3.東名で逝く
東堂とアカネは近くの洋食レストランで、ハンバーグランチを堪能した。静岡では有名なお店らしく、開店前だったが長い列が出来ていた。アカネが早歩きだった理由も納得である。
営業所に戻ると、2人は仮眠に入った。東堂には千種営業所と同じく個室があてがわれた。
しばらくして東堂が目を覚ますと、既に陽が傾き始める頃合いだった。
「まだ出発まで時間があるな……」
出発は、日が変わって午前2時過ぎである。もう一眠りしても良かったが、眠気が完全に取れた今の状態では、とても寝られそうになかった。
東堂はベッドの上でしばらく横になっていたが、一向に時間が進まないので、自分の仕事を進めることにした。
鞄からノートパソコンを取り出して、電源を立ち上げる。Wordソフトを起動し、白紙のページに原稿を書いていく。
取材から執筆までの時間はライターにより様々だが、東堂はかなり早い方だと自負していた。ネタは新鮮なうちに扱わなければ、ネタが持つ魅力は薄れてしまう。
執筆し始めるて何時間か経った頃、個室をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
東堂が返事をすると、扉が開かれた。扉に鍵は付いていない。
「お休み中、失礼します」
入ってきたのは、静岡営業所の所長を務めている河合という初老の男性だった。
「やや、仕事中でしたか」
「もう終わります。何か用ですか?」
「ああ、そろそろお腹が空くころだと思いましてね」
そう言って、河合は東堂に1枚の紙切れを渡した。
「食堂の食券です。あと30分ぐらいで閉まりますので、ぜひ利用してください」
「ありがとうございます。いいんですか?」
「これも記事のネタにでもなれば、とね。少しでも会社のアピールをして人員確保に繋げたいんだ」
バス業界は深刻な人材不足に悩まされている。記事の本旨とは違うが、どんな手を使ってでも人材を確保したいのだろう。
「では、お言葉に甘えて」
「ああ、そうそう。五十嵐さんもさっき食堂で食事を摂ってたよ。今から行けば、まだ居るかもしれないよ」
河合は「じゃあ、よろしく」と軽く会釈して、部屋を出ていった。
時刻は午後8時半を過ぎたところだったが、正直なところ昼食からほとんど動いていないので、東堂は空腹ではなかった。この券をどうしようか逡巡したが、結局食堂へと足を運ぶことにした。
食堂は想像していたよりずっと小規模なものだった。座席は10席ほどしかなく、ほとんどが相席になるような造りだった。しかしメニューは豊富な方で、常時4種類ほどを提供しているという。
閉店間近ということもあってか、食堂には誰も居なかった。もちろんアカネの姿もない。
東堂は焼きそば定食を注文した。文化圏的にも関東寄りの静岡で、関西寄りの食事が楽しめる不思議さに興味を惹かれたからだった。
注文してから数分で焼きそばが出来上がった。トレーには焼きそばと白飯、赤だしの味噌汁としば漬けが載せられた。
東堂は一眼レフカメラで2、3枚撮影してから定食に手をつけた。
焼きそばは絶品というほかに表現のしようが無いほど美味しいものだった。関西特有のドロッとしたソースに、静岡らしく出汁粉と鰹節が振られており、匂いが食欲をそそる。また、焼きそばの濃い味付けが白飯を進ませる。赤だしの味噌汁は見た目とはうらはらに、口の中をさっぱりとさせる。しば漬けも紫蘇の風味がしっかりとしており、上品な味わいだった。
食欲を刺激されたせいか、東堂はものの10分足らずで完食した。これは記事を書かない訳にはいかない。
食堂の料理が美味しいことは、立派な福利厚生のステータスとなる。バス会社はどこも似たような待遇が多いので、これは決定打になりえるものだと東堂は思った。
食事を終えて仮眠室へと帰る途中、東堂は外へ出ていくアカネを見た。
買い物だろうか。東堂はアカネがどこに行くのか気になったが、ついていくのはストーカーじみていると思ったので止めた。
仮眠室に戻ると、東堂は再びノートパソコンを開いた。原稿はほとんど出来上がっていたので、あとは修正を加えつつ完成させるだけだった。しかし、なぜか分からないが、いつも終盤に差し掛かったところで手が止まってしまう。
何も進まないまま20分経過した。このままではダメだ。東堂は部屋の窓を開け、空気を入れ換えることにした。これは東堂がよく行う気分転換方法だった。
窓を開けたまま、ベッドで横になる。この部屋の窓の外は営業所の裏なので、静岡の市街地が見えた。
しばらく横になっていると、煙草の煙の臭いがした。窓の外を覗き込むと下は喫煙所になっており、誰かが一服していた。するとそこに、コンビニの袋を腕に下げたアカネが現れた。
アカネは軽く会釈すると、ポケットから小箱を出した。小箱の中から1本取り出して口に咥え、それからコンビニの袋をがさがさやってライターを見つけると、口に咥えたそれに火を点けた。
アカネの口から白い煙が吐き出される。東堂はなぜか、見てはいけないものを見た気分になった。
それからアカネは、スマホの画面を見ながらプカプカと煙を燻らせていた。ふと、アカネの視線が上を向きそうになったので、東堂は慌てて窓を閉めた。
「人は見かけによらないものだな」
東堂はそう独り言を呟いて、原稿作業へと戻った。
日付も変わり、深夜2時過ぎ。
東堂はアカネが点呼を済ませてくるのを、建物の外で待っていた。比較的、海が近いからか昼よりも随分と気温が下がっており、名古屋に居た時と同様、肌寒かった。
東堂の頭の中では、先程見た光景が繰り返し再生されていた。別にアカネが喫煙していてもおかしくはない。彼女だって立派な成人だ。ただイメージと違っていたので、驚きが大きかっただけなのだと、東堂は自分に言い聞かせた。
やがてアカネが建物から出てきた。
「お待たせしました。それでは、行きましょうか」
アカネはそう言って、東名静岡停留所へと足を向けた。
東名静岡停留所は、高速道路上に設置されている停留所の中では大きい方である。設備はバス停と2つのベンチ、上屋だけで簡素だが、バスが2台停められるぐらいの規模を持つ。
停留所には、この時間にしては多くの人影が見られた。彼らは全員、西急バスの交代乗務員であった。
アカネは停留所に着くと、乗務員鞄をベンチに置いた。ベンチには他の運転士の乗務員鞄も置かれていた。
「今日は五十嵐さんも夜行便ですか」
アカネと同じ千種営業所の同僚である新発田が話し掛けてきた。顔立ちが整った、いわゆるイケメンのお兄さんといった感じの男だった。
「ええ。そういえば、新発田さんは仮眠取られたんですか?今朝はお会いしなかったので、いつ静岡に?」
「静岡にはさっき着いたばかりだから、仮眠はしていない。出勤が夕方からで遅かったからさ」
新発田はそう言うと、東堂の方を見た。それから、また
アカネの方を向いて、
「そういえば取材がどうとかって聞いたんだけど、もしかして今日だった?」
と、アカネに聞いた。
「ええ、そうですよ」
「緊張すると思うけど、頑張ってね!応援してるから」
「大丈夫ですよ。緊張してません」
そんなやり取りをしていると、1台のバスが停留所で止まった。
今朝、東堂たちが乗ったのと同じエアロキングだった。ナンバーは違うが、仕様は同じだろう。
昼の時と違って窓は全て厚手のカーテンで閉じられており、車内も消灯されていた。行先表示器には「名古屋駅」と表示されていた。
このバスには、新発田が乗務するようだ。新発田は降りてきた運転士と手早く引き継ぎを行うと、さっさと運転席に着いた。扉が閉まるとき、新発田が左手を振っているのが見えた。
「私の担当は次ですね。遅れなどがなければ、あと5分ほどで来るはずです」
「復路もキングですか?」
「ええ、そうですよ」
しばらくすると、またエアロキングが停留所へと入ってきた。こちらも先程と同じような外観で、行先表示器にも「名古屋駅」とだけ表示されていた。
前扉が開かれ、運転士が降りてくる。白髪が多く混じった、初老の運転士だった。
アカネは連絡事項等を引き継ぎ、タイヤの点検をしてから運転席へと座った。東堂は行きと同じく、ガイド席に座った。
静かに扉が閉じられ、バスはゆっくりと名古屋に向けて走り出した。
東名静岡から1時間程経ち、時刻は午前3時半。
アカネの運転するバスは、夜の東名高速を快走していた。時折設置されているオレンジの外灯が、いかにも東名高速らしい。
東堂は、ふとアカネの方を見た。滑らかな手つきでハンドルを操る彼女の横顔が、オレンジの外灯に照らされている。彼女の艶やかな唇が、妖しい輝きを放っていた。
彼女に見とれていると、アカネが少し強めにブレーキを踏んだ。前を見ると、かなり近くにトラックが居るように見えた。どうやら急に割り込んできたらしい。
東堂の座席の背もたれに、何かが当たった音がした。東堂は立ち上がってガイド席の後ろ足に手を伸ばした。そして何かを掴んだ。
空のペットボトルだった。ミネラルウォーターのボトルで、キャップが無かった。ボトルの中には透明な液体がわずかに残っていた。
きっと、先程の急ブレーキでテーブルから倒れたのだろう。客に返したところでありがた迷惑になると思った東堂は、次の休憩場所で捨てることにした。
休憩場所である浜名湖サービスエリアには定刻の4時前に到着した。ここで15分ほど休憩を取る。
アカネは左前タイヤに輪止めをした後、いつも通りタイヤのチェックをした。異常はなさそうだった。
「そのペットボトル、どうしたんですか?」
アカネは、東堂が空のペットボトルを持っていることに気づいた。
「ああ、さっき五十嵐さんが急ブレーキを踏んだ時に、転がってきたんです。多分、テーブルから落ちたんでしょうね。中身はこぼれて床に広がっているかもしれません」
「営業所に帰ったら掃除ですね」
アカネは困ったように眉を下げた。
東堂はペットボトルを、トイレ前にあったゴミ箱に捨てた。
「私はちょっと喫煙所で一服してきます。出発はいつでしたっけ」
「ええと、4時10分ですね」
「分かりました。それまでにはバスに戻りますので」
仕事の時は極力吸わないことにしていたが、アカネが喫煙者なら配慮は不要だと、東堂は思った。
「あっ、待ってください」
歩き出そうとする東堂を、アカネが呼び止めた。
「私も行きます。一服したいです」
東堂は驚いた。まさか彼女から、喫煙者だと告白するようなことを言うなんて意外だった。
「五十嵐さんも煙草、吸うんだね」
「意外ですか?」
「ええ」
東堂はそう答えて、アカネと共に喫煙所へと歩き出した。
歩いていると、建物と建物の間にぽっかり穴が開いたような暗闇が見られた。そこには今朝、浜名湖があったはずだった。いや、浜名湖は消えないので、ただ見えないだけなのだが、今朝とはうって変わって不気味に静まり返っていた。輝いていた湖面は光を失い、暗闇が広がるばかりだった。
喫煙所に到着すると、2人は煙草に火を点けた。白い煙が、暗闇へ溶けて消えていく。
燃え尽きるまで、2人は無言だった。ただ、時々視線が合うことがあった。
バスへ戻ると、ちょうど発車時刻となった。
アカネは人数を数えることなく、すぐにバスを発車させた。これは、休んでいる乗客に配慮してのことらしい。
暗闇を割いて、バスは名古屋へ向かって走っていく。
バスは豊田ジャンクションから伊勢湾岸道、名古屋高速を経由して、午前5時過ぎには名古屋市内へと入った。陽も昇りはじめ、明るくなってきていた。
黄金出口で高速道路を下りて、一般道を走ると、名古屋駅はすぐである。
名古屋駅には、定刻の午前5時30分よりも少し早めに到着した。時刻は午前5時20分である。駅前の人影は、ほとんど無かった。
扉が開くと、ぞろぞろと乗客が2階から下りてきた。皆一様に眠気が残っている顔をしており、中には階段から落ちそうになりそうな者もいた。
アカネはトランクルームから荷物を取り出し、荷物札を確認しながら乗客へ手渡していく。すると、荷物が1つ余ってしまった。
「まだ誰か居るんですかね?」
東堂が首を傾げると、
「ちょっと確認してきます」
と、アカネは車内に戻っていった。1階席の方を覗きに行く。
しばらくすると、車内から焦ったようなアカネの大声が、車外まで聞こえてきた。只事ではないと思った東堂が車内に向かう。
「何かありましたか……!?」
車内に入ると、座席に座る男の身体を、傍らにしゃがんで必死に強く揺さぶるアカネの姿が目に飛び込んできた。状況を察した東堂は、スマホを取り出して救急車を呼んだ。
「東堂さん、警察にも連絡してください」
東堂は頷き、続いて警察に連絡した。
アカネは諦めたように、立ち上がった。
男からは生気が感じられなかった。両腕がダランと垂れ下がっており、目と口は苦しみ悶えたように見開かれていた。
「亡くなっているんですか」
「ええ、もう助からないでしょう……」
「とりあえず車外へ出ましょう。警察に疑われると厄介ですから」
東堂はアカネを促して車外に出た。ビル群の谷間から覗く太陽には、厚い雲が掛かり始めていた。