書物にまとめておきたかったんだろうね。その作業が隠棲生活の慰めになっていたのかもしれない」
千由紀の洞察はわかりやすかった。皐月は千由紀の明晰な説明を聞き、千由紀の小説へ取り組む姿勢がなんとなくわかったような気がした。