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バス運転士・五十嵐アカネの事件簿  作者: 樋口鏡花
東名夜行バス殺人事件
5/7

5.捜査開始

 アカネの自宅は、営業所から歩いて5分ほどのところにあるワンルームマンションだった。会社が用意した、単身者用の社宅らしい。辺りは閑静な住宅街であった。駐車場に止められている車は高級外車ばかりで、富裕層が多い地域であることがわかる。


 マンションはロビーが無く、入口にオートロックの自動ドアが付いているだけの簡素な造りをしていた。3階建てで、オートロックを抜けてすぐのところにエレベーターが付いているのが見えた。見たところ1フロアに3部屋しかないようだった。


 アカネの部屋は3階のエレベーターから1番近いところにあった。アカネが扉を開けて、東堂に入るよう促す。


「お邪魔します」


 アカネの部屋へと足を踏み入れると、室内は綺麗に整っていた。


 部屋はバス・トイレ別キッチン付きの、よくあるワンルームの間取りだ。キッチンは廊下にあり、その隣に冷蔵庫が置かれている。リビングは家具が少なくすっきりしていた。ベッドとダイニングテーブル、それとダイニングテーブルに面して置かれた4脚のイスだけで、シックな木目調のもので揃えられていた。ベランダには小さなサボテンの鉢が置かれていたが、あまり世話されていないのか枯れかけていた。よく見ると、サボテンの傍らには綺麗な状態の灰皿が置かれていた。


「荷物は適当に置いてください。今、飲み物出しますので」


 アカネは冷蔵庫から作り置きの麦茶を取り出し2つのグラスに注ぐと、1つをテーブルの上に置いた。


 東堂はグラスの置かれた席に着いた。


「ありがとうございます」


 と、礼を言い、グラスに口を付ける。冷たい麦茶が、身体に染み渡る。思い返せば、今日は朝から何も食べていなかった。


「お腹空きましたよね。何か食べてから寝ましょうか。何か作りますね」


「いや、お気になさらず」


「捜査に協力していただくんですから、遠慮せずに食べてください」


 アカネはそう言って冷蔵庫の野菜室を開けたが、中には使いかけの人参と、賞味期限の切れたもやしが1袋しか入っていなかった。職業柄、生鮮食品はあまり購入しないのだ。最後にキッチンを使ったのはいつだっただろうか。コンロ周りをよく見ると、うっすらと(ほこり)が積もっていた。


「東堂さん、あの、すみません……、何も作れません」


 アカネはあからさまに落ち込んでいた。


「そう気を落とさないでください。また今度、楽しみにしてますから」


 東堂の言葉で、アカネの顔が明るくなった。


「ええ!無事に解決したらぜひ!」


 結局、2人は近くのコンビニで弁当などを買って、腹を満たした。


 食事が終わると、アカネは窓のカーテンを閉じてベッドで横になった。もう仮眠に入るようだ。


 東堂も寝ようと、床で寝ようとした。アカネは1人暮らしなので、来客用の布団などは無かったからである。


「東堂さん」


 ベッドから声がした。


「ベッドで寝ないんですか?」


「馬鹿なこと言わないでください。あなたはほぼ初対面の男と同衾するんですか」


 東堂は呆れた声で言った。だが、


「東堂さんはわたしの助手なんですから、知らない人じゃありません。それに、明日は長くなりそうなので、ゆっくり休んでもらいたいのです」


「しかし……」


 東堂が渋っていると、アカネは起き上がって強引にベッドの中に引きずり込んだ。いつの間にか、アカネは結んでいた髪を下ろしていた。


 東堂は気まずい思いで、仮眠どころじゃなくなりそうだった。


「……狭くないですか?」


 東堂がアカネに背を向けながら聞いた。


「東堂さんは細身なので、全然余裕です」


 アカネの吐息が、東堂のうなじ辺りをくすぐった。

こうして寝ていると、まるでカップルみたいだと東堂は思ったが、声には出さなかった。


「おやすみなさい、東堂さん」


「おやすみなさい」


 疲れていたのか、東堂は目を閉じると、すぐに深い眠りに落ちた。






 ピンポーンと、インターホンが鳴った音で東堂は目を覚ました。アカネは既に起きていて、髪はいつものように後ろで束ねられていた。


 カーテンが開けられた窓の外は、すっかり夜になっていた。


 アカネはカメラで来客の姿を確認すると、


「今、開けます」


 と言ってオートロックを解除した。


「あ、おはようございます、 東堂さん」


 アカネが、東堂が起きたことに気づいた。


「おはようございます、五十嵐さん。今のは……」


「例の知り合いの刑事さんです。やっときてくれました」


 東堂はベッドから出ると、鞄からスマホを取り出して時計を見た。画面の時計は午後9時を表示していた。


「けっこう寝ちゃってたんですね」


「わたしも、ついさっき起きたばかりですよ」


 アカネが玄関の覗き穴を覗きながら言った。よく見ると、手がドアノブに掛かっていた。


「来た」


 そう呟くと、アカネは素早ドアノブを下ろした。


「いらっしゃい、黒田(くろだ)さん」


 ドアの向こうには、面食らったような表情をした男が、右手に黒革の鞄を持って固まっていた。が、男はすぐに真顔になった。


「さあ、中に入ってください」


 黒田は無言で部屋に入った。リビングまで来て東堂の姿を認めると、初めて口を開いた。


「見ない顔だな」


「彼は東堂さん。一緒に事件に遭遇したの」


 アカネが東堂を紹介する。


「捜査資料でそんな名前を見た気がするな。こいつは信用できる奴なのか?」 


 途端に黒田の表情が険しくなる。


「彼はわたしの助手よ。だから大丈夫」


「そうか」


 アカネがそう言うと黒田は納得したのか、表情を元に戻した。アカネのことを信頼しきっているようだ。東堂はアカネと黒田の関係が気になったが、聞かなかった。


 黒田はテーブルのイスを引き出して、腰を下ろした。隣のイスに黒革の鞄を置いた。そこにアカネが、麦茶が注がれたグラスを人数分を持ってきて、テーブルへ置いた。


 東堂とアカネは黒田に向かい合うようイスに腰掛けた。


「はじめまして、シブヤ出版の東堂といいます。バスの専門雑誌で記事を書いています。よろしくお願いします」


 東堂は自己紹介をして、名刺を差し出した。黒田はそれを受け取ると、今度は自分の名刺を東堂へと差し出した。


「愛知県警の黒田だ。よろしく」


 名刺には、「愛知県警本部 刑事部捜査第一課 警部」と書かれていた。


「さっそくだが本題に入ろう。今回の件は、殺人と断定された」


 黒田は鞄から書類を取り出すと、アカネたちの前に置いた。それは捜査情報が載った資料だった。


「五十嵐が北村たちに指摘した通り、現場には自殺だとすると矛盾が生じる箇所が認められたんだ」


 黒田は1枚の顔写真をアカネたちの前に置いた。それは、被害者の男の写真だった。


「被害者は春岡(はるおか)誠二(せいじ)、44歳。春岡(はるおか)工業の社長だ。司法解剖の結果、春岡の死因はシアン化カリウムによる毒殺と断定された。胃の内容物からは睡眠薬のような成分も検出されたが、直接の死因には関係が無かった。死亡推定時刻は今日の午前1時から2時の間だ。運転を担当した運転士に聞き取りを行ったところ、足柄サービスエリア出発直後に春岡が苦しそうに咳き込むのを聞いたと、証言している」


 担当した運転士というのは、東名静岡でアカネと交代したあの運転士のことだろう。


「じゃあ、わたしが交代した時には既に亡くなっていたんですね」


 東堂はあの時、自分の後ろでは息絶えた人間が居たことにゾッとした。そして、ふと昨日のことを思い出した。


「そういえば、僕が捨てたペットボトルは見つかったのですか」


 東堂が聞くと、黒田は新たな捜査資料を2人の前に置いた。ペットボトルの画像が添付されており、それは東堂が拾ったものと同じもので間違いなかった。


「静岡県警と協力して、浜名湖サービスエリアのゴミから見つけ出したよ。ペットボトルからはお前と春岡のしか検出されなかったがな」


「僕が拾った時、ペットボトルには僅かに液体が残ってましたが、それは調べましたか」


「調べたよ。液体はほとんど蒸発して残っていなかったが、飲み口からシアン化カリウムが検出された。春岡が飲んでいたもので間違いないだろう」


 ここで黒田は初めて麦茶に口を付けた。グラスを置くと、新たな資料を2人の前に出した。資料には現場となったバス車内の画像が複数枚、添付されていた。


「現場の状況だが、まあ、お前らは直に見ているからあまり説明することもないかもしれないが、春岡は座席の背もたれを少し倒した状態で発見された。床にはミネラルウォーターが零れ、睡眠薬の錠剤が1錠だけ落ちているのが見つかった。また、春岡の胸ポケットから睡眠薬が残ったピルケースが見つかった。分析した結果、ピルケース内の薬と落ちていた錠剤は同じものだと判明した。春岡の胃から検出された成分、現場の状況から、春岡は就寝しようとして睡眠薬を服用した時にシアン化カリウム入りのミネラルウォーターを飲み死亡したと、推測されている。」


 アカネの推理は、おおかた当たっていた。


 黒田は、さらに新しい資料を出した。それには、被害者の遺留品の画像が並んでいた。


「春岡の所持品はピルケースのほかに、身に着けていた腕時計、ズボンのポケットからスマートフォンと現金が入った財布、ハンカチ、それとトランクルームに預けられていた鞄からは着替え、印刷された資料、スマホの充電コード、ポケットティッシュ、折り畳み傘が見つかった。財布の中には現金が5万円ほど入っていたし、スマホなども残されていることから、物盗りの線は無い」


「動機はおそらく怨恨でしょうね」


 アカネが言うと、黒田が頷いた。


「捜査本部は、既にその線で動き出している。だが、容疑者が多すぎて聞き取りを終えるには数日は掛かるだろうな」


 黒田は、自分には関係ないといった様子でそう言った。


「で、春岡の足取りだ。春岡は一昨日の朝、部下の安田(やすだ)という男を連れて、東京にある支社へ高速バスで向かっている。2人が乗ったのは名古屋駅8時30分発、東京駅13時30分到着予定の便で、途中の霞ヶ関(かすみがせき)で降りている。これは乗務していた運転士からの聞き取りと、チケットレス乗車券の情報から間違いないだろう。霞ヶ関で降りた春岡と安田は、東京支社で15時からの会議に出席した後、六本木(ろっぽんぎ)のホテルに宿泊している」


「なるほど。被害者は1人で東京に行ってた訳じゃなかったんですね」


「ああ。この安田という男が、犯人の最有力候補だ。安田については後で説明する。で、昨日の足取りだ。春岡と安田は午前9時にホテルをチェックアウトし、東京支社で11時からの会議に出席。会議は13時頃に終わり、その後2人は銀座(ぎんざ)にある山手(やまて)薬品という会社と、14時から商談をしている。その時にペットボトルのミネラルウォーターが山手薬品から出されたが、殺害に使われたものとは違うメーカーだと判明している。山手薬品との商談は16時過ぎに終わり、その後2人は築地近辺を散策していたらしい。これについてはまだウラが取れてないが、事件と直接関係は無いだろうな。築地近辺を散策した後は再び銀座に戻り、個室居酒屋に入っている。そこで22時前まで吞んでいたらしい。これはウラが取れているので間違いないだろう。居酒屋を出た2人は東京駅に徒歩で向かった。駅に向かう途中でコンビニに立ち寄り、その時にミネラルウォーターを購入していた。これは殺害に使われたのと同じ商品だった」


「じゃあ安田さんが、バスの車内かどこかでシアン化カリウムを仕込んだ可能性がありますね」


 アカネが下顎に人差し指の先を付けて、考える仕草をしながら言った。


「だが、コンビニでミネラルウォーターを買ったのは春岡だけだった。しかも、春岡と安田はそれぞれ違う便に乗車している」


「違う便にですか?」


 東堂が眉間に皺を寄せる。


「ああ。安田は東京駅22時30分発の便、春岡は23時30分発の便に乗車している。だが、これにはちゃんとした理由があった。これを見てくれ」


 黒田が提示したのは、東京から名古屋に向かう夜行バスの時刻表だった。東京と名古屋を結ぶ夜行バスを、西急バスでは1日6往復運転している。春岡と安田が乗ったそれぞれの便の時刻表は以下のとおりである。



【ムーンライト東京2号】(安田乗車便)

東京駅 22時30分

バスタ新宿(しんじゅく) 23時15分

豊田市(とよたし)駅 翌5時15分

名古屋インター 6時00分

星が丘(ほしがおか) 6時10分

本山(もとやま) 6時15分

千種(ちくさ)駅前 6時20分

(さかえ) 6時25分

名古屋駅 6時40分


【ムーンライト東京10号】(春岡乗車便)

東京駅 23時30分

名古屋駅 翌5時30分



「こうして見ると、途中の停留所が違うんですね」


「そう、まさにそこがポイントなんだ。安田がムーンライト東京2号に乗ったのは、自宅に近い本山で降りたかったからだと言った。実際、安田は本山で降りている。ウラも取れた」


 これでは犯行は無理だ。安田のアリバイは完璧だった。


「そういえば、車内の防犯カメラの映像は調べたんですか」


 東堂が聞くと、今度はアカネが答えた。


「実は、うちのエアロキングには防犯カメラが1台も付いていないんです。引退が近いので、経費の削減とかで」


 アカネは申し訳なさそうな顔をした。


「なるほど。車両の古さが仇となったわけですか」


 もし、犯人が車両特性を知っていて犯行に及んだのなら計画殺人だ。捜査は難航しそうだと、東堂は思った。


「そういえば、安田という男はどんな奴なんですか」


 東堂が黒田に聞いた。


「そういえば安田の説明がまだだったな」


 黒田が新たな顔写真を置く。春岡と同じぐらいの年齢に見える、中年の男だった。


「安田浩介(こうすけ)、45歳。春岡工業の営業部長だ。春岡との仲は良くなかったみたいだが」


「具体的には?」


「春岡は父親が亡くなって、後を継ぐ形で社長の座に就いたんだが、経営の方はからっきしだったらしい。春岡が社長になってからは、営業部を通さずに独断で商談を決めたり、営業部が進めていた案件を勝手な判断で中止したりと、まあやりたい放題だったらしい。それで、安田は春岡と揉めたことがある」


「なるほど。ですが、それでは他の社員にも同じような動機があるんじゃないんですか?」


「そこで、これを見てくれ」


 そう言って、黒田は数枚の書類を提示した。


「これは春岡と安田のメールをプリントしたものの一部だ。これを読むと、東京行きを決めたのは春岡だった。しかも、前日の夜に急遽決めている。このメールは東京支社と安田にだけ送信されていた。安田は営業部のメンバーに東京行きを伝えたようだが、予定については書かれていなかった。これは他のメンバーからもウラが取れている」


「つまり、春岡の予定を詳しく知っていたのは安田だけということですね」


「そういうことだ。きっぷやホテルを手配したのも安田だった」


 状況的に、犯人は安田以外に考えられない。しかし、アリバイがそれを否定している。


「五十嵐はどうだ。何か思いついたことはあるか」


 黒田がアカネを見る。アカネはしばらく黙って考えていたが、やがて口を開いた。


「安田さんのアリバイ、崩せるかもしれません」


「本当か!?」


 黒田が身を乗り出して聞いた。東堂も驚きの表情を隠せないでいた。


「ええ、条件が揃えば可能です。黒田さん、頼みたいことがあります」


「おう」


「まずは、春岡さんと安田さんの高速バスの乗車券を調べてください。きっぷか、プリントアウトしたものか、チケットレスか、それらも細かく調べてください。次に、ムーンライト東京2号と10号の座席表と運行記録をお願いします。それと、両便のスタフを全区間用意してください。」


「了解だ。すぐに用意させる」


 そう言って、黒田はどこかに電話を掛けた。


「五十嵐さん、本当に分かったんですか」


「はい、条件が揃えば可能です」


 アカネは自信ありげにそう言った。

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