2.東名を往く
取材1日目。
東堂は朝5時に起床した。特に目覚まし時計などは設定していなかったが、自然と目が覚めた。
着替えて洗顔し、荷物をまとめると、起床から30分後には仮眠室を出た。
営業所の1階へと下りていくと、休憩室に制服姿のアカネが居た。昨日と同じく、長い黒髪は後ろで結ばれていた。傍らには大きな黒い乗務員鞄が置かれていた。
アカネは缶コーヒーを飲んでいたが、東堂の姿を見つけるとひらひらと左手を振った。
「おはようございます、五十嵐さん」
「おはようございます、東堂さん。今日はよろしくお願いします」
早朝だったがアカネの声は透き通っており、眠気などは感じられなかった。
「それじゃ、始業前の点呼をしに行きましょうか」
アカネはそう言って立ち上がると、空になった缶コーヒーをごみ箱へ捨てた。
点呼場は1階の玄関横にあった。普通の事務所とは違い、複数のモニターと機械が壁やカウンター上に並んでいる。
点呼場のカウンターを挟んだ向こうには、白髪混じりのいかにもベテランという感じの人が立っていた。この人物は運行管理責任者と言われる、バスを運行する上で重要な役職を持っている。
「おはようございます」
「おはよう、五十嵐さん。取材、頑張ってね」
アカネが挨拶すると、運行管理責任者の男は優しい声でそう言った。
「いつも通りで良いですか?」
アカネは東堂を見て言った。点呼の説明は要るか、という質問でもあった。
「いつも通りでお願いします」
東堂は鞄から一眼レフカメラを取り出して構えた。最近はスマホでも高画質で撮影できるが、やはり取材の時はちゃんとしたカメラで撮影するべきだというのが、東堂のポリシーである。
アカネはまず運転免許証を取り出して、モニター前の端末にかざした。すると、運転免許証のICチップを読み取り、壁に掛かったモニターに「五十嵐アカネ」と、氏名が表示される。次に、隣の機械にストローを差して息をゆっくりと吹き込み、アルコールチェックをする。飲酒運転となる基準は0.15mg/L以上だが、多くのバス会社はさらに厳しく0.00mg/L以下と定めれていることが多い。アカネの数値は0.00mg/Lで合格だった。
次に、アカネは乗務員鞄からラミネートされた1枚の紙を取り出した。それには細かく文字や数字が並んでいた。スタフと呼ばれる、乗務員用の時刻表のようなものだ。これを基にバスは運転される。
「五十嵐アカネ、高速601交番です。名古屋駅7時0分発、東名静岡10時0分到着予定です。健康状態異常なしです」
「了解です。伝達事項ですけど、名古屋駅周辺は道路工事で車線規制をしているので、走行時は気をつけてください。高速は工事等は無いですが、浜名湖サービスエリアが混雑で停められないかもしれないので、その場合は無線で連絡お願いします」
確認が終わると、車両のキーと乗務用の財布、運賃箱のケースを受け取る。これで点呼は終了となる。
「では、安全運転でお願いします」
「行ってきます」
アカネが点呼している間、東堂はしきりにシャッターを切っていた。
「……こんな感じで良かったですか?」
「はい、バッチリです」
東堂はカメラロールを確認しながらそう言った。どの画も、とても様になっていた。
点呼場を後にして、2人はバスが止められている駐車場へ向かった。太陽は既に昇っていたが、東堂は
肌寒く感じる気温だった。
アカネは大きな乗務員鞄と運賃箱のケースを両手に持っていたが、鞄の膨らみ具合やケースの質感からして、かなり重いだろうことが想像できた。
「鞄くらい持ちましょうか」
東堂はそう申し出たが、
「慣れっこなんで、大丈夫です」
と、アカネに断られてしまった。
千種営業所の駐車場は、営業所の中でもかなりの広さだ。そこかしこにバスが駐車されている。西急バスは路線バスだけでなく高速バス、コミュニティバスまで幅広く運行しているため、車両の種類も豊富だ。
その中でも一際、目を引く車両が駐車場の隅の方に止められていた。アカネはその車両の前で足を止めた。
「これが今回の相棒ですね」
「こりゃすげぇな……」
東堂は思わず感嘆の声を上げた。
彼らの前に現れたのは、三菱ふそう製の大型2階建てバスであるエアロキングだった。国内で製造されたバスの中で1番大きな車両で、「キング」の愛称でファンからは親しまれている。客席のほとんどが2階部分にあり、昼行便ではダイナミックな車窓が楽しめるのがウリだ。1階席は2人掛けの4列シート、2階席が1人掛けの独立3列シートとなっている。夜行便にも投入されるため、窓には厚手のカーテンが用意されており、2階席には各通路にもカーテンが装備されている。各座席にはコンセントを設置、車内ではルートフリーWi-Fiサービスも提供されており、長距離でも快適に過ごせるような造りとなっている。しかし、10年ほど前を最後に製造されておらず、今日ではその数を減らしつつある。
「やっぱりキングはいつ見ても迫力が違うな」
「そうですね。持ってる会社も少なくなってきてますからね」
アカネは外側に付いているコックを使って、バスの前扉を開けた。荷物を1番前の座席上に置き、運賃箱のケースを運賃箱にセットした。
次に運転席周りを整え、エンジンを掛ける。ブルンと大きな振動と共にエンジンが動き出した。
アカネは運転席の背もたれの後ろから、点検用のハンマーを持ち出した。ハンマーは錆が出てきており、かなり年季が入っていた。
「じゃあ、車両点検からしていきますね。これもいつも通りでいいですか?」
東堂が頷くと、アカネは車外に出て点検を始めた。
最初に足回りから点検していく。ハンマーでタイヤのボルトを叩き、ボルトに緩みがないか確認する。次にタイヤのゴムも叩き、空気圧を確認する。最後に、目視でタイヤに異物がないか確認し、小石などが挟まっていた場合はハンマーで丁寧に取り除く。これを全てのタイヤに実施する。この車両にはタイヤが10本(前輪に左右1本ずつ計2本、後輪1軸あたり左右2本ずつ、2軸あるため計8本で前後輪合計10本)も装着されているため、これだけでも一苦労である。
タイヤの点検が終わると、外周を回って車体に傷や凹みが無いか確認する。会社によってはエンジンやオイルの確認もするが、西急バスではそれらを整備員に一任しているらしい。
外周の点検が終わると、今度は前照灯、ブレーキ灯、ウィンカー、行先表示機等が正しく点灯するか確認する。
ここまでが車外点検の一連の流れである。車外点検が終わると、次は車内点検を実施する。
車内点検では降車ボタン、車内放送、座席回り、空調等の装備を細かく確認していく。どれか1つでも不具合があった場合は、すぐに修理するか車両交換となる。
アカネは慣れた手つきでそれぞれの項目を確認していった。車両点検はあわせて15分ほどで終了した。
すべての確認が終わると、いよいよ出発となる。アカネは乗務員鞄を車両後部にあるトランクルームへ入れると、運転席に座った。
東堂は運転席横のガイド席に座った。この席は高速路線バスがメインのこの車両では普段使うことがないが、埃や汚れはなかった。しっかりと清掃されている証拠だ。
「それでは、動きますよ」
アカネはシフトを「2」に入れ、パーキングブレーキを緩めた。バスがスムーズに動き出す。
営業所から出ると、まずは始発停留所である名古屋駅バスターミナルに向かってバスを走らせる。6時過ぎということもあり、まだ車の数は少なかった。
東堂は運転するアカネをじっと見つめていた。アカネのシフト操作はスムーズで、変速時もショックがほとんど無い。大型車の場合、オートマチックでもここまで滑らかに運転するのは難しいものだ。ブレーキも優しく、掛けていることが分からないくらいだった。
15分ほど走ると、名古屋駅のビル群が見えてきた。早朝の名古屋駅は先程とは変わって、路線バスやタクシーで賑わっていた。
名古屋駅のバスターミナルに入る。バスターミナルは西口にあたる太閤通口に面した場所にある。ロータリー型のバスターミナルで、外周に沿うように4つの乗り場が設けられていた。真ん中にはバス専用の待機スペースがあったが、この時間は1台もいなかった。
アカネは待機スペースに入ることなく、停留所に直接横付けした。車内のデジタル時計は6時50分を表示していた。停留所には2、3人ほど乗客の姿があった。
前後両方の扉を開け、東堂、アカネの順にバスから降りる。
「お待たせしました、東京駅行きです。少々お待ちください」
アカネはそう断ってから、車両後部にあるトランクルームを開けた。それからタブレット端末を片手に、改札を始めた。
今日では高速バスの乗車券発売は圧倒的にインターネットが多く、乗車券自体もチケットレスが主流となってきている。座席の管理もインターネット上で行われており、乗務員はタブレット端末で座席を管理している。乗客がQRコードを提示し、それを乗務員の端末で読み取ると、座席表にチェックが入る仕組みだ。そのため、紙の乗車券にもQRコードが印字されている。
「スーツケースはどうしたらいいですか?」
「トランクルームでお預かりしますので、この荷物札をお持ちください。お降りの際は乗務員までお申しつけください」
アカネは荷物札の半券をちぎり、それを乗客に手渡した。乗客1人1人に笑顔で対応するアカネを、東堂はカメラに収めていく。
出発時刻の5分前には予約していた乗客が揃った。アカネは預かった手荷物をトランクルームに入れていった。
エアロキングのトランクルームはL字型になっている珍しいタイプで、車両の大きさのわりに狭い造りになっていた。また、一般的なバスのトランクルームは荷物が出し入れしやすいように低い位置にあることが多いが、エアロキングは後部タイヤの上にあるため、荷物を入れるのにも一苦労である。
しかしアカネは汗1つかかず、慣れた様子で積み込んでいた。
出発時刻の7時ちょうどになると、2人はバスに乗り込んだ。
平日ということもあり、乗客は5人ほどだった。1階席には誰もおらず、全員2階席に居るようだった。
バスはゆっくりと名古屋駅を出発した。東名静岡まで約3時間、東京駅までは約6時間30分の旅である。
名古屋駅を出発して約1時間ほどで静岡県に入った。バスは力強い唸りを上げて東名高速を快走していた。
程なくして、進行方向の右手側には浜名湖が見えた。奥には太平洋も見え、湖面は朝日を受けて黄金色にキラキラと輝いていた。
バスは浜名湖サービスエリアに入った。サービスエリアの駐車場は混雑していたが、なんとか止めることができた。時刻は予定より少し早く、午前9時半前だった。
長距離の高速路線バスでは、長時間の運転となるため10分程度の休憩が何度か設定されている。
「出発時刻までに車内へお戻りください」
ここでは乗客もバスから降りることができる。アカネは出発時刻を掲示したボードを、後ろ扉の見やすい位置に掛けた。それから左前輪に輪止めをすると、点検ハンマーを手にしてタイヤの点検をした。全てのタイヤのボルトをチェックし終わると、やっとアカネは休憩となった。
「お疲れ様です」
東堂が声を掛けると、
「まだ半分ですけどね」
と、疲れを感じさせない笑顔でアカネは言った。
「休憩中は普段、どんなことをされているのですか」
東堂が聞くと、アカネは下顎に人差し指の先を当てて考える仕草をした。
「そうですねぇ……。お手洗いに行ったり、飲み物を飲んだり……ですかね。すみません、多分ありきたりですよね」
アカネは申し訳なさそうな表情をした。
「いや、大丈夫ですよ。休憩時間、短いですから」
東堂の言葉がフォローになったかは分からなかったが、アカネは「そうですか?」と元の笑顔に戻った。
「浜名湖、見に行きませんか」
ふいにアカネがそう言った。
「サービスエリアから見えるんですよ。あ、東堂さんが嫌じゃなければですが……」
「ええ。行きましょう」
アカネは制帽を運転席に置いて、外に出た。
肌寒かった名古屋とは変わって、浜名湖サービスエリアは暖かな陽気に包まれていた。建物の裏手に眺望スペースがあり、そこから浜名湖を一望できた。
「前に来た時にはこんなスペース無かったな。いつの間に出来たんだろう」
「最近、サービスエリアがリニューアルしたんです。その時に造られたそうですよ」
そこから見えた浜名湖は燦然と煌めいていて、まさに絶景だった。
「わたし、この景色が1番好きなんです。この景色が見れたら、長時間の運転も頑張ろうって気持ちになれるんです」
アカネは日光の眩しさに目を細めながら、そう呟いた。
東堂は、ふとアカネの方を見た。そこには陽光に照らされた美女の姿があった。東堂は思わず一眼レフカメラのファインダーに収める。
「あ、今撮りましたね?」
「今日1番のベストショットだよ」
「恥ずかしいので消してください」
アカネが頬を赤らめた。東堂はそんなアカネの姿も撮影した。
「東堂さんの意地悪」
アカネはそう言って東堂を睨んだが、また笑顔に戻って、
「じゃあ、そろそろバスに戻りましょうか」
と、言って歩き出した。
出発時刻になると、アカネは人数を確認しに2階へ上がった。人数が少ないので、普段使っている数取器は使わずに指折り数えた。人数が揃っていることを確認すると、アカネはバスを発進させた。
いくつかトンネルを抜け、小1時間走るとバスは静岡インターで本線から外れた。バスは料金所へは入らず、料金所脇にある東名静岡の停留所で止まった。停留所では、交代の運転士が立って待っていた。時刻は午前10時ちょうどだった。
アカネはバスから降りると、トランクルームから自分の乗務員鞄を取り出した。そして車両点検と引き継ぎを素早く済ませると、バスは到着から10分も経たないうちに発車していった。
「お腹、空きましたね」
ふいにアカネが言った。まだランチの時間ではないが、朝が早かったのでたしかに空腹だった。
「点呼終わったら、一緒にランチに行きましょうよ」
「ええ、いいですよ」
東堂はアカネの誘いに乗ることにした。
西急バス静岡営業所は、静岡インターの隣にある。この営業所は高速路線バス専門であり、名古屋から関東方面へ向かう路線の要所として機能していた。
バスの駐車場が少ないため、営業所の敷地はコンパクトだった。建物は千種営業所と同じく立派な3階建てだった。
1階にある点呼場で、中間解放前の点呼を行う。中間解放とは、仕事と仕事の間にある長い休憩時間のことを言う。一般的には4時間程度の休憩となる。中間解放中は各々自由に過ごすことができる。
中間解放前の点呼は始業前点呼と同じ要領で行われるが、キーの扱いや金銭のやり取りが無いのですぐ終わる。
点呼が終わると、アカネは東堂を休憩室に待たせて私服に着替えに行った。
10分程してアカネは戻ってきた。今日のアカネの私服は、黒のワイシャツに白のチノパンとボーイッシュな組み合わせだった。
「それじゃ、行きましょうか」
アカネはやや早歩きで営業所を出た。明らかに張り切っている様子に、東堂の口元が緩んだ。