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バス運転士・五十嵐アカネの事件簿  作者: 樋口鏡花
東名夜行バス殺人事件
1/7

1.密着取材

 東京・渋谷(しぶや)


 若者ひしめく街のはずれに、「シブヤ交通出版」という小さな出版社があった。鉄道、自動車、航空機など、乗り物に関する専門雑誌のみを扱っているこの出版社は、知名度こそ高くないものの、マニアたちの間ではコアな雑誌を作ることで名の知れた出版社だった。


 東堂(とうどう)伸介(しんすけ)は、シブヤ交通出版お抱えの交通ライターである。入社以来さまざまな乗り物専門誌を担当してきた、いわばその道のプロである。最近はバス専門雑誌「月刊バス聞録(ぶんろく)」で連載記事を担当している。内容は編集長から一任されているが、全国各地さまざまなバス会社を訪ねて取材する、いわゆるルポ形式の記事が多かった。


 ある春の日である。


 東堂は編集長から呼び出しを食らった。連載がちょうど終わったタイミングだったので、どうせ次の記事の話だろうという東堂の読みは当たっていた。


「やあ、いきなり呼び出してすまないね」


 編集長の中山(なかやま)が笑顔を見せて言った。妙に機嫌が良い。


「いえ、大丈夫です」


「早速本題なんだが、単刀直入に言おう。名古屋(なごや)にある「西急(にしきゅう)バス」という会社へ取材に行ってもらいたい」


「西急バスは中堅クラスの会社でしたね。前にも一度取材しましたが……」


「今回は私の方から提案があってね。ズバリ、『はたらく女性運転士』に密着取材して女性に運転士職に興味を持ってもらおう、というのはどうだろうか」


「女性運転士ですか」


「現状、女性のバス運転士は鉄道やタクシーに比べるとだいぶ少ないことは、東堂君も知っているだろう。会社によっては居ないこともあるね。西急バスのような中堅の会社でも、女性運転士は男性より圧倒的に少ない。今回の記事は、どうしてそんな男所帯の業界に入ったのか、女性運転士の仕事はどうなのか、女性から見たバス業界はどうかなど、「女性運転士のいま」を読者に知ってもらい、女性運転士の新規獲得を目的とする」


 中山はそう力説した。


「記事の形式は、今までと同じで大丈夫ですか」


「そこは東堂君に任せるよ。君は優秀な記者だからね」


「ありがとうございます。で、名古屋へはいつから行きましょうか」


 東堂は、取材は明日以降からでも良いと考えていた。別に急ぐ程のものでもない。が、


「そうだな……。よし、善は急げと言うものだ。今からでも早速行って来てくれ。先方には私から連絡しておこう」


 こうして中山の独断によって東堂は、その日のうちに荷造りし、夕方には新幹線で名古屋へと向かったのだった。






 「さ、寒い……」


 名古屋駅に降り立つと、東堂は身震いした。


 東京はいかにも春らしい陽気で暖かかった。しかし、名古屋はまだ冬が残っているのか、冷たい風がしきりに吹いていた。


 改札を出ると、東堂に寄ってくる影があった。以前取材した時にお世話になった、西急バスの広報担当者である西田(にしだ)だった。ぽっちゃりした体型は、半年前に取材した時から変わっていなかった。


「お久しぶりです、東堂さん」


「お久しぶりです。今回は急な取材を受け入れてくださりありがとうございます。しかも、わざわざ駅まで来ていただいて申し訳ないです」


「いえいえ。こちらとしても女性運転士不足は大きな課題でして、こうして雑誌で取り上げてくださるのは、本当にありがたいことですよ」


 西田は暑くもないのに額に浮かんだ汗を、ハンカチで仕切りに拭っていた。


「ここで立ち話もなんですから、営業所の方へ行きましょうか」


 東堂は西田の案内で駅直結の立体駐車場に向かった。百貨店のエレベーターを使い、6階まで上がる。エレベーターを降りて百貨店の売り場を抜け、自動ドアをくぐると、駐車場があった。駐車場には社名の入った、型の古い軽バンが止められていた。


「すみません。こんな汚い車で」


 西田はそう言ったが、車はよく手入れされており、ホイールは銀色に光っていた。


 車に乗り込むと、西田は千種(ちくさ)区にある千種営業所に向かって車を発進させた。


「煙草の臭いとか気にならないですか?」


 走行中、西田が東堂を気遣ってか、そんなことを聞いた。


「私も吸うんで、全然気にならないですよ」


「へえ、煙草吸われるんですね。全然そんな臭いしなかったんで意外でした」


「取材の時は吸わないって決めているんです。煙草の臭いが嫌いな人もいますので」


「さすが、プロですね」


 西田は緊張が少しほぐれてきたのか、車内ではしきりに東堂に話しかけていた。東堂は嫌な顔一つせず、淡々と受け答えしていた。


 15分ほど車を走らせ、営業所に着いた。営業所の敷地は都心近くとは思えないほど広く、駐車スペースを見るに100台近くバスを駐車できそうだった。今は夕方過ぎなので、バスはほとんど出払っていた。営業所の建物は6階建ての大きなものであった。4階より上の階にはベランダが付いているので、営業所の上に社員寮があるのだろう。


 東堂は西田に連れられて、営業所の2階にある会議室へと通された。


「少しこちらでお待ちください」と西田は断り、部屋を出て行った。そして5分もしないうちに、人を連れて戻ってきた。


 西田の後に続いて入ってきたのは、制服を着た、黒の長髪を後ろで束ねた長身の女性だった。身長は170センチほどあり、ファッションモデルだと言われても違和感が無いほど、スラっとしていた。顔も整っており、いわゆる美人に分類されるだろう。


「五十嵐アカネです。よろしくお願いします」


 彼女は制帽を机上に置き、自己紹介した。透き通った、聞き取りやすい声だった。


「シブヤ出版の東堂です。今回はよろしくお願いします」


 東堂が名刺を渡すと、アカネはそれに目を通すことなく、ジャネットの内ポケットから取り出した黒革の手帳に挟んだ。


「それでは、今回の取材の流れについて私から説明させていただきます」


 西田は東堂とアカネに資料を手渡し、1つ1つ確かめるようにゆっくりと説明していった。


 今回の取材は、明日から2日間にわたって実施される。これはアカネの乗務の都合によるものである。1日目は早朝から、東京行きの高速バスを静岡まで運転する。静岡到着後は仮眠を取り、2日目の深夜に東京からやって来る名古屋行きの夜行バスを運転する。東堂は、これに同伴する形となる。


 アカネ自身への取材は、アカネの仕事スケジュールを考慮し、名古屋に帰ってきてから行うこととなった。






 打ち合わせ終了後、東堂とアカネと西田は営業所近くの名古屋メシが美味いと評判の定食屋で夕食を摂ることとなった。


 制服から着替えたアカネの私服は、白のブラウスにジーンズといった格好だった。先程まで結ばれていた髪は下ろされており、緩やかなウェーブを描いていた。


「制服姿も格好よかったですけど、私服も素敵ですね」


 東堂がそう言うと、


「ありがとうございます」


 と、アカネは微笑みながら返した。


「そういえばなんですけど、女性で運転士されてる方って私服でズボン多いですよね」


 西田がそう言うとアカネは、


「制服がズボンだからじゃないですか?仕事でずっと穿いてるから、スカートだと落ち着かないとか」


「五十嵐さんはどうなんです?」


 東堂がそう聞くと、アカネは顎に人差し指の先を当てて考える仕草をした後、


「わたしは前職が公務員だったので、ズボンの方が好きですね」


 と、意外な答えが返ってきた。


「公務員だったんですか」


「ええ。大学を出てから事務を少し」


「あ、着きました。ここです」


 西田が指さした先には、いかにも古そうな定食屋があった。軒先には紺の暖簾(のれん)が掛かっており、店先には「営業中」の看板が出ていた。


「いらっしゃい」


 白い板前服を着た老人が、カウンター席の向こうに立っていた。店内は6人並んで座れるカウンター席と座敷タイプのテーブル席がいくつかあり、平日だがそこそこ賑わっていた。


 3人は各々好きなものを注文した。東堂は味噌カツ定食を、アカネはきしめんといなり寿司を注文した。


 料理が到着すると、3人は歓談しながら食事を楽しんだ。アカネは東堂の仕事に興味があるらしく、しきりに質問していた。


 食事を終えると、会計は全て西田が支払った。どうやら会社が持ってくれるらしい。


「それでは、私はこれで。明日はよろしくお願いします」


 営業所に戻る途中、アカネはそう断って2人と別れた。アカネは営業所内の寮とは別のところに住んでいるらしい。


 営業所に着くと、西田は東堂を営業所の2階にある仮眠室へ案内した。


「今日はこちらに泊まってください。お風呂もあるんで自由に使ってください」


 ま今夜の宿を決めてなかった東堂にとって、この配慮は嬉しかった。


 会社や営業所の規模にもよるが、仮眠室の個室はかなり狭いことが多い。しかし千種営業所の仮眠室は四畳ほどの広さがある完全個室型で、シングルベッドとデスクがのみの簡素な家具が備え付けられているのみだが、かなり豪華な方であった。


 東堂は西田に礼を言って別れた。






 しばらくして東堂は部屋を出た。明日は朝早いが寝つけなかった。


「喫煙所の場所を聞いとくべきだったな」


 東堂はそう独り言を呟きながら、建物の外に出た。今までの経験上、大体の会社は外に喫煙所があることが多かった。


 春だというのに、名古屋の夜は一段と冷え込んでいた。息を吐くと、まだ白くなるほど寒い。


 建物の周囲を回ると、玄関からちょうど真裏にあたる場所に、灰皿が置かれていた。煙草の煙が微かに漂っていたが、灯りがないので誰かが一服していること以外は分らなかった。


 東堂は胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火を点ける。ライターの灯りでぼんやりと、丸みを帯びたシルエットが浮かぶ。


 西田だった。


「あれ、西田さんも吸うんですか」


 先程までは西田からは煙草の臭いがしなかったので、意外だった。


「ええ、最近始めたんです」


 西田はまだ慣れてないのか、煙を吐きながら時々咳き込んでいた。


「西田さんは、こんな時間まで仕事ですか?」


「ええ。近々、広報誌を刷新する関係でやることが多くて……。本社に戻っても嫌いな上司が居るだけなので、静かな営業所の休憩室を借りてやっているわけです」


「大変な時に取材を申し込んでしまって、申し訳ないです」


「大丈夫です。お互い仕事なんで」


 そう言うと、西田はまだ半分ほど残っていた煙草を吸い殻入れに入れた。


「じゃあ、僕はそろそろ帰ります」


 そう言って、西田は軽く会釈して喫煙所を去っていった。


 東堂は喫煙所に1人残された。それから吸い終わるまで、誰も来なかった。


 営業所の玄関の方に回ると、夕方よりもバスが増えていた。運行を終えて営業所へ帰ってきたばかりのバスもあり、車内清掃をしている運転士の姿もあった。また今から出発する夜行高速バスもあり、その準備が進められているようだった。


 バス会社は正真正銘、夜も眠らない。いつの時間だって、仕事に勤しんでいる者がいる。東堂はこの時間の営業所の様子が好きだった。


 東堂は5分ほど眺めた後、仮眠室へと引き上げていった。

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