承諾
「××××!」
エベレアの叫びが耳鳴りにかき消された瞬間、トオルはシールの同時通訳機能に搭載されている「自主規制モード」がオンになっていることを思い出した。
右手を彼女に引っぱられながら、無人の目抜き通りを地面すれすれで飛行する。
「私もマッチング運が悪いわね……彼はチーターよ」
「チーター?」
「危ない!」
人生初のアクロボードに乗っている自分を突き飛ばすという、非人道的な行動をとったエベレアに対する怒りを鎮めてくれたのは、レーザーのように一直線の軌道を描き、背後から顔のすぐ横をかすめていった青い稲妻だった。
稲妻は地面に生えていた赤いポストに直撃し、ゴーンと鐘を打ったような音を響かせる。直後、目の前に表示された『NEW RECORD:990MV』という数字を見て、エベレアは失笑した。
「なんですか、これ」
「……電圧の記録よ。あなたが今乗っているアクロボードを動かすのに必要な電圧が100万ボルトで、ちょうど1メガボルト(MV)。さっき私が撃った稲妻なら……大体300MVってところね」
「じゃあ、990MVって……」
「9億9千万ボルト。超がつくほどの高電圧ね。電圧は高ければ高いほど、より遠くに届く稲妻を放つことができるわ。そのぶん、軌道やスピードを自分の意思で制御することは難しくなる。逆に低電圧の稲妻は、自由に動かしやすいぶん、離れている相手には当たらない。そんな一長一短を、ライフルとピストルみたいに使い分けるのが『普通』なんだけど……」
一転、その声は冷ややかなトーンへと振れる。
「そりゃあ、新記録くらい出るでしょうね! まっすぐな軌道を維持しつつ、あんな遠くからここまで届く稲妻なんて、絶対あり得ないもの」
語気を強めた後、彼女が小さく鼻をすする音をトオルは聞き逃さなかった。
「えっ、泣いてます?」
「もちろん泣いてないわ。ただ、『パラシュートがダサく見える』なんて軽く言ったことを後悔してるだけよ」
もはや負けることが決まったような口ぶりだ。残念ながらその絶望感を共有できるほど、トオルはまだこの競技への親しみを持ち合わせていない。
だが公式戦はおろか、現実ですらないゲームにおいて、チートを働いた相手への敗北をそこまで悔しいと感じられるエベレアの姿に、トオルは驚いた。
一方、相手のチートはたがが外れたように加速していく。壊れた回転砲台のごとく、全方位に向けて「鋭い」稲妻をまき散らすその姿を見て、さすがにトオルも不正の匂いを感じ取った。
しかし、量産される「新記録」より恐ろしかったのは、合間をぬって反撃したエベレアの稲妻が、長さとして向こうの半分にも及ばず、記録された電圧もわずか「710MV」だったことだ。
「いっとくけど、これが普通だから!」
それが最後のセリフだった。「避ける」ことが選択肢に入らないほどの速さで、一直線に向かってきた電撃を、エベレアは例によって的確に受け流したはずだった。
新記録を騙る稲妻が、人間の手では耐えきれない衝撃をロッドに伝え、彼女の手からそれを弾き落とす。ロッドは激しく回転し、アスファルトを突き破って大地に深々と刺さった。
「あっ……」
自らの墓標と化した槍を見つめ、エベレアは石のように硬直する。彼女自身が言った「相手のロッド、あるいは相手自身を地面に触れさせる」という勝利条件の通りなら、彼女はこれで退場だ。判定を知らせるブザーだって鳴っている。それで十分なはずだった。
「ゔっ」
丸腰のまま空中に留まっていたエベレアを、続けざまに飛んできた稲妻が無慈悲に貫く。
素人目にもスポーツマンシップに反する行為だったが、チーター相手にそんな言葉は意味をなさない。
刹那、ぐらりと揺れ、真っ逆さまに落ちていくエベレアの首筋に、トオルはきらりと光るものを見た。
落雷の衝撃でずれたヘルメットからはみ出した、滑らかなブロンドの髪。クラブで会った時から気にはなっていたが、わずかに焦げ上がったその毛先は、彼女が実際の試合でも多くの稲妻を浴び、敗北を喫してきたことの証なのだろう。
「……××××」
二回目の耳鳴りを残し、エベレアは消えた。汚い言葉を吐きながらも、先にロッドが落ちたことによって、自身の「パラシュート姿」を見られる前にゲームを抜けられたことは、本人が一番ラッキーだと思っているはずだ。
いや、他人事ではない。案の定、二匹目のどじょうを狙いに来た規格外の稲妻に対し、トオルが見よう見まねで構えたロッドは、いとも簡単に吹き飛ばされる。エベレアですらそうなったのだから、当然だ。
「……あれ?」
トオルは首をかしげた。ロッドがコンクリート製のビルの屋上に突き刺さっても、敗北を告げるブザーは聞こえてこない。どうやら、本物の地面に触れない限りは「セーフ」という扱いらしい。
ならば、身を守る槍を失ったとはいえ、相手にそれを奪われる心配もなくなったこの状況は、決して不利ではないのかもしれない。幸い、ロッドはおそらく人の手では抜けないほど、しっかりとビルに食い込んでいる。
——と、一丁前に考察してみたものの、トオルはすぐにその考えが浅はかだったと知る。すでに実体として馴染んでいたビル群や電柱、歩道橋などの街全体が、それらが現れた時と同じく、光の骨組みと化した後、どろりと溶けるように消えてしまったのだ。
試合時間を示すタイマーを見る限り、ちょうど3分でフィールドがリセットされる仕組みらしい。
「はーん、よくできてるもんだ」
トオルは感心して呟いた。
刺さっていた場所を失ったロッドは、無論、まっすぐ地面へと吸い込まれていく。距離的にもボードの技術的にも、到底、取りに行くことはできない。それでも「アウトバーン」なるエナジードリンクのせいか、頭だけは必要以上に冴え渡っており、その光景はまるで綿ぼこりが落ちるようにゆっくり見えた。
暇だ——。
師を失い、槍を失い、ブザーを待つばかりの数秒間。
大あくびのために伸ばした腕を、そのまま見えない弓を引くような体勢に持っていったのは、純粋に「気が変わったから」だった。その矢じりを憎きチーターに向け、引き絞った右手を離してみる。不心得者への怒りと、ついでに、志半ばで散った「師匠」の仇も乗せて。
「……ばん」
そんなの、どう考えても弓の効果音じゃない。
しかし当たらずとも遠からず、直後、実際にトオルの耳に飛び込んできた雷鳴は、その一億倍ともいえる凄まじい音だった。膨張した空気に吹き飛ばされ、転落しそうになったところを、情けない体勢でボードにしがみつく。
視線を上げると、エベレアを貫いた稲妻と同じ、定規で引いたようにまっすぐで「不気味な」光が、チーターめがけて一気に突き進んでいくのが見えた。色が青ではなく赤だったことから、すぐにその発生源が自分だと気づく。
一方、相手はロッドを構えてすらいなかった。まさか反撃されるとは思っていなかったのだろう。
稲妻は直撃し、その身体はエベレアと同様、ボードからずるりと落下する。しかし彼のパラシュートが開いた、まさにそのタイミングで、やかましいブザーが響き渡る。トオルのロッドが、ようやく地面に触れたのだ。
『YOU ⅬOSE』
その文字が表示されたのを最後に、世界は暗転する。
光が戻ったとき、トオルはスタートした時と同じ、シミュレーションゲーム用のボックスの中にいた。
上映終了後、客席のライトが点いて現実に引き戻された時のような、なんとも不思議な感覚だ。
「……」
隣には無言のエベレアが立っている。正面のリザルト画面には目もくれず、その視線はトオルの顔に注がれていた。
「な、なんですか」
自前のヘルメットに交換している間も、彼女の睨みつけるような目は変わらない。トオルの顔半分を占める火傷の跡を見て、最初は悲鳴を上げたというのに。
「何なのよ、あなた」
でもそのセリフは、いくら何でもあんまりじゃないか。
「……いい加減にしてください。こっちはわざわざ付き合ってるのに」
右手の甲に貼ったシールに表示されている時間は、16時25分——そうだ、自分はいつまでこの人に付き合っているんだ。もう少し怒りのボルテージを上げれば、極めて「自然に」この場から立ち去ることもできるだろう。
「……帰りたくなった?」
エベレアが問いかけてくる。
「それはもう、最初から」
「いいわ。なら、最後にひとつだけ見てちょうだい」
千載一遇のチャンス。
エベレアはメインメニューから「RECORD」と書かれたページに飛んだ。「勝利」や「出場」などの容易に想像がつくものから、「撃墜」や「奪槍」という他のスポーツでは聞くことのないタイトルまで、さまざまな記録が網羅される中、彼女は迷いなく「HIGH VOLTAGE(高電圧)」という項目に触れる。
「……なんですか、これ」
「電圧の記録よ。ゲームでも現実でも、これまで1000MV以上の高電圧を記録した選手はいないわ。もちろん、さっきみたいなチーターは除いてね」
プレイヤーの名前、所属イメージ、日時がずらりとディスプレイに並ぶ中、彼女はひとつの名前を指さした。
「ここを見て。あくまでゲーム上の記録だけど、二位の『梶木ダイゴ』は現役のプロ選手で、980MVは四年間更新されていなかった記録よ」
「……じゃあ、一位の『gnk7482』って誰ですか?」
エベレアは浅いため息をつく。
「日時で一目瞭然でしょ。さっきゲストプレイヤーとしてログインした、あなたよ」
にわかに信じられなかった。991MV——トオルの記憶が正しければ、その数字はチーターが最初に叩き出した偽りの新記録より「1」大きい値だった。
だがさらに驚くべきは、二位以下のプレイヤーの名前の横についている星やら勲章やらの数。よく分からないが、おそらくゲーム内で相当実績を重ねてきた面々なのだろう。それらを差し置いて、何ら飾り気のない、ランダムな文字列で構成されたプレイヤー名がトップに鎮座している光景には、かなり違和感がある。
「……何かの間違いです。僕自身、まさか練習なしで稲妻が撃てるとは思わなかったけど……あれで一位? 今回が初プレイなのに?」
「現実ならまだしも、ゲーム上での誤計測の可能性は限りなく低いわ。もちろん、記録に不正があればBANされるし、データも残らない」
確かに、先ほどチーターが量産した記録の数々は、このランキング表には載っていなかった。
「でも、こう言っちゃあれですけど、たかたがゲームのハイスコアじゃないですか。僕、ブロック崩しでも出したことあるし……」
「……説明の順序が逆だったわね。このゲームの正式名は『ストラックボックス』。一般向けのオンラインゲームだけど、プレイ中の感覚は現実の試合とほぼ変わらないから、プロの選手も調整や肩慣らしに使ってるの」
まあ、それは理解できる。エベレア自身もそのようだし、まさかサッカー選手のリフティングと同じ感覚で、本物の稲妻を自宅でぶっ放すわけにもいかないだろう。一般人の方もプロと直接手合わせできるとなれば、さぞ楽しいはずだ。
「ゲーム内で優れた成績を残して、ここからプロデビューを果たす選手も多いわ。そういう人達は腕を鍛えながら、毎日血眼になって強い『相棒』を探している。サンダーストラックにはダブルス以外無いからね」
「まさか」
トオルは肩をすくめる。
「ええ、そのまさか」
エベレアはトオル側のアカウントを操作し、「通知」というコマンドを押した。
一度に表示されただけでも、既に三百件以上のメッセージがトオルのDM欄に送られてきている。
「『サンディアです。ペア組みませんか?』『レイント所属。プロ志望』『探したぜ相棒』『女です。連絡待ってます』『通報した』……いろいろ来てるわね」
「……ゲームには負けたのに。記録が一個出たくらいで、みんな無節操すぎませんか?」
「そりゃあ、みんな必死だもの。私も含めてね」
髪を前に垂らし、エベレアは自嘲的な笑みを浮かべる。
「あなたの言った通り、この七年間でサンダーストラックの市場規模は世界一になったわ。当然、報酬は多いし、第一線のプレイヤーになれば両手に余るほどのスポンサーがつく。でもね……」
彼女は神妙な面持ちになった。
「悪い意味で、これほど『簡単』にプロを目指せるメジャー競技も珍しいわ。気軽に遊べるゲームを通じて、あらゆる人間に門戸が開かれている一方、怪我でリタイアする選手の割合が、他のスポーツの比じゃないもの。せっかく組んだパートナーが、翌日に病院送りになることなんて日常茶飯事」
それに、とエベレアは続ける。
「シミュレーションの再現度がどんなに高くても、ゲームと現実は全然違う。毎年多くの選手がプロデビューするけど、そのほとんどは実際に命が賭かっているプレッシャーに耐えられず、ゲームとは別人のような成績で『爆死』してる。でもその緊張感をばねに、ゲーム以上の結果を残す選手も必ずいる。今回、あなたが叩き出した991MVだって、一昨年、梶木ダイゴが『現実』で記録した997MVには及ばない」
立て板に水といった口調に、トオルは思わず吹き出した。
「詳しいですね。プロってみんな記録マニアなんですか?」
「いいえ。私なんて、去年の自分の勝利数すら覚えていないもの。でもね、苦楽を共にした相手が残した数字って、しっかり頭に残っちゃうの」
トオルが「えっ」という声を漏らすと、エベレアは髪を掻き上げながら頷いた。
「梶木ダイゴ——彼は私の元・相棒よ」
その驚きが納得に変わるのに、さほど時間はかからなかった。確かに元・相棒の記録が、こんな素人中の素人にあっさり塗り替えられてしまったとなれば、「何なのよ」と毒の一つも吐きたくなるだろう。
「……分かりました」
「分かりましたって、何が?」
「ペア、組みますよ。エベレアさんと」
その一言で、エベレアは目を丸くする。
「別に、情熱が湧いてきたってわけじゃありません。それなりに稼げて、エベレアさん自身が僕に『才能』らしきものを見出してくれたなら、あえて断る理由もないっていう……それだけです」
返事は気持ちの込もった「ありがとう!」か、しっかりと溜め込んだ「ありがとう」か。安易にそのどちらかを予想していたトオルに、次の瞬間、アスリートの瞬発力を遺憾なく発揮したエベレアのハグを避けられるはずもなかった。
鎖骨に当たる柔らかい感触に興じる間もなく、トオルはアナコンダばりの強さで締め上げられる。
「そ、その代わり、二つだけ質問させてください! 早い話、僕はその『梶木ダイゴ』さんの代わりなんですよね?」
「……まあ、否定する方が白々しいわね。その通りよ」
「じゃあ、もう一つ。どうして……」
「どうして、彼と組むのをやめたか?」
さすがに想定内だったようだ。トオルが頷くと、エベレアはその身を解放した。
「そうね、客観的に見れば……私が『フラれた』ってことになるのかしら」
彼女はそっと、銀の風車が光る自身のネックレスに触れた。
「私がイメージに『ウィンディ』を選んだのはね、父の影響なの。本人には絶対言わないけど、自分以外の何にも染まらず、やりたいことだけに心血を注いで、一人でこの店を切り盛りしてきた父を、私は小さい頃から尊敬してる。『自由』は、そんな父が大好きな言葉。父がこのイメージを選んだから、私も同じ『国』に入りたいと思ったわ」
外にいる父親に声が聞こえるのを心配してか、長い足は自然とボックスの奥に移動する。
「でも、あなたも想像がつくと思うけど、四つのイメージの内、四割の人は大資本が集中するサンディアを選ぶ。次いで公的保護が手厚いレイント、貴族的なスノーク。ウィンディを選ぶ人はたったの1割。ただでさえ少ない人口の中で、肌の合うパートナーを見つけるのは至難の業だった……彼に出会うまではね」
「そんなに相性がよかったんですか?」
「それは、もう……」
言葉を失ったエベレアの表情に、一瞬、ほころびが生まれる。まだ名前しか知らない「梶木ダイゴ」の人となりが浮かぶようだったが、その柔和な表情はすぐに消えた。
「二人で練習して、怪我もたくさんして……最初は負けてばかりだったけど、最近、それなりに白星を稼げるようになったところだったの」
なのに、と顔をしかめるエベレア。ボックス内の壁にこぶしを付き、その上に額を置く。
「……引き留められなかった。サンディア以外のイメージで名を上げた選手が、その数倍の年俸でサンディアに移籍する話はよく聞くけど、正直、あんな額が来るとは思っていなかった」
背中に回したもう一方の手を、エベレアは固く握りしめる。
「お金に目がくらんだ、なんて言い方をするつもりはないし、彼の選手人生にそれ以上の価値を与えられなかった、私にも責任はあるわ。でも、彼が別れ際に言った言葉を、私は今でも許さない」
「なんて言われたんですか?」
「……『自由』を愛する君なら、僕の自由も許してくれるだろう? って。その場では何も言い返せなかったけど、あれは私のイメージそのものに対する侮辱よ」
その怒りは、先週、人生初のイメージ選択で「自宅近くのコンビニのコーヒーが三割引で買える」という理由だけでサンディアを選んだトオルには、共感しがたいものだった。ここ数年で従来の「国籍」に代わる地位を築いたとはいえ、これまで人類が経験してこなかった「イメージ」という全く新しい形のコミュニティに、これほど大きな愛を注いでいる人間がいることに、トオルは驚く。
「質問は以上?」
「あ、はい」
「本当に? まだ何かありそうだけど」
「……じゃあ、ついでに」
この時、トオルがどうしても聞きたかった、というより最初に聞かねばならなかった疑問を一つ、そっと胸にしまい込んだのは、より喫緊の問題が降って湧いたからだ。
「さっき、『現実』の電圧記録は梶木さんの997MVって言いましたよね。失礼ですけど……その試合、お二人は勝ったんですか?」
「妙なことを聞くのね」
「僕の人生に関わりますから。先走ってOKしちゃったけど……そういえば僕、あなたに『才能がある』なんて一言も言われてなかった」
「……そうね。残念だけど、答えはNOよ。むしろその試合、私たちはボロボロに負けた。ピッチャーの球速だって、速いからといって絶対に打たれない訳じゃないでしょう? サンダーストラックも同じで、高い電圧を出せる選手が必ず勝てる訳じゃないわ」
心変わりされては困るとばかりに「とんでもない! あなたは才能の塊よ!」などと安いお世辞が聞けるかと思いきや、その気配は全くなかった。
皮肉なことに、その隣ではトオルのゲストアカウントに寄せられたラブコールの通知が、今もうるさいくらいに鳴り続けていた。