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Thunderstruck!!  作者: 赤羅木公国
6/6

馬鹿げたスポーツ



「……予想以上だな」


 弱火で粘るのもそろそろ限界だ。マグマのように煮えたぎったカレーを火から下ろし、ヒカルは椅子に腰かける。左手の甲に表示された時刻は、すでに午後十時を回っていた。通知が来ていないことを承知で空中をノックし、メッセージアプリを起動してみる。ピン留めされた「兄」という名前のアカウントは、数時間前に届いた「遅くなる」というメッセージを最後に沈黙していた。


「まだかかりそう?」


 ヒカルが音声入力でそう打ち込むと、返事はすぐに戻ってくる。


『着いた』


 間髪を入れずチャイムが鳴り、ヒカルは溜め息まじりに立ち上がる。玄関の扉をやや乱暴に押し開いた先に立っていたのは、上は黒Tシャツ、下はジーパン、艶消しのフルフェイスで顔を覆い隠した男だった。これで兄だと分かっていなければ、今すぐ警察に通報したくなるような出で立ちだ。


「最近、ずいぶんと遅いね。彼女でもできた?」

「……こんなカオナシと誰が付き合うんだよ。お前はそこそこモテるだろうけどな」

「同じ顔だろ、僕たち」


 その返事に「元は」という言葉を付け加えなかったのは、せめてもの配慮だ。その後、ヒカルは当てつけのようにてきぱきと食事の準備を進め、トオルがヘルメットを脱いで椅子に座る頃には、一応「できたて」という体のカレーライスが食卓で湯気を立てていた。


「「いただきます」」


 同じ利き手にスプーンを持ち、似たようなペースでカレーを口に運ぶ。気を抜くと水を飲むタイミングまで揃ってしまうため、意図的に会話を挟んでずらしに行くのは、大体いつもヒカルの方だ。


「そういえば兄さん、こっそりイメチェンした?」

「……変えるもんか。俺はこのTシャツと、あのヘルメットで一生暮らすぞ」

「そういう意味じゃない。この間の誕生日、二人で一緒に『登録』した方だよ」


 トオルは手を止め、首をぱきっと鳴らした。


「ああ……そっちか。何で分かったんだ?」


 その質問に対し、ヒカルはトオルの二の腕のあたりを指した。


「袖に赤いラインが入ってる。今までは黒の無地だったのに。ファッションに頓着のない兄さんが、意味もなく服を替えるはずないだろ?」

「……なかなか気持ち悪いな、お前」


 それすらも褒め言葉として受け取ったように、ヒカルはふんと鼻を鳴らした。


「赤ってことは、ウィンディか。またえらくニッチなイメージを選んだね」

「ほっとけ。イメージ選択は個人の自由だ」


 世界中の法律書をひっくり返しても、そのことについて明記している法は一つもない。だが兄の言った通り、それは今や現代社会の通則だ。


「それはそうだけど……さすがに早すぎない? つい一週間前まで、『これでオートロジンのコーヒーが生涯一割引で買える』なんて息巻いてた兄さんは?」

「……奴は死んだ」

「死んだのは知ってる。気になるのは『自殺』か『他殺』かだよ」


 その疑問に答えることなく、トオルはカレーをかき込み始めた。何とか沈黙に持ち込み、この会話を終わらせようとしているようにも見えるが、ヒカルは諦めずに畳みかける。


「……でも、そう考えると不思議だね。同じ日に、同じ日本で、同じ母親から生まれたのに、いまや『国』が違うなんてさ」

「イメージを『国』なんて呼ぶなよ、老人じゃあるまいし。考えてもみろ、もし、この世に映画が四作しかなかったら、お前だってその内のどれかは見るだろ? だけど自分が好きになった一作を、他人に無理強いする必要はない。たとえ相手が家族でもな」

「……たとえ話なんて珍しい」


 正直なところ、たとえの内容はよく分からない。だがそんな「慣れない変化球」を引き出させた甲斐あって、ヒカルは重大なヒントを得た。


「でも、誰かに勧められた映画を好きになることはあるよね。もしかして、兄さん……」

「ごちそうさま。風呂入って来る」


 カウンター成功かと思いきや、一枚上手だったのは兄の方だ。その皿にはもはや米粒ひとつ残されておらず、さらにスパイスを効かせたカレーのおかげか、額に浮かんだ汗をこれ見よがしに拭い、トオルは風呂場へ消えようとする。


 ——仕方ない。最後の手段とばかりに、ヒカルも席を立って言い放つ。


「僕も入るよ」


時を止める魔法が実在するなら、きっとこのような使用感なのだろう。「魔法」を解き、ゆっくりと振り返ったトオルの目は、驚きを通り越して恐怖に染まっていた。


「は?」

「別にいいだろ。シャワーヘッド2つあるし」


 兄が凍り付いている隙にカレーを流し込み、ヒカルも大急ぎで居間を出た。


        ※


 同じ年齢に、同じ背丈、同じ体格。そんな双子を見分ける最も「簡単」な方法は、顔に火傷の跡があるかどうかだと、かつて彼らを襲った不幸を知る人々の大半はそう思っている。

 もちろん、正解だ。だがその上で「二番目に」簡単な方法を知っているのは、世界中でもヒカルだけだろう。肌に傷一つないヒカルに対し、トオルの首筋から左肩を通り、そのまま左脚へと流れる赤いみみず腫れは、八年前、とてつもない大電流がその身を駆け抜けたことを物語っている。言い換えるなら、あの稲妻がトオルの身体を通り、無事に大地へと「流れて」くれたからこそ、彼はこうして生きていられたのだ。


「一緒に入るの、いつぶりだっけ?」


 一脚しかないバスチェアを兄に譲り、ゆったりとシャワーを浴びるヒカルの横で、トオルは早くもシャンプーボトルを押し込んでいた。日頃からカラスの行水だというのに、今日は一段と凄まじいスピードで泡を立てている。


「多分、八年くらい」

「そんなに? いつ入ったんだっけ」

「……母さんの葬儀の後」


 トオルの言葉に、ヒカルは唾を飲んだ。


「ああ……病院のシャワー室か。左半身不随の兄さんを『くまなく』洗ってあげたのは良い思い出だよ」

「変な言い方やめろ」


 乾いた笑いがシャワー室の壁に反響した。流れに乗るように、ヒカルは次の質問をする。


「ブレイクダンスは上達した? クラブ通いもいいけど、あんまり帰りが遅いと……」

「最近行ってない」

「へえ、意外だね。もうリハビリは不要ってこと?」


 兄が切ったカードは「沈黙」だった。有無を言わさぬその効力を前に、ヒカルは一旦手を引いたものの、すぐに態勢を立て直す。


「明日、暇? 一緒に行きたいところがあるんだけど」


 繰り返される無言。ただ残念ながら、最強のカードを連続して使うことは許されない。ヒカルは兄がシャンプーを終えるタイミングを見計らい、シャンプーとリンスの位置を素早く取り替えた。トオルはまんまと引っかかり、その髪は再び大量の泡に覆われる。


「うわっ」

「逃がさないよ。明日、どうなのさ」

「……分かったよ」


 観念したようでいて、兄の答えは軽い。ひとまずこの場さえ凌げれば、後はどうにかなると思っているのだろうか。


「トオル」


 劇薬を流し込むがごとく、ヒカルはその名を呼んだ。昔懐かしい響きに、兄は動きが固まる。有効期限が切れていないとはいえ、ひどく汚れたチケットを見せられた係員のようだ。


「何?」

「何か、僕に隠してることない?」


 繰り出されたのは、わざとらしい怒りの演技だった。こんな質問一つで逆上する人間を装えるほど、兄は器用な人間ではない。

「……あったら何だ? 俺が家以外の場所で見聞きしたこと、全部お前に報告しなきゃならないルールでもあるのか? 俺もお前も十五歳。どこで何をしようと、とやかく言われる筋合いは……」


 二周目のシャンプーを大急ぎで洗い流し、わざと大きな音を立てて椅子から立ち上がるシーンこそ、この三文芝居のハイライトだったのだろう。

 だがここぞという時に、トオルの左脚はもつれ、その身体はバランスを失った。安定を求めて空を掻いた手は、信頼と実績にひかれ、反射的にヒカルの肩を掴む。


「……逆に、どうして何も言われないと思ったのさ。そんな脚で」


 沈黙のカードを、今度はヒカルが切る番だった。


        ※


 翌日。正午過ぎに身支度を整え、二人は家を出た。語る必要もない天気の下、最寄り駅から都心へと向かう電車に乗る。時間が経つにつれ、周囲からは少しずつ建物が減り、のどかな田園風景が車窓に広がっていく。一昔前なら「ホームを間違えた」と思ってもおかしくない眺めだが、日曜日らしく混み合う車内が、その電車が間違いなく「上り」であることを証明している。


 地下に潜り始めた電車の中、トオルは惜しむように空を見上げた。頭上には相変わらず、「広告募集」の字を象った雲がぽつんと漂っている。ブルーリングが起動した直後は、それこそ大量のロゴやキャッチコピーが空を埋め尽くし、皮肉にも以前の「曇り空」と変わらない状況だったが、最近はすっかりこの有り様だ。


「そういえば兄さん、『ブランク』まで行ったことあるっけ?」

「ない」


 到着までの間、二人が交わした会話はそれだけだった。進行方向の先、刑務所のような鉄柵と、大量殺戮兵器の実験場のような更地が見えたのを最後に、電車は完全に地下へと沈む。あの雑草一つない円形の土地が『ブランク』と呼ばれていることを、トオルも知識としては知っていた。現代の世界地図がすっかり蜂の巣と化してしまったのは、核戦争が起こったからではなく、あのミステリーサークルが世界中に、一ミリ違わず同じ大きさで点在しているせいだ。


「まもなく、半径10㎞地点、ブランク東南口です。メトロ各線はお乗り換えください」


 ブランク内で最初に停まったその駅から、乗客は一人、また一人と電車を降りていく。駅はぴったり一キロ間隔で設置されているらしく、車内アナウンス、開閉するドア、揺れるつり革——それらが不気味なほど同じルーティンを重ねながら、電車はブランクの中心へと向かう。


「まもなく終点、半径0㎞地点、観測塔です。お忘れ物のないようにご降車ください」


 数分後、再来月にリリースされるという『ストームボックス』のアップデート版のPVが延々と流れていた車内ビジョンも、ようやく「ご乗車ありがとうございました」というメッセージに変わる。


「ようこそ、日本の中心へ」


 やたらと広いホームに降り立った後、ヒカルが第一声を放つ。初球から随分と回転のかかったサーブだ。


「でも、ここに総理大臣がいるわけじゃないだろ?」

「誰も『中枢』とは言ってないからね。でもグラウンド・ゼロはここだよ」


 半径15キロメートル、面積が700とんで6平方キロメートル。そんな不毛の地の下に設けられたジオフロントは、いよいよ「まぶしい太陽」や「無限の空」といった歌詞に共感できなくなった人々の終着点といえる。頭上に大小さまざまなパイプが腸のように張り巡らされ、オフィスや娯楽施設、ショッピングモールが所狭しと並んでいるだけの街に、トオルはあまり魅力を感じなかった。


「……肌が白い人ばっかりだ。産まれてから一度も紫外線を浴びたことがない赤ん坊もいるんだろうな」

「この辺り、一メートル四方の地価が約一億円だってさ。南向き物件は諦めた方がいいね」

「地下だろ、ここ」


 弟の形式的なボケをあしらいながら改札を抜け、駅前の広場に出る。正面には、床と地上を結ぶ太い柱が林立し、その合間には「OBSERVATION TOWER」という看板が、ハリウッドサインのごとく堂々と設置されていた。しかしヒカルが指さしたのは、その上に掲げられているサンディア、レイント、スノーク、そしてウィンディのシンボルが十字に組み合わさったマークだ。


「さて、兄さん。いくら世俗に疎い兄さんでも、あのマークくらいは知ってるよね?」

「……『不平等な四象よんしょう』だろ。さすがに知ってる」


 資本力と人気を兼ね備えたサンディアのシンボルが一番上に配置されていることから、あのマークがそう呼ばれていると、トオルも聞いたことがあった。


 しかし、ヒカルは首を横に振る。


「それは悪名。織田信長を『うつけ者』って覚えるようなもんだよ。あれはサンダーストラックの公式マークさ。競技名くらいは知ってるだろ?」


 問いただすような視線に、トオルは一呼吸置くことを余儀なくされる。


「……聞いたことはある」

「十分。それじゃ、行こうか」

「どこに?」

「そりゃあ、『上』に決まってる。サンダーストラックはブランクの中心にある、地上五百メートルの塔の中から観戦するんだ。ここはその土台部分だよ」


 それほど大きな塔が頭上にそびえ立っていると思えば、俄然、周りの大木のような鉄柱群が頼もしく思えてくる。しかし、トオルはどうにも煮え切らなかった。


「おい、待て。もしかして今日、これを観戦しに来たのか?」

「ごめん……正確には『観測する』って言うらしいよ。仮にも自然現象を扱う競技だから、妥当な表現かもね」

「そんなのどっちでもいい。お前……サンスト好きだったっけ?」


 好きだから動く。嫌いだから動かない。そんなダンゴムシレベルの行動原理を兄の中に垣間見たのか、ヒカルは引き攣るように笑う。


「……いいや。むしろ、僕ほどこの競技が嫌いな人はいないと思うね」

そう宣言した後、ヒカルは左手の甲と、塔の入り口に設置されているパネルを見比べた。空港にあるフライトボードのような電光掲示板に、今日の試合日程がずらりと並んでいる。

「ほら、早くしないと出発しちゃう」

「出発?」


 ヒカルに手を引かれ、トオルは塔の中へと連れ込まれた。パネルの下にあった当日券売り場には目もくれない辺り、チケットは購入済みらしい。藍色のカーペットに足を踏み入れてすぐ、映画館のような座席が塔の円形に沿って配置されているのを見て、トオルはこのタワーが普通のランドマークではないことを認識した。ほとんどの席が既に埋まっている中、促されるまま指定席と思われるシートに腰を下ろす。

 隣にいるカップルがお互いの口にタコスを運んでいるのを見て、トオルは思わず唾を飲んだ。


「なあ、そういえば昼飯……」

「上で買おう。ここの倍はするけど、クリーニング代を考えれば安いもんさ」

「クリーニング代?」


 その意味を聞き返す間もなく、劇場が開演する前のようなブザーが鳴る。続いてガコン、と重要な何かが外れる音。一瞬の浮遊感を経て、トオルは座席が床ごと持ち上がるのを感じた。そこにエレベーターの穏やかさはなく、遊園地のスペースショットに乗った時のようなGが肺を圧迫する。地上五百メートルまで、乗客を最速、かつ安全バーなしで送り届けられることが売りなのか、乗り心地は二の次といっていい。


 到着時の衝撃もなかなかだった。尻こそシートから離れなかったものの、勢い余ったポップコーンやピスタチオが、まるで卒業式の帽子投げのごとく宙を舞う。さらに悲惨な状況に陥った隣のカップルを見て、トオルはここだけは初デートに選ぶまいと誓った。


「じゃあ、適当に買ってくるよ」

「俺が行く」

「ここのタコス屋はサンディアのチェーンだ。『ウィンディ』の兄さんが行くより、僕がまとめて買った方が安いだろ?」


 ヒカルがすっと席を立つ。見晴らしのいい景色や、膝の上に散乱したポップコーンをせわしなく容器に戻している他の観客を尻目に、迷いなく後方の通路へと向かうその背中は、たった一度や二度、この場所を訪れた者のそれではない。「嫌い」という言葉はひねくれた冗談だったのだろうか。


 トオルは辺りを見回した。外の青空とは打って変わり、塔の側面を覆うガラスの上部には、おびただしい数のスポンサーロゴが回転している。サンダーストラックがいかに人々の関心を集めているかが分かる光景だが、視線を上げてみると、塔の頂上だけ何の広告も表示されていない。ガラス壁はおろか、シートのひじ掛けやタコスの包み紙まで無数のロゴに占拠されている中で、その空白地帯はむしろ不自然だった。


 さらに目を凝らすと、人ひとりがようやく立てる広さの天板の上に、本当に一人の人間が立っているのが見えた。VIP席にしては狭すぎるような気もするが……。


「あまり上ばかり見ない方が良いよ。パンチラ狙ってると思われるから」


 タコスとドリンクのセットを抱えたヒカルが戻ってくる。付属のサルサソースに「ⅯILD」と書いてある方を受け取りながら、トオルは全力で首を振った。


「狙ってねえよ。この距離じゃ、男か女かもわからないだろ」

「女性だよ、間違いなく」


 その根拠を聞こうとした途端、アップテンポのEDMが鳴り始め、クラブ以来の大音量に驚いたトオルは「わっ」と叫んだ。派手な演出とともに「WELCOME」という文字が窓ガラスに表示され、客席は歓声に包まれる。


「騒がしいでしょ? このBGMも、お客さんも。向こう側はあんなに静かなのにね」


 ヒカルは窓の外を指さした。まじりけのない蒼穹の下、がらんとした灰色の平地が広がっている。


「でも、じきに外の方がうるさくなるよ。彼女の『雨乞い』は百発百中だから」


 それは、塔のてっぺんにいる人のことだろうか。逆光のため顔はよく見えないが、言われてみるとそのシルエットは確かに女性らしく、手元のパネルを忙しそうに操作する姿は、明らかに普通の観客と一線を画している。


「注意報、発令」


 「彼女」がマイク越しに呟いたその一言で、場内はさらに盛り上がる。透き通るような声質でありながら、決してウグイス嬢のような話し方ではない。どことなく聞き覚えのある声に記憶を呼び起こしている間もなく、フロア全体が黄色にライトアップされ、場内の至る場所に「CAUTION」という文字が出現する。


「え……? これ、やばいんじゃないのか?」

「ピュアだねえ、兄さん。こんなの演出に決まってるだろ」


 そう言っている間にも、空はだんだんと黒い雲に覆われ、風も唸り始める。雨粒が打ちつけるガラス壁に表示されている風速計や雨量計の数値もうなぎのぼりだ。


「警報、発令」


 風速が秒速20メートル、雨量が50ミリリットルを超えた瞬間、上にいる彼女が再び宣言した。演出が黄色から赤へと変わり、遠くの地面に開いた小さな穴から、アクロボードに乗った一人の選手が飛び上がったところで、観客のボルテージは最高潮に達する。とはいえブランクそのものが、サッカーや野球のグラウンドとは比較にならないほど広く、曇天と雨によって視界は最悪。こんな状況でどうやって選手の姿を追うのか……そう考えていた矢先、トオルは自分のノックシールが勝手に起動していることに気付く。トオルだけでなく、この場にいる全員の目の前に、ドローンカメラの中継映像が浮かび上がっていた。


 続いて、男性のMCが響き渡る。


「ブランク・トーキョーにお集まりの皆様、お待たせいたしました! 本日はレギュラーシーズン第三十一戦、MCは私、『スノーク』所属の三ツ矢がお送りいたします!」


 女性アナウンスとは桁違いのテンションに、客席は露骨なまでのブーイングに覆われる。「AIにやらせろ!」「サンディア万歳!」という辛辣な声が上がり、MCは咳払いをした。


「私も皆様と法廷でお会いしたくはありません。厳しいお声もご意見として受け止めさせていただきますが、個人のイメージに対する中傷はお控えください」


 一転、水を打ったように静かになる場内。二回目の咳払いは実にわざとらしかった。


「さあ、気を取り直して! 私への個人攻撃は厳禁ですが、選手に対するブーイングは大歓迎です! 第一試合、最初に登場したのは『レイント』のソジュン・北村ペア!」


 トオルの位置から直接確認できるのは一人だが、モニターには確かに二人目の姿が映し出されていた。観客も現金なもので、画面越しに空を飛ぶ彼らに怒涛のブーイングを浴びせている。仮にも四つのイメージで二番目の人口を擁するレイントの選手でこの有様なら、ウィンディの選手が登場した暁にはどうなるか、想像に難くない。


「さあ、対するは本日がデビュー戦の二人! 『サンディア』のハンプトン・汐見ペア! 『ストームボックス』の実況動画で一躍人気となり、その艶めかしいトレーニング風景で多くの視聴者を虜にした美女二人組が、晴れてリアルの舞台に登場です! 彼女たちの美脚が、今日はごつい専用スーツの下に隠れていることを知らずに来た男性ファンは……ご愁傷様!」


 レイント組とは雲泥の情報量に圧倒される中、サンディア所属と思われる人々が、稲妻のマークが入った帽子や黄色いハンカチなど、各々の「印」を一斉に振りかざす。けたたましい鳴り物まで飛び出す惨状に、ヒカルはそっと耳を塞いだ。


「……下品な空間だよ」


 吐き捨てるような弟の一言を、トオルもさすがに否定できなかった。

 四人の選手の現在位置はモニター上、ブランクを示す丸いマップの上に、点滅する青と黄色の点で表示されている。彼らは肩慣らしのように、何もない大地の上をしばらく飛び回った後、この塔を四角く取り囲むような配置で滞空していた。これが正しいスタート位置なのだろう。


「なあ、ヒカル」

「ん?」

「……俺も、サンダーストラックについて『まったく』知らない訳じゃない。さっきMCが言ってた『ストームボックス』ってやつを、俺も何回かやったことがある」

「何回か? 僕の見立てじゃ、この一週間、兄さんは学校帰りに毎日『それ』をやってると思うけど?」


 トオルは深く息を吸った。


「……想像はご自由に。でも、俺が聞きたいのは『ブランク』についてだ」

「へえ、どうぞ」

「ストームボックスだと、この広いフィールドの上にビルやら街灯やら、ほぼ完ぺきな街が再現されていた。まあ当然、あれはゲームの中だからできたことだろうけど……現実の試合じゃ、こんなさみしい場所で戦うのか?」


 それはちょうど、トオルがエベレアに聞きそびれていた質問だった。しかし、あまりに屈託のない内容に面食らったのか、ヒカルは無慈悲にも噴き出す。


「……兄さん。十秒後には答えが分かることを質問にしてまで、無理に僕と会話しようとしなくていいよ」

「え? いや、そういうつもりじゃ……」

「……さっきも言ったけど、僕はこの競技が嫌いさ。観客もMCもうるさいし、試合ごとにオッズが決まっていて、客が選手の勝敗を賭けられるシステムも下賤だ。経済的に恵まれない人たちが一獲千金を狙って選手を目指すもんだから、巷じゃ『空の風俗街』なんて言われてるしね。でも……」


 ヒカルは前を向く。


「そうだね、強いて魅力を挙げるなら……この瞬間だけは、わりと好きだよ」


 彼が言う「瞬間」は、すぐ目の前に訪れた。ストームボックスで見た風景を彷彿とさせるどころか、それを丸ごと再現したような青い光の骨組みが、ブランク上に新たな景色を形づくる。

 ただし今回のそれは、到底「街」と呼べるような代物ではなかった。東側には錆びた鉄塔がそびえ、西側には石灰岩で覆われた「新品」のピラミッドが、建設当初の雄大な姿を晒している。


「なんだこりゃ」


 若々しい古代の建築物と、物悲しい現代の廃墟が同居する光景に、トオルは自分の頬を引っぱたきたくなった。これならゲーム内で見たビル街の方が、はるかに「リアリティ」がある。ただ、不粋にも鉄塔やピラミッドの側面にはっきりと描かれ、他の場所を埋め尽くす森からも突き出している大量のスポンサーロゴが、ここが「夢の世界」ではないことを証明していた。


「光を原料にした、超高性能の3Ⅾプリンターだよ。たった3分しか固体を維持できないから、こういう用途に限られるみたいだけど」

「……これも、あの人が作ってるのか?」


 トオルは頭上にいる女性を指差した。「うん」とヒカルが頷く。


「このブランク内に限れば、空も大地も、あの人の思いのままさ。3分で消えてなくなる街をアイスクリームに見立てて、『グラシエ』って呼ばれてる」

「アイス職人、ねえ。むしろ寡黙なDJって感じだけど」

「……始まるよ」


 絨毯爆撃のごとく窓を叩く雨に、鞭打つような風。それに歓声とEDMを加えた狂騒の中、試合開始のブザーが「ささやかに」鳴り響く。トオルたちのいる観測塔を挟み、東西で向かい合っていた四人の選手が、まずは各々の正面にいる相手めがけて「第一撃」を放つ。

 彼らの所属イメージに合わせ、青と黄色に着色された四筋の稲妻が、凄まじい雷鳴とともに空中で交差した。


「さあ、両者ともあいさつ代わりの一発! ただ、デビュー戦で緊張しているのでしょうか……ストームボックスでは頻繁に600GVを叩き出していたハンプトン・汐見ペアも、初撃はともに500GV以下! 雷の軌道もジグザ……失礼、実に『ナチュラル』で、お世辞にも美しいとは――」


 それ以上の発言は、二人の熱狂的なファンが許さなかった。「グラシエ」の彼女とは違い、このMCが観客の目の届く場所にいない理由がよく分かる。いきり立つ男性陣の怒号にうんざりしたように、ヒカルはうなだれた。


「……うるさいなあ」

「いろいろと文句言うわりに、競技自体にはずいぶん詳しいのな。お前、それなりに観戦にも来てるだろ?」


 ヒカルは重く頷いた。


「……難しいんだよ。心の底から何かを『嫌い』になるのって。それなりの情報を見聞きした上でないと、ただの『無関心』で終わっちゃうからね」

「何でもいいけど、チケット代は返ってこないぞ」

「そうだね……じゃあ、今日で最後にするよ。兄さんの返答次第でね」


 トオルは少し身構えた。

 弟の口から次に発せられる言葉が、今日ここに自分が連れてこられた「理由」であることは間違いない。


「ああっと!」


 しかし直後、大きな雷鳴とMCの叫びによって、二人の会話は中断した。


「ハンプトン選手、急接近した北村選手の稲妻を受けきれません! なんと、開始三十秒でロッドを落としてしまいました!」


 大勢の溜め息とともに、ハンプトン選手の失格を告げるブザーが鳴る。間髪入れず、「100」という数字が窓ガラスいっぱいに映し出された。


「北村選手、プロ通算100奪槍達成です! おめでとうございます!」


 完全アウェイの中、それを祝わなければならないMCも可哀想だ。客席はMCの不粋さに憤る声と、残る汐見選手を応援する声が半々といったところか。


 しかし、汐見選手の置かれている状況は、素人目に見てもかなり厳しかった。デビュー早々、二対一に追い込まれた彼女の不利は明白で、ぎこちないボードさばきで空中を右往左往する様子は、まるで上京したての女子高生のようだ。一方、さっき獲物を仕留めたばかりの北村選手は、汐見選手の背中を肉食動物のごとく執拗に追い回し、彼女に息をつかせまいとしている。両者が使っているアクロボードにも性能差があるのか、ものの数秒で、二人の距離は互いのロッドが触れ合う程度に縮まっていた。


「北村選手、汐見選手にぴったりと張りつき、南へと追い立てていきます! 相方のソジュン選手は……鉄塔の後ろで沈黙を守っていますね」


 二人そろって彼女を追いかけるのかと思いきや、じっと後方で待機しているソジュン選手の姿に、トオルは違和感を覚えた。「雷」という、並みの弾丸よりはるかに「射程」の長い武器を操るスポーツである以上、それなりに離れていても後方支援はできるのかもしれないが……モニターによると、その距離はまもなく一キロに届こうとしている。競技場であるブランク自体が、半径十キロもある巨大な円であるとはいえ、こうも間が空くと「戦線離脱」と取られてもおかしくない気もする。


「あの人、何してるんだ?」

「……風だよ」

「風?」

「MCが言ってただろ。北村が汐見を『南』に追い立ててるって。モニターにも出てるけど、今の風向きは北から南に設定されてる。つまり、風下さ」

「……それがどうしたよ。まさか『雷が風に乗る』なんて言わないよな?」


 ははっ、とヒカルは笑った。


「兄さんもメルヘンだね。普通、雷は空気中の『電気抵抗』が少ない部分をかいくぐって進む。だからジグザグにもなるし、それを選手一人の『意思』で直線やカーブ状に変えるなんて、こんな競技のために科学者たちが心血を注げるようになった『現代』だからできることだよ。それでも、動き回る相手に雷を当てるのは、きっと僕たちが考えている以上に『難しい』」


 ヒカルはそう言うと、中継カメラの映像ではなく、窓の向こうを直接指さした。


「だから、敵の動きは『縛る』必要がある。ああやってね」


 そこでトオルが目の当たりにしたのは、ソジュン選手の腕からほとばしった強力な稲妻が、さび付いた鉄塔を直撃する瞬間だった。その破壊力は凄まじく、塔の上半分を構成している鋼管のほとんどと、側面に取り付けられていた巨大なロゴマークを、爆破解体のごとく一瞬でバラバラにした。危険な瓦礫となったそれらが、暴風に乗って「南」に向かうのを見て、トオルはようやくソジュン選手の意図を知る。


 いや、それは打ち合わせ済みの「作戦」だったのだろう。彼のペアである北村選手が、同じタイミングで敵を追うのを止め、あっさり東側へと「避難」したことが良い証拠だ。対する汐見選手は、猛スピードで飛んでくる瓦礫をロッドで払いのけつつ、ボードを下に向けて急降下した。その判断が一歩遅れていれば、彼女は大きな手裏剣のように飛んできたロゴに身を切り裂かれていたはずだ。


「……あっ」


 次の瞬間、トオルは冷静に「やばい」と感じた。

 その感覚は、安全な立場にいて、カメラ越しにすべてを見渡せる「観客」だけの特権だ。巣から燻り出された女王蜂にとどめを刺すように、北村選手の青い稲妻が走る。


「レイントの北村、待ち構えていました! 二人目も撃破!」


 MCが叫んだ。線の細い汐見選手の身体がボードから滑り、まっさかさまに落下する。稲妻が相手に直撃したことを示す「Thunderstruck!」という言葉が、客席の至るところに表示された。


 しかし、彼女を待ち受けていたのは単なる「敗北」ではなかった。深緑色のパラシュートが開くと同時に、トオルはその「異常」に気付く。


「危ない!」


 そう叫んだところで、何かが変わるはずもない。地面との距離が近く、パラシュートが開ききる前に、汐見選手は森の中へと落ちていった。その後、試合終了のブザーが鳴り、鉄塔やピラミッド、そして二人のサンディア選手を呑み込んだ森は、文字通りアイスクリームが溶けるように消えてなくなる。


 更地へと戻ったブランクにぐったりと横たわる汐見選手と、そんな相棒の姿を見て、大急ぎでボードに跨ったハンプトン選手。大雨の中、かなぐり捨てられたそのヘルメットの下に現れたのは、なるほど、大勢のファンがいるのも頷けるほど顔立ちが整った女性の、ひどく悲痛に満ちた表情だった。


「……話が途中だったね」


 新人選手への「洗礼」というには無残すぎる光景に、客席は失望の声に包まれている。にも拘わらず、ヒカルの声はどこか誇らしげだった。


「改めて言わせてもらうよ――まさか、こんなバカな競技を『やる』つもりはないよね?」



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