第六話 リミニアとユシェル その三
リミニアとユシェルは、居住区であったと推測される領域に足を踏み入れていた。
住まう者を失った建造物はところどころ崩れ、壁には植物を茂らせている。かけられた保護の魔術がそれを許すには、どれくらいの年月を要したのか。リミニアはその壮大な時間のスケールに思いを巡らせていた。
「物悲しいけれど、神秘的な光景でもあるわね。魔物さえ出なければ、この景色をもっと楽しめるのだけど」
「うん……胸がギューってなる景色だね」
「ふふっ。その感覚、分かるわ」
ユシェルと言葉にしがたい感覚を共有できていることが、リミニアは嬉しかった。
「でも、あまり見とれていると私の世界に辿り着くのが遅くなってしまうわね。あなたを早く送り届けたいのもそうだけど、私の帰りを待っている人もたくさんいるもの……」
「……」
「……ユシェル、どうしたの? 何か見つけたのかしら?」
ユシェルが足を止め、リミニアは振り向いた。
「……リミニア、ずっとこの世界にいようよ……」
その呟きがリミニアに届くことはなかった。
臆病なユシェルに、それを届かせることはできなかった。
「今日は、何の授業にしようかしら。ユシェルが決めてもいいのよ?」
「……じゃあ、ふまりょくとまものについて、教えて」
「あら、前の説明では足りなかったかしら? うーん、そうね……」
リミニアは珍しく、困った顔をした。
「本当のことを言うと、負魔力が何なのか、魔物がどこから生まれたのかは、あまりよく分かっていないの。負魔力は魔物の体内にあって、魔力と反応して消滅する。魔物に食べられた人間が、すべての負魔力と反応できる魔力を持っていないと死んでしまって、余った負魔力が魂に溜まる。溜まった負魔力は魂を傷つけて、傷ついた魂を持って生まれた者は負魔力病という病を患う。負魔力病の患者は次第に身体と精神が衰えていって、最後は魔物へと姿を変える……」
「……じゃあ、それのくり返しで、どこからふまりょくを持ったまものが生まれたのかは分かってないんだね」
「ええ。私達の世界で最初に観測されたのは、楽園時代を終わらせた大災害、魔物の大量発生だけれど……私は、この世界から移動してきたのだと思っているわ」
「……まものは、リミニアの世界の人たちを、困らせてるの?」
「そうね。今では、魔物化を止める魔術が開発されたけれど……それは傷を利用して魂を消滅させるという魔術で、患者は死んでしまうわ。それでも、本来は魔物に姿を変えるまで死ぬことすら許されない病だから、安楽死できる分だけまだ救いはあると思いたいわね」
「じゃあ、さっき言ってたくり返しは、今は無くなったんだね」
「ええ。最後に観測された魔物の発生は、二十五年前。最後の魔物はとても強大に成長して消滅させられなかったから、遺跡に追放するのがやっとだったそうよ」
リミニアが遺跡を調査する間には出現しなかったが、最後の魔物は遺跡の調査が困難と言われている大きな原因だった。
「……まものになるのを止めるまじゅつを作った人は、とってもえらいね」
「ええ、ライナ・ハント・セドネーという女性よ。けどライナは、最後の魔物が現れてから数年経った頃に、行方不明になっているわ。術印を刻めない人でも使える魔術や、負魔力病患者の安楽死の魔術や、通信機を開発した天才だったらしいのだけれどね……」
「術印が作れなくても、魔術を使えるの?」
「他の人に、空術印っていうものを用意してもらえれば使えるわ。発動する分の魔力が伴わない術印のことで、これがライナの最大の発明と言われているの。そのままでは意味をなさないけれど、魔力を注ぐと発動するわ。通信機の原理もこれよ。ライナは固有魔術、“魔術解析”を持っていたけど、それが彼女の才能に影響していたのでしょうね」
「……そのこゆうまじゅつは、今は見つかってるの?」
「いえ、見つかっていないわ。だから、彼女が亡くなったという証拠は今のところはないわね。遺跡調査に行って、最後の魔物に襲われて亡くなった、という噂はあるらしいけど……」
「……」
「……どうしたの、ユシェル? もしかして、もう眠いのかしら?」
ユシェルが少し俯き、リミニアは心配した。
「ううん……ねえ、リミニア」
「ええ、何かしら?」
「……もし、だれかのせいでまものが生まれたんだとしたら、リミニアはその人のことをきらいになる?」
「……」
突然の質問にリミニアは面食らったが、素直に答えることにした。
「……ふふっ。実は私、人を嫌うことができないのよ。どんな人でも、悲しんでいれば私も悲しいし、喜んでいれば私も嬉しいわ。だから、嫌いになれないわね」
「そっか……じゃあ、もし、だれかが生きてるせいでまものが生まれてくるとしたら、リミニアはその人が生きるのを許す?」
「……」
リミニアは目を細め、顔を俯けた。
「そうね……許したいわ。どうにかして、その人が生きていても魔物が生まれてこない方法を見つけたい。……でも、見つからなかったら、許せない」
「……」
「どうしたって、救う人間を選ばないといけないときがあることは分かっているわ。人を嫌うことができるなら、そのとき少しは楽なのでしょうね……」
「……その人が、お父さんやお母さんでも、タノス先生でも許せない?」
「……ええ。私は、救える人数が多い方を選ぶわ。それは、私のわがままでしかないけれど……」
「……そっか。リミニアは、優しいね」
「えっ?」
リミニアは目を開く。ユシェルは微笑んでいた。
「だって、許せない人のことも、きらいになれないんでしょ? リミニアは、優しいよ」
「……それを優しさとは呼べないわよ。裏を返せば、多くを犠牲にしてでも救いたいほど好きな人も、私にはいないということだもの」
「それでも、優しいよ。みんなに許されなくてぎせいになる人も、リミニアみたいな人がいるって知ったら、心は救われると思うよ」
「そうかしら……」
「……うん。それで救われない人は、欲張りだよ」
「……」
リミニアは生来、憎しみという感情が欠如していた。私欲のために罪のない人々を殺めた極悪人の死すら、彼女にとっては悲しむに値することだった。むしろ、そうした憎まれる者たちを、憎しみを埋め合わせるように愛することこそ、彼女の望みだった。
しかしリミニアは、それが正義に反することを理解していた。より多くの悲しみを生むことを理解していた。そうして悪人の苦しみに心を痛めながらそれを見捨てるたび、彼女は憎しみというものが合理的な感情であることを痛感した。
リミニアはユシェルを愛している。彼の愛らしい容姿と振舞いだけが、その理由ではない。彼女は、孤独に苦しんできた彼にとっての、救いでありたかった。
だが、もしユシェルを苦しめることが、多くの者を救うのだとしたら? もしくは、彼を救うために、多くの者を苦しめなければならないとしたら? そんな可能性があるかもしれないという考えが、リミニアの脳裏をかすめることがあった。そのたびに彼女は、すぐにその考えを振り払ってきた。
だからユシェルの問いかけは、リミニアの心をざわつかせるものだった。だが彼女の回答に対する彼の反応によって、そのざわつきは弱まった。
弱まったことが何を意味するのか。自分がそれを考えるのを避けていることに、リミニアは気づかない。
「ねえ、リミニア……外に出ていい?」
「あら、どうして?」
「……星を見たいんだ」
「ふふっ、いいわね。最近は夜も暖かくなってきたもの。私も付き合わせてちょうだい」
リミニアはユシェルの隣に座り、自分の世界のそれとは違う星空を見上げ、かつてこの世界に生きていた、滅んだ人類に思いを馳せていた。彼らも、この星々を見上げていたのだろう。
「この世界は、魔物に滅ぼされたのかしらね……」
「……そうかもね」
それとは逆に、滅びた人類が魔物に姿を変えた結果が、この世界の今の姿なのかもしれない。その真偽を確かめるすべをリミニアは持っていなかったが、一つ確かに言えそうなことがあった。
「滅びる前のこの世界は、楽園だったのでしょうね」
「うん……」
この世界の建造物群は、リミニアの世界の、楽園時代の遺跡とよく似ていた。空間をできるだけ有効に利用する、入り組んだ立体的な構造。強固な保護の魔術。人類が普遍的に魔力を持っていなければ、実現は難しいだろう。
「リミニアは、世界を楽園にもどしたいんだよね」
「そうね。それが叶わなかったとしてもせめて、楽園を終わらせたような災害が、再び起こらないようにするのが、私の目標よ」
「……」
「もちろん、楽園を諦めているわけではないわよ?」
すべての人を救いたい。
だからリミニアは、楽園を探し求めた。かつてあったものは、再び築き上げられると信じた。
「……そうよ、諦めてなんていないわ! ふふっ、テントの中では弱音を吐いてしまったわね。絶対に、みんなを救ってみせるわ……ユシェル、もちろんあなたもよ」
「……ありがとう……」
「そのためにも、早く私の世界に戻らないといけないわね。明日の早起きのために、そろそろ寝ましょうか」
リミニアは立ち上がるが、ユシェルは座ったまま、星空から目を逸らさない。
「……リミニア、ずっとねてないんだよね?」
「ええ。もしかして、心配してくれているの? 大丈夫よ、ユシェルのためならどんなことでも耐えられるわ」
「……ぼく、まだ星を見てたいから……リミニアは、ねてていいよ。この辺りのまものは、みんなやっつけたんでしょ?」
「……そのはずだけれど、万一のことがあったら……」
そこまで言って、リミニアはユシェルの望みに気づいた。
「……分かったわ。先にテントに戻るけれど、起きているから何かあったらすぐに呼んでちょうだい。あまり遅くならないようにするのよ」
リミニアは微笑みかけて、ユシェルから離れていった。
「……」
燦爛たる星空の下、ユシェルはうずくまり、地面に顔を向けていた。
リミニアは、ユシェルの本心にどこまで気づいていたのか。彼にそれを知るすべはなかった。
「リミニア……ぼくを救ったら、みんなのことは救えないんだよ……」
か細い震え声が、ユシェルの口から漏れる。
「……ぼく、おくびょうなのに、欲張りだ……」
一筋の涙が、ユシェルの目からこぼれる。
「……お願い……ぼくを選んで……っ」
その呟きがリミニアに届くことはなかった。
臆病なユシェルに、それを届かせることはできなかった。




